愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

「最終章」?橋下「維新の会」旋風にやられないための知恵、自民も民主もダメならば何が・・・

2012-02-25 | 橋下都構想

橋下「維新」旋風は、性格は日本のマスコミとどのように闘うか、それに尽きるかな?マスコミの教唆扇動によって、あたかも国民の「世論」のような「錯覚」「幻想」が日本国中に生まれている。

復興宝くじが一日で70億円も売られたと新聞が報道していた。国民の善意もあるが、もう一つは、国民生活の閉塞状況だろうな。夢を買っているのだろう。
宝くじは「買わなくては当らない」というコピーがCMで流されていた。嫌なら買わなければ良いのだ。だが、CMが流されることで、あたかも「当る」かのような錯覚に陥るのではないか?「当る」かもしれないから、とりあえず買っておこう。外れても復興資金になる。カンパのつもりなのだ。

これそのものは人間の良心の一面を示している。

だが、復興は、本来は政府の責任でやるべきことだし、政策によって大儲けした大企業・財界が出すべきことだ。それが本来の「身を切る」ということだ。それは廻りまわって企業の利益にもなるから、躊躇せずやれば良いのだが、日本の企業や政府はそういうことはしないで、公務員バッシングを煽って、利用して、「公務員賃金を復興に回す」とか「増税によって復興に回す」とか、「法人税減税によって景気回復を」などとごまかしているのだ。だが実際は法人税減税をしても、景気は回復してこなかったし、企業はどんどん海外に出ていったではないか。公務員賃金を下げても民間賃金は上がらなかったし、むしろ所属税収入が減ってしまったではないか。

さらに直近では今もって被災地にカネが廻っていないことを首相自身が認めなければならないほど、迅速性という点でやる気のなさを証明してしまった。政府とそれを支えている財界の手法の嘘っぱちぶりが証明されてしまった。

こうした手法は、手品のマジック、別の言葉で言えばトリックと言える。そのマジックやトリックが見抜かれないように必死になって、毎日毎日ウソを垂れ流しているのだ。

マスコミや自民党などは、野田政権を批判して見せているが、その批判は「もっと早く悪政をやれ」と激励しているに過ぎない。財界やアメリカなどはちっとも困ってはいないだろうな。

こうして一見すると「政治不信」が醸成されているかのように見えるが、実際は「アラブの春」のような大変革が起こらないようなトリック、装置なのだ。

橋下「維新」は、そうしたウソが見抜かれないようにするために、「既成政党」への批判勢力として、また新興勢力として毎日毎日ウソを垂れ流されているのだ。

そのウソを検索してみると判る。それは「維新」という言葉が使われた時には必ずついて廻る言葉をみれば、よく判る。それは何か、「復古」だな。

明治「維新」の時は、「王政復古の大号令」で使われたように「諸事神武創業ノ始ニ原キ」=天皇制だった。それが今でも続いている。

昭和「維新」の時は、二大政党政治腐敗・行き詰まり・国民の不満を天皇制軍国主義によって変えていくことだった。「国家社会主義」から「国家総動員」体制だった。天皇制がより強化され、アジアへの侵略を正当化するために、行き詰まった大陸侵略を「東亜新秩序建設」とごまかし、欧米の反撃に対しては「ABCD包囲網」などの「脅威論」が煽られ、「欲しがりません、勝つまでは」「日本人なら贅沢はできないはずだ」などと国民をその気にさせたり、「非国民」「国賊」のレッテルをはったのだった。

では平成「維新」はどうか?「船中八策」の一部をみれば、「復古」は浮き彫りになる。
道州制導入、TPP参加や竹中平蔵元蔵相礼賛など、新自由主義政策の推進、日米同盟推進や憲法改悪などをみると、旧い政治の枠組みの範囲内の政治が見えてくる。

それは「日の丸・君が代」の意味や由来、果たして来た歴史と役割などを教えず、「命令」によって従わせようとすることなどは、旧い体質そのものだ。「嫌なら公務員を辞めろ」は旧憲法的発想だ。

しかもこうした手法は、国民の閉塞感と不満を解決するかのような「新しさ」「勇ましさ」を装いながら、「強いリーダーシップ」「決定できる民主主意」などのプロパガンダをマスコミを使って垂れ流しているのだ。だが、こうした手法は、戦後幾たびか繰り返されてきた。

70年代初頭、ロッキード事件などによって自民党の信頼が崩れ、共産党が躍進し安保廃棄、大企業への規制、憲法擁護の課題を軸にした自民党に変わる政権構想が各党から出された時、「新自クラブ」の登場だ。だが、彼らは自民党に戻ることになった。

90年代は佐川急便、金丸金脈など政治不信が極点に達した時、熊本県知事だった細川護熙知事がつくった「日本新党」の登場だ。「政治改革」を標榜して小選挙区制と政党交付金制度をつくった。この時も「政権交代をめざす二大政党政治」がコピーだった。だが肝心の要の細川首相自身が佐川急便と関係しいたことで、あえなくダウン。以後「新進党」をはじめとして政党の離合集散が繰り返された。55年体制が「崩壊」したと言われたが、政治の枠組みは自民党的枠組みだった。

こうした手法は90年代後半、談合によって誕生した森内閣への批判をかわすために、自民党政治を「ぶっ壊す」「改革には痛みが伴う」「備えあれば憂いナシ」と叫び、劇場型政治を演出した小泉構造改革誕生の時に、再び繰り返された。

さらに、2000年代後半には、小泉内閣以後、小泉構造改革の化けの皮が剥がれつつあった時の自民党短期政権への批判を「国民の生活が第一」と煽り、「マニュフェスト」に期待を集めさせ、「二大政党政治による政権交代」というプロパガンダによって政権交代に集中させ「官僚政治から脱却」「政治主導」「事業仕分け」などと期待を持たせた時と同じパターンなのだ。

だが、それらはまさに「方便」だったのだ。政権交代のための。国民の運動によって起こるだろう「瑞穂の国の春」を先送りするためのトリックだったのだ。

その装置は「今」も続いている。どんな現れ方をしているか。それは国民の期待を実現しようとする勢力と民主党内にある構造改革派の矛盾(綱引き)によって「国民の生活が第一」政策が具体化できないという事態だ。

こうした事態を「政治が前に進まない」「党内がまとまっていない」「指導力がない」「早く早く」などの「批判」を展開することで政治不信を煽っているのだ。

こうして「既成政党だらしなさ」論(観)が醸成されているのだ。事実、国会で挙げ足ばかり取る自民党の支持率は一向に向上していないし、政権復帰は望めそうにない。自民党自身が民主党路線と同じだから、政策の根本的違いを見せることができないからこそ、揚げ足とりになるのだ。その場面ばかり見せ付けられた国民がどのような感情を抱くか、一目瞭然だ。

民主党が連合を基盤にした政権であるならば、連合はストでも打って「国民の生活が第一」の実行を迫っていくべきだろうが、労使協調路線だから、そういうことはしない。むしろ消費税増税を迫っているのだ。

だから根本的違いを見せている共産党や全労連を登場させると、それらの違いが国民に判ってしまう。国民の不満が共産党へ流れることだけは避けたいので、黙殺するのだ。これは細川新党のときに経験していることだ。

こうした状況のなかで、橋下「維新の会」が自民党を離れた議員たちを母体につくられ、そこに橋下府知事が加わり、「維新の会」と言えば誰でも当選してしまうような世論操作が行われたのだ。これは都議選の時「民主党」というだけで当選してしまった新人候補者がいたのと酷似している。

政治によって生活苦が改善されず、ますます酷くなっていく生活におびえ、嫌気のさした国民が、「既成政党」批判をして彗星のように登場してきた「維新の会」を宝くじを買うように一票を投じるのは当然だな。このことは「アラブの春」のように街頭に出てデモや集会をやるのではなく、劇場型政治の「観客」として、政局報道の「世論調査」の対象国民として、マスコミを眺め、時には街頭インタビューに応えていることで政治が変わってくれれば、こんな楽なことはない。

だが、ブレイクした俳優や芸人、流行がコロコロ変わっていくように演出された劇場型政治は、手を変え品を変えても、国民の生活自身が変わらない、いやむしろ悪化していくのだから、不満や要求はますます熾烈になっていく。それは政治の本質が旧態依然だからだ。

だからこそ、ますます刺激的なパフォーマンスを求めていくのだ。橋下市長の言動と「政策」は、こうした現実を背景にしているのだ。

そのような時、「朝日」(24日)に「小沢民主党元代表に聞く」が掲載された。小沢批判を展開していた「朝日」が裁判の動向の変化で登場させたようだが、小沢元代表は
「国民に税負担を強いる前にやることがある。自民党と同じ制度に乗っかったまま『カネがない。だから増税』では国民は理解しない」
「予算編成は自民党時代と同じ各省の積み上げ方式で、政策の優先順位は全く入っていない。補助金と政策経費など優先順位をつけることのできる予算が毎年30数兆円ある。いらないものを廃止すればよい。統治機構を根本から変えて中央集権体制から地域主権体制へと抜本改革すれば、二重三重の行政のムダを省ける」
「彼(橋下市長)は小泉的な大衆を引きつける力と、小泉氏にはない理念的なものの考え方を持っている。かなりの人物だと思う」
「(「船中八策」)見せてもらったが、『決定できる責任を負う民主主義・統治機構』『自立する個人、自立する地域、自立する国家』という主張は全く同感。我が意を得たりだ。旧体制を壊して新しい仕組みをつくらないと本当の改革ができないという考えも全くその通りだ」
と述べている。

小沢一郎氏こそ、自民党政治の行き詰まりに対して、新しさを装いながら、政界・政党を壊しながら、新しい政界・政党をつくり、化けの皮が剥がれると、別の政界・政党をつくり、国民の批判をかわしながら、政界・政局のキィーパーソンとして君臨してきたのだが、その新しさを装いながらマスコミに扇動され育てられてきたのが、まさに橋下「維新の会」なのだ。それが小沢元代表に「全く同感。我が意を得たり」と言われてしまうのだ。やはり根っこは同じだ。興味深い。

さてもう一つ。「旧体制を壊して新しい仕組みをつくらないと本当の改革ができない」「統治機構を根本から変えて」って、これって革命をめざす共産党のこと?かと思ったら、保守を自認する小沢元代表だったのだ。しかも「既成政党」批判を展開している「橋下維新の会」なのだ。

「今」国民は、自民もダメ、民主もダメと言い、「無党派層」という勢力が調査によっては7割にもなるような意識状態がある。橋下「維新の会」を求める世論がうなぎのぼりだ。影が薄くなってきたみんなの党は必死になって「本家はこっちだ」と言わんばかりに、橋下「維新の会」に擦り寄っている。惨めだ。同時に石原新党など、「既成勢力」は橋下「維新の会」の政権構想であるらしい「船中八策」に刺激されて競って「既製品である憲法改悪」を唱えはじめてきた。

小沢元代表の「今」は、こうした状況を計っているのだろう。そういう言葉に溢れていたインタビューだったと思う。

共産党で言えば、どうだろうか?ならば、共産党は国民にどんな政権構想を、「今」提起するか。それが試されているのかもしれない。「共産党はそんな力はないから、幅広い人たちと一致する要求課題にもとづく政権構想を提起しない」というのであれば、国民は他の政権構想に惹かれて、その勢力に一票を投ずるだろう。この間の40年の歴史が、特に90年代後半に820万人もの人たちが共産党に一票を投じた歴史が教えている。

そこで、共産党についてだが、大雑把に言えば、共産党は、「民主連合政府」をつくると言っている。これそのものは小沢・橋下流に言えば「統治機構を根本から変えて」いく方向を提起したものになるだろう。詳しくはhttp://www.jcp.or.jp/jcp/Koryo/参照を。そこではこう述べている。

当面のさしせまった任務にもとづく共同と団結は、世界観や歴史観、宗教的信条の違いをこえて、推進されなければならない。・・・統一戦線の発展の過程では、民主的改革の内容の主要点のすべてではないが、いくつかの目標では一致し、その一致点にもとづく統一戦線の条件が生まれるという場合も起こりうる。党は、その場合でも、その共同が国民の利益にこたえ、現在の反動支配を打破してゆくのに役立つかぎり、さしあたって一致できる目標の範囲で統一戦線を形成し、統一戦線の政府をつくるために力をつくす。

「さしあたって一致できる目標の範囲」というのが、赤旗で言えば「一点共闘」ということだろうか?だが、世の中は橋下「維新の会」の会の政権構想である「船中八策」でうごめいているのだ。これをデタラメというだけでは、変革の好機を活かすことはできないだろう。

ところで共産党は、今「資本主義の枠内で可能な民主的改革」を強調している。大雑把に言えば、以下のようになるのだろう。

天皇制も「『国政に関する権能を有しない』などの制限規定の厳格な実施を重視し、天皇の政治利用をはじめ、憲法の条項と精神からの逸脱を是正する」と現憲法を尊重擁護する立場から認めている。
自衛隊は「海外派兵立法をやめ、軍縮の措置をとる。安保条約廃棄後のアジア情勢の新しい展開を踏まえつつ、国民の合意での憲法第九条の完全実施(自衛隊の解消)に向かっての前進をはかる」
共産主義といえば企業の「国有化」と思い浮かべる国民が多いかも知れないが、そんなことは言っていない。「大企業にたいする民主的規制を主な手段として、その横暴な経済支配をおさえる」として「国民の生活と権利を守る『ルールある経済社会』をつくる」と述べている。

「アメリカへの事実上の従属国の地位から抜け出し、日本国民は、真の主権を回復するとともに、国内的にも、はじめて国の主人公となる」「日本の社会発展の次の段階では、資本主義を乗り越え、社会主義・共産主義の社会への前進をはかる社会主義的変革」の「課題」として「主要な生産手段の所有・管理・運営を社会の手に移す生産手段の社会化」を述べ、「社会の発展のあらゆる段階を通じて、私有財産が保障される」と、企業を廃止して国有化するなどとは一度も言っていない。東電の「国有化」に最も反対しているのは、共産党だろう。

さらには地方政治では「『住民が主人公』」を貫き、住民の利益への奉仕を最優先の課題とする地方自治」の「確立」をめざすと「自立する地域」を掲げているし、「真に平等で自由な人間関係からなる共同社会」と」「自立する個人」の尊重を示している。

その点で「国有化」で言えば、政党交付金に依存し、これなくして政党の運営が成り立たない共産党以外の政党は、税金で成り立っているという点においては「国有化政党」だろう。共産党こそ、「民営化政党」なのだ。これこそ「官から民へ」の対象にしなければならない。

アメリカに対しても、日米安保条約を10条に基づいて廃棄を通告する、米軍基地を撤去させ、アメリカの軍事費の肩代わりを止め、そのカネを国民のために使うと言っている。経済的にもTPPなどのようにアメリカの言いなりになるのではなく、日本の食糧自給率の向上と食糧安保を掲げている。民族主権擁護が中心で、国家の「自立」を掲げている。そして対等平等の日米友好条約を締結すると言っている。

こうした共産党の方向は、正確に言うとかなり違うが、橋下「維新の会」や小沢元代表流に言えば、「統治機構を根本から変えて」「旧体制を壊して新しい仕組みをつくらないと本当の改革ができない」という方針と同じように見える。

だが、マスコミは既成の枠組みを根本的に変革しようとしている共産党を「既成政党」の枠組みに押し込め、国民の批判を恐れて悪政を実行できない自・民・公などへの批判を装いながら、実は旧い体質に依存しながら登場してきた橋下「維新の会」を「統治機構を根本から変えて」「旧体制を壊して新しい仕組みをつくらないと本当の改革ができない」勢力として描くいうトリックを使って国民の支持を集めさせようとしているのだ。

繰り返すが、小沢元代表と橋下「維新の会」の「改革」論(観)と共産党の改革=革命論の違いは、比較すると面白い。だが、「今」注目されているのは、どっちか、ハッキリしている。

問題は、国民が、「今」どっちを選択するかだ。それが「今」鋭く問われているのだ。そのためにマスコミは何を国民に提供するかだが、これもハッキリしている。これまでと同様に提供などはしない。だが、それで良いのだろうか。国民の目に何が映るか、だ。メッセージ性だ。

ところで共産党は全国に「草の根の支部」「赤旗」など、独自のメディアをもっているようだ。それに対して橋下「維新の会」のメディアはマスコミだ。民主党、自民党などは機関紙を持っているようだが、主要なメディアは、マスコミだ。共産党に関して言えばマスコミはほとんど当てにならないだろう。こうした条件をそのままにしていては国の形は変わらないだろう。

このようなマスコミの状況をどのように変革していくか、それも国民目線から言えば、メディアを国民的なものに変革していく作業も、実は日本の「民主的改革」の大きな課題だろう。共産党は「企業の内部を含め、社会生活の各分野で、思想・信条の違いによる差別を一掃する」と述べているが、日本の主要なメディアであるマスコミは「社会生活の各分野で、思想・信条の違いによる差別を一掃する」重要な対象者である。この課題とリンクしながらでなければ、国民の苦難を解決すること、民主主義は実現できないだろう。共産党的に言えば「国民が主人公」の社会の実現なのだ。

そのことはソ連・東欧諸国の変革やアラブの春などはメディアが大きく貢献したこと、新自由クラブ・日本新党・小泉旋風と「政権選択」「政権交代」旋風から何を学ばなければならないか、そのことが「今」日本中に問われている。

「今」国民が何故、橋下「維新の会」という宝くじを買うのか、この宝くじはゴマカシの宝くじだが、宝くじを買う人たちのこころまでゴマカシとは言えない。この人たちと一緒に宝くじを買おうとする要求をこそ社会変革の大道に収斂できるようにしなければならないだろう。

いくたびも繰り替へさるる新の文字国の形の先みつめつつ
幸せを呼び込む宝くじ求む民のこころの深き襞見る

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