今日の「朝日」12面に「最近の政治はまるで、衆院解散・総選挙の時期をめぐるデスマッチである。典型が、この通常国会だ」と、問責決議成立以後の「政局」を批判した「社説余滴」「政治改革で抜け落ちたもの」(松下秀雄)が掲載されている。
同時に昨日は、「近づく総選挙を前にして、政策や手腕より、もっぱら「国民受けするかどうか」に終始しているのはいかがなものか」と「社説」で民自の党首選に苦言を呈しているのだ。
呆れる!まさに呆れる!「朝日」は連日何を報道しているのか、知らぬ振りをして、よくもこういう記事を書けるものだ!厚顔無恥とは「朝日」の代名詞だ。具体的にみてみよう。
今日の
1面は、「細野氏、出馬を検討 民主代表選前原G、自主投票へ」
3面は、「細野氏と首相見えぬ対立軸 民主代表選 原発ゼロに慎重」
4面は、「秋解散へ動く官僚」「存在感、野田政権で強まる」「人事でも主導権」「みんなの」党、代表選へ維新めぐる対立激化、解答論も」「民主・水戸氏も維新討論会へ」「安倍・石破連合を模索」「自民総裁選、石原氏を意識」「山田元農水省を推挙 民主代表選」
「課題をどう処理して、日本をどんな方向に導くのか。その大局を争うのでなければ、党首選をやる意味はない」というのであれば、「大局」である日米安保に対して、財界優先政策に対して、憲法に対して政策をはっきりさせるような記事を書くべきではないのか。
矛盾に満ちた「記事」と「社説」を掲げながら、「社説」を書く「政治社説担当」者は、国民に向かって説教をたれる。上から目線なのだ。以下並べてみよう。
「政治が怪しげな公約や薄っぺらな選挙の顔に頼るのも、それで有権者をごまかせると思う」
「簡単にごまかされない。選挙と選挙の間も声を上げ、政治に圧力をかけていく――。賢くて強い民意を育まなければならない。」
「教育。立場の違う人が話し合う場づくり。それを政策に映す討論型世論調査のような試み。積み重ねが必要」
どうだろうか、己の報道姿勢や報道内容の検証もなく、「怪しげな公約」を放置してきた責任、選挙の顔に頼」らせてきた責任、「立場の違う」政党の「公約」の公平な報道をしてこなかった責任はすべて不問なのだ。
そのことは、「2大政党が公約を掲げ、首相候補の党首を押し立て、有権者が政権政党と首相と政策を選ぶ。それは政権を選べなかった日本政治の『民主化』であり、衆院への小選挙区比例代表並立制導入を核とする政治改革の大目標だった」と、「朝日」の「大目標」を正直に吐露させて、推進=煽ってきたことを認めている。
だが、「民主化」と表現しているところに、また「その半面、副作用も大きかった」「政治改革には、そんな視点が抜け落ちていた」などと第三者的に語るところに、胡散臭さ、「朝日」の「ごまかし」「ジャーナリズム・マスコミの無責任」が浮き彫りになる。
「政治改革の大目標」と自覚し、二大政党政治を煽ってきた結果が「デスマッチ」だ。だが、その責任を問うことなく、ごまかし、さらに悪いことには、国民に対して「簡単にごまかされない」ように、「賢くて強い民意を育まなければならない」と、上から目線で、偉そうに語っているのだ。
ふざっけんな!
「政治社説担当」者は最後に、言う。「天につばする話であることは承知している。第一に進化を求められるのはマスメディアであり、政治報道だから」と。一見反省しているようだ。だが、これで免罪はできない。何故ならば、上記で書いたように、基本的に己に対する批判をかわす言葉として「承知している」という言葉を使っていると思うからだ。
本当に「承知している」のであれば、以下のことを検証すべきだろう。そうして、直ちに記事の内容を変えていくべきだ。さもなければ、「朝日」自身が「デスマッチ」会社となるだろう。
「朝日」は政権交代可能な二大政党政治の実現を煽ってきた。それは自民党政権=政党政治に対する国民の不信が、他党、特に共産党に及ばないための装置としての二大政党政治だった。72年の共産党の躍進が衝撃だったからだ。その後のカクマンダー、新自由クラブ、社公合意と、常に共産党シフトが敷かれてきた。それとソ連や中国の蛮行を利用した共産党追い落としだ。それでも共産党を撲滅できなかった。そうして出てきたのが、椿報道局長の発言だ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A4%BF%E4%BA%8B%E4%BB%B6
細川「非自民・非共産」政権による「政治改革」は小選挙区制と政党交付金制度によって誤魔化した。しかし、90年代後半に共産党が結党以来の躍進を実現した。70年代初頭の躍進以来言われていた「自共対決」が実現してしまったのだ。そこから二大政党政治の実現が強力に煽られた。「共産党はずし」だ。さらに、それに使われたのが、自民・公明・創価学会・保守党などが展開した政治史上空前の謀略だった。メディアはこうした謀略を批判することなく追認した。
以上の流れに「朝日」はどのように参加してきたか、政治のデスマッチが展開されている今だからこそ、その歴史の検証をすべきだ。このことを抜きに「天につばする話であることは承知している。第一に進化を求められるのはマスメディアであり、政治報道だから」というのは、飾り言葉に過ぎないということになる。そのことを肝に銘ずるべきだ。
では、本文を紹介しておこう。最近では、こうした記事がネットではカットされることが多いので、記録として残す意味で、また「教育。立場の違う人が話し合う場づくり。それを政策に映す討論型世論調査のような試み。積み重ね」のために、長くなるが、ご了解の程を、
「社説余滴」「政治改革で抜け落ちたもの」(松下秀雄 政治社説担当)
最近の政治はまるで、衆院解散・総選挙の時期をめぐるデスマッチである。典型が、この通常国会だ。
野党は首相や閣僚の問責決議で政権を立ち往生させ、解散に追い込もうとする。与党は衆院の「一票の格差」の是正を遅らせ、先送りをはかる。そんな攻防の巻き添えを食って、数々の課題の処理が放ったらかしにされた。
過去の通常国会では、政府提出法案の8~9割は成立するのが当たり前だったのに、今回は5割強。課題処理よりも解散攻防を優先する本末転倒ぶりだ。
なぜ、こうなるのか。たぶん、選挙と権力闘争が直結したことが大きい。
55年体制下、自民党の派閥は党総裁=首相の座をめぐって死闘を演じたが、同じ党内だから解散攻防にはつながりにくかった。最大野党の社会党は総選挙で過半数の候補を立てず、本気で政権を奪おうとはしなかった。
民主、自民の2大政党が政権を奪い合う時代になり、なりふりかまわぬデスマッチが始まった。解散攻防だけではない。現実昧の乏しい政権公約を掲げるのも、みてくれのいい「選挙の顔」を党首に選びたがるのも背景は同じだ。2大政党が公約を掲げ、首相候補の党首を押し立て、有権者が政権政党と首相と政策を選ぶ。それは政権を選べなかった日本政治の「民主化」であり、衆院への小選挙区比例代表並立制導入を核とする政治改革の大目標だった。
その半面、副作用も大きかった。政治は落ち着きをなくし、党首も公約も法案も選挙の道具と化した。選挙制度をいじったら一足飛びに政治がよくなるような、うまい話はないと、いま痛感する。民意を映す鏡である選挙制度は大切だ。だが、鏡よりも大切なのは素顔、つまり民意そのものだ。政治が怪しげな公約や薄っぺらな選挙の顔に頼るのも、それで有権者をごまかせると思うからだろう。政治改革には、そんな視点が抜け落ちていた。簡単にごまかされない。選挙と選挙の間も声を上げ、政治に圧力をかけていく――。賢くて強い民意を育まなければならない。教育。立場の違う人が話し合う場づくり。それを政策に映す討論型世論調査のような試み。積み重ねが必要だ。天につばする話であることは承知している。第一に進化を求められるのはマスメディアであり、政治報道だからである。(政治社説担当)
民・自の党首選―政策論争を聞きたい
通常国会の会期中だというのに、民主、自民両党の党首選びの動きが早くも活発だ。
予算執行に必要な赤字国債法案や、違憲状態が続く衆院の「1票の格差」是正など、本来なら8日の会期末までに処理すべき課題は多い。 それらをほったらかして党首選に熱中する議員たちには、あきれるほかはない。党首選びの基準にも首をかしげざるをえない。
ともに9月の党首選で選ばれる2大政党のリーダーは、次の首相候補である。ところが、近づく総選挙を前にして、政策や手腕より、もっぱら「国民受けするかどうか」に終始しているのはいかがなものか。
自民党では、ベテラン、中堅議員が続々と名乗りをあげ、候補者乱立の様相だ。かたや、谷垣禎一総裁の再選が厳しくなっている。出身派閥・古賀派の古賀誠会長が「若い人を支持したい」と谷垣氏に伝え、森喜朗元首相も不支持に転じた。
谷垣執行部は民主、公明両党とともに、社会保障と税の一体改革関連法を成立させた。一方で3党合意を否定する首相問責決議に賛成するなど、危ういかじ取りが目に付いた。そうした国会運営のあり方や3党合意の是非をめぐって争うなら、まだ分かる。
だが、実際は「地味な谷垣氏では選挙に不利だ」というのが多くの議員の本音ではないか。派閥の会長や古参議員の動きも気になる。自分の意中の議員を総裁候補にしようと、党内調整に乗り出している。それによって自身の影響力を強めようとしているなら、筋違いもはなはだしい。
民主党では、野田首相(党代表)に対抗して、41歳の細野豪志環境相を擁立しようという動きがある。だが、細野氏は野田内閣の閣僚だ。原発・エネルギー政策でも、一体改革でも、首相と足並みをそろえてきた。細野氏を代表にして、党の路線をどう改めようというのか、さっぱりわからない。
そもそも、与党の党首は政権を運営し、野党党首は党を鍛え直して、その実績を総選挙で問うべきなのだ。選挙が迫ってから党の「顔」を取り換えるというのでは、有権者に対するめくらましに等しいではないか。課題をどう処理して、日本をどんな方向に導くのか。その大局を争うのでなければ、党首選をやる意味はない。