愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

今日は関東大震災時の朝鮮人虐殺などを消し去ろうとする植民地礼賛派の産経などを断罪する記念日としよう!

2012-09-01 | 日記

今日は1923年9月1日は、関東大震災が起こった日で、防災の日でもある。防災の日に海陸空自衛隊も参加するものものしい日となってしまったが、かつての日に軍隊が何をしたか、マスコミをはじめ教育も、ほとんど問題にしなくなってしまった感がする。

特に東日本大震災があり、自衛隊や米軍が出動したこともあり、軍の出動に違和感を持つ国民はほとんどいないのではないか。愛国者の邪論は、今回の自衛隊の出動については当然との立場だ。だが同時に自衛隊を縮小解消して災害救助隊の創設と拡大を呼びかけるものだ。そういう点で、この記事を書いていることを、まず表明しておきたい。

領土問題についても、軍で対応するのではなく、国際法と海上保安庁と警察力で十分だということだ。軍隊は、暴力装置であるということ、殺人集団だということだ。軍に代わる装置をつくれば、事は十分だ。それが20世紀の歴史をふまえた21世紀の歴史だ。今あるヒートアップは、20世紀的発想であって、博物館でしかみることができないシロモノなのだ。リトマス紙の色が徐々に変わっていくように、代わらざるを得ないシロモノだ。

さて前置きが長くなったが、今日の記事を書くにあたって、以下の記事に注目してみた。
関東大震災で朝鮮人大量虐殺はなかった、自警団が朝鮮人テロリスト集団と戦い巻き添えになって殺害された一般の朝鮮人は震災下混乱のテロとの戦いの犠牲者、日本人も殺害された『関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実』
http://blogs.yahoo.co.jp/x1konno/36628586.html
関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実
http://jack4afric.exblog.jp/14321006/

これらの記事から見えてくるのは、一貫して近代日本における植民地主義・領土拡大主義に対して、それを正当化・免罪化する論調が跋扈していることが、日本の特徴ということだ。これは天皇の戦争責任を曖昧にしてきたことが最大の要因だ。

これら正当化する見解に対して、以下の記事があった。
関東大震災・朝鮮人虐殺は「正当防衛」ではない  工藤美代子著『関東大震災-「朝鮮人虐殺」の真実』への批判
http://policy.ken-nyo.com/sekai-kantou1h.html

工藤美代子著「関東大震災「朝鮮人虐殺」の真実」の出鱈目(1)
http://yokoita.blog58.fc2.com/blog-entry-107.html

そこで、関東大震災時の朝鮮人虐殺を正当化する論調に対しては、長いが、正力松太郎がどのような役割を果たしたか、重要な資料と思われるので以下の資料を掲載しておこう。「読売」が戦争末期に、これを全国に配布した意図を汲み取ることと、「産経」を含めて虐殺や従軍慰安婦問題の正当化の先頭にたっていること、さらには日本における民主主義を抑圧したことを語っていないこと、などなど、視点を発展させていく必要があるだろう。

その前に、検索できるものをあげておこう。
「朝鮮人暴動説」を新聞記者を通じて意図的に流していた正力
http://www.jca.apc.org/~altmedka/yom-8-2.html

米騒動や大震災の思い出 正力松太郎
一正力社長は一月十一日(昭和十九年)午前八時より、警視庁第一会議室において都民決戦体制の指導取締りの重責を担う警視庁及び各警察署の警部、警部補五百余名に対し、約一時間十五分にわたり左の講演を行い、一言一句熱気を帯びて多大の感銘を与えた。

 このたび総監閣下から何か皆さんに話をしてくれという御依頼がありましたので、私ははなはだ潜越ながら喜んでここに参った次第であります。
 只今お話のありました如く、私は役人生活の大部分を警視庁で奉職しておりましたから、ここへ来て皆さんにお目にかかることは自分の郷里へ帰って昔の友達か後進の者に話をするような感じがするのであります。従って固苦しい話よりも昔の思い出話をした方がよろしいかと存じます。
 私は大正二年六月から大正十三年一月まで十一年問引続き警視庁におりました。この間、警視庁として種々なる大問題に直面しました。すなわち同盟罷業が頻々起り、大衆の力を頼んで政府を倒そうとするいわゆる倒閣運動も度々行われ、また共産党の検挙もこの時に始まり、なおまた有名なる全国米騒動や関東大震災も起ったのであります。当時、私どもの経験した事をお話するのは幾分か皆さんの御参考になると思います。殊に米英の大空襲が必至と見られる今日において、大震災当時のお話をすることは最も有意義かと思います。大空襲はかのドイツ・ハンブルグの実情を見ますれば関東の大震災に彷彿たるものがあります。またその際人心の不安に乗じて、万一如何なる騒動が起らぬとも保証は出来ません。いわば米騒動のようなこともあらかじめ考慮に入れておくことが必要かと思いまするから米騒動の時の話もしたいと思います。而して当時私は警視庁幹部の一人として直接指揮し自ら活動したことをお話するのは最も力強く印象を与えると思いますから、私の話を中心として申上げます。従って私の記憶に万一間違いがあってはならぬと思うて、あらかじめ当時の警視庁関係者についても問い質しました。すなわち米騒動当時、兼任警視として警務課長であり大震災には警視として警務課長でありました小林光政君、米騒動当時浅草七軒町警察署長であり震災当時、司法大臣秘書官であった品川主計君、両人ともに後に警視庁官房主事になりました、及び現警視庁文書課長警視岸本太郎君、同君は米騒動の時以来引続き警視庁本庁に勤務しております。この三君やその他当時の一、二の人にも問い質しましたが、皆さんのうちにも当時から勤務しておらるる人もあると思いますから、もし私の話に間違った点があらば腹臓なくお質しを願いたいと思います。
   神田青年会館演説会の解散(略)
   日比谷公園の騒擾(略)
   米穀取引所、吉原遊廓及び警察署の襲撃(略)
   警視庁庁舎焼失の非難
 警視庁庁舎の焼失せるのは、警視庁幹部はいずれも大地震が起るや官舎に帰って私財を片づけ、しかも徴発した貨物自動車でこれを運ぶなどしておったからであると巷間の一部に伝えられたのみならず、内務省にまで報告されておったということであります。私は警視庁のため、また私自身のためにも弁解したいと思います。
 震災当時の警視総監は赤池さんでありましたが、内閣が更迭したので後任の総監に九月四日、湯浅倉平さんが任命せられました。警務部長は馬場一衛君、その後青森の知事になりました。刑事部長は木下信君、その後鳥取、愛媛の知事から台湾総務長官を経て今は代議士であります。保安部長は笹井幸一郎君で愛媛、長崎の知事を経て先年死にました。衛生部長は小栗一雄君で二・二六事件当時の警視総監であります。消防部長は緒方維一郎君でその後知事になりました。私は官房主事でありました。
 地震の起ったのは御承知のごとく九月一日午前十一時五十八分で、私は官房主事室において来客と対談中でありました。大地震が襲来するや庁員はいずれも中庭に飛び出し、私の隣室の高等係長市川君や外事課長広瀬君(現産業設備営団総裁)が私の部屋にとび込んで来て『早く外へ出ませんか』と誘いましたが、『私に構わず早く出給え』というて、私は部屋を出ませんでした。それは警視庁庁舎は煉瓦造りで非常な大動揺をしましたから、私は部屋を出ても三階から庭に出るまでには庁舎が倒壊するものと思いまして、途中で死ぬよりもむしろ自分の部屋で死んだ方がよいと肚を決めましたから、椅子から立って机に手をかけたままじっと天井の方を見ておりました。地震が止むや私は直ちに窓から外を見ましたところ、警視庁の後隣の一色活版所をはじめ二、三ヶ所は、すでに火を発しておるのを見ましたから、これは大変である、市内各所に火を発しておるに違いないと直感しまして、私は急ぎ部屋を出ましたが、三階にも二階にも、もはや誰もいませんので、庭に出ようとした時に高等課の瀬川巡査部長が来まして、官舎の私の家族は庭に出て無事であるが、これから京橋の親戚(私の妻の実弟、京橋区松枝町)へ避難するところですといいましたから私はそれはいけない、全市の大火事になるから市内は危険である、郊外の品川君(多年の友人、代々木山谷)の家にでも避難せよと命じました。家族の者共は驚きの余り自分らの近くの火災のみを見て京橋ならば大丈夫だと思うて避難しようとしたのであります。私は直ちに馬の厩舎へ行きました、同厩舎は木造で火元に最も近かったからであります。厩舎の係員を消防署に走らせて応援を求めしめましたが、すでに消防自動車やポンプが東宮御所その他市内へ出払ったばかりのところでありました、折から小林警務課長が総監官舎より帰り来って総監の命令で出兵の請求に師団司令部へ赴くと報告して立ち去りました。この時、警視庁の在庁員は遺憾ながらはなはだ少数であったのであります。市外ビルディングその他へ死傷者の救護に出た者もありましたが、家族の身を案じて自宅へ帰ったものはすくなくなかったからであります。少数の人員をもって防火に従事しましたが警視庁庁舎は風下にありましたため、木造の厩舎は間もなく燃え、午後一時過ぎ早くも本館に火が移りまして、重要書類だけを運び出した次第であります。
 かくて午後二時ごろ日比谷公園内の第一中学校校舎を、警視庁仮庁舎と定めまして、市内の自動車を徴発して死傷者の運搬救護等に努力しました。(中略)
   朝鮮人来襲虚報の責任
 次に朝鮮入来襲騒ぎについて中上げます。朝鮮人来襲め虚報には警視庁も失敗しました。大地志の大災害で人心が非常な不安に陥り、いわゆる疑心暗鬼を生じまして一日夜ごろから朝鮮人が不穏の計画をしておる、との風評が伝えられ、淀橋、中野、寺島等の各警察署から朝鮮人の爆弾計画せるもの又は井戸に毒薬を投入せるものを検挙せりと報告し、二、三時間後にはいずれも確証なしと報告しましたが、二日午後二時ごろ富坂警察署から又もや不穏鮮人検挙の報告がありましたから、念のため私自身が直接取調べたいと考え、直ちに同署に赴きました。当時の署長は吉永時次君(前警視総監)でありました。私は署長と共に取調べましたが犯罪事実はだんだん疑わしくなりました。折から警視庁より不逞鮮人の一団が神奈川県方面より来襲しつつあるから皇急帰庁せよとの伝令が来まして、急ぎ帰りますれば警視庁前はすでに物々しく警戒線を張っておりましたので、私はさては朝鮮人騒ぎは事実であるかと信ずるに至りました。私は直ちに打合せのため司令部に赴き、参謀長寺内大佐(現南方方面陸軍最高指揮官)に会いましたところ、軍は万全め策を講じておるから安心せられたしとのことで、軍も鮮人の来襲を信じ警戒しておりました。その後、不逞鮮人は六郷川を越え或は蒲田付近にまで来襲せりなどとの報告が大森察署や品川警察署から頻々と来まして、東京市内は戒に大騒ぎで人心匈々(匈は人偏)としておりました。しかるに鮮人がその後なかなか東京へ来襲しないので不思議に思うておるうち、ようやく夜の十時頃に至ってその来襲は虚報なることが判明いたしました。この馬鹿々々しき事件の原因については種々取沙汰されておりますが、要するに人心が異常なる衝撃をうけて錯覚を起し、電信電話が不通のためいわゆる一犬虚に吠えて万犬実を伝うるに至ったものと思います。警視庁当局として誠に面目なき次第でありますが、私共の失敗に鑑み大空襲に際しては、この点特に注意せられんことを切望するものであります。

   自己を忘れて職務を貫徹(略)  

本冊子は内務省警保局より全国道府県警察部に配付し重大時局下、警察官の資料としたものであります。
御参考のため呈上致します。御高覧賜わらぱ光栄に存じます。
  昭和十九年二月                読売新聞社

この長い記事は『歴史の真実 関東大震災と朝鮮人虐殺』現代史出版の資料編を元にしている。

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