愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

オリンピックを政治的に利用する亡霊=国威発揚=勝利第一主義=日本軍国主義の残滓の根本的一掃を!その1

2013-02-02 | スポーツと民主主義

今度は柔道界に、批判の矛先が向けられています。以下の記事です。

柔道女子・園田監督が辞意 暴力問題で 2013/1/31 16:24

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDH31011_R30C13A1000000/

ロンドン五輪代表を含む女子柔道の15選手が園田隆二代表監督(39)らの暴力行為などを日本オリンピック委員会(JOC)に告発した問題で、園田監督は31日午後、東京都文京区の講道館で記者会見し、「これ以上、強化にかかわるのは難しい」などと語り、辞任の意向を明言した。 園田監督は全日本柔道連盟(全柔連)の調査に対し、選手をたたいたり蹴ったりした事実関係を認めている。 園田監督や男性コーチによる選手への暴力行為に関する情報が最初に全柔連に寄せられたのは、ロンドン五輪終了後すぐの昨年9月下旬。全柔連は暴力を受けた選手1人から事情を聴いたものの、昨年11月5日には園田監督の続投を発表した。(引用ここまで)

 告発したかったのは全柔連全体!? 園田監督は責任を一身に背負ったが… 2013.1.31 19:55

http://sankei.jp.msn.com/sports/news/130131/mrt13013119560011-n2.htm

…ロンドン五輪で史上初の金メダルなしに終わった男子は篠原信一監督が引責辞任したのに対し、金1個と期待を裏切った女子は園田監督が留任。責任が棚上げされたまま新強化体制が発足し、昨年9月に持ち上がった選手への暴力問題も当事者間の“和解”で済ませようとした。旧態依然の全柔連執行部への面当てというのだ。事実関係の検証と再発防止策を急ぎたい。どこまでが「指導」で、どこからが「暴力」になるのか線引きの難しい指導法のあり方についても、スポーツ界全体で議論を深め、問題意識を共有する必要があろう。個人の「指導力不足」に罪をなすりつけて、幕を引くべき事案ではない。(引用ここまで)

 大津市の「いじめ」と自殺、大阪市の「体罰」と自殺、そして今回のオリンピック選手たちに対する「脅し」と「暴力指導」、これらの事件に共通していることは、事件を起こした個人、それを隠蔽していたとされる学校、教育委員会、柔道連盟などに、その責任追及の矛先がマスコミによって向けられていることです。

 こうした視点では、マスコミは追及する側にその立場を置き、連日バッシング。そうして学校や教師に対して不満を持っている国民も溜飲を下げているのです。そうした手法は全く持ってケシカラン話です。勿論、個人責任と組織責任を曖昧にするのではありません。

 こうした記事の奥深いところにある、事件を起こした個人や組織の背中を押してきた「世論」にこそ、眼を向けていくべきだと主張しているのです。

 そういう点で、以下の「赤旗」(2月1日付)は、歴史の問題を掘り下げてはいませんが、その方向に目を向いているという点で、すなわち園田監督を取り巻く環境、歴史の問題を抜きに、今回の問題を語ることはできないことを指摘していると思います。

 鼓動 「厳しい指導=暴力」の改革を

園田隆二代表監督の辞意表明には、体罰や暴力的な指導への甘い認識が見え隠れしていました。 たたく、けるという行為が暴力という認識だったか、問われた同監督はこう答えました。 「暴力という観点で手をあげた意識は全くなかった。選手にひと踏ん張りしてほしいという思いだった」 選手からの指摘を受け、「反省した」とはいうものの、簡単に“一線”を越えている姿が、浮かび上がりました。 なぜ、一線を越えてしまったのか。園田監督自身があげたのは、柔道界にある「金メダル至上主義」でした。 ロンドン五輪に向けたなか、「時間がたつにつれ、私自身、焦って急ぎすぎた」と。 結果を残さなくてはいけないという重圧があったからというものです。 確かにそれはあるでしよう。しかし、もう一つのやりとりに、本質的な問題があるように感じました。 それは同監督が、選手時代に体罰を受けたか否か問われたときのこと。「厳しい指導はあったが、それを体罰と思ったことはありません」。一度は否定しながら、その直後、「厳しい指導」が、「たたかれた」ことと認めたことです。ここにあるのは、とくに男子の柔道の世界にとっては、厳しい指導=「体罰、暴力」であり、それがあたり前の指導となっていることです。園田監督が、そんな環境で育ち、指導者になって代表選手に対しても、それを行使することに抵抗がない。ほかの監督やコーチの中にも、園田監督の指導をとがめる人がいなかったことにも、この問題の根深さがあります。 体罰や暴力的な指導をくり返さないためには、柔道界あげた、本腰を入れた「たたかい」が必要になるでしょう。 女子選手たちは、柔道界のあり方に、異を唱える人権感覚をもち、訴え出るという勇気と行動力をもっています。 こうした良識に依拠しながら、今回のことを柔道界の改革の出発点としてほしい。(和泉民郎)

 「個人の「指導力不足」に罪をなすりつけて、幕を引くべき事案ではない」(産経)というのであれば、「組織」が陥っている現状と背景、歴史にこそ、目を向けるべきです。

 そういう意味では、今回の事件の背景に何があるか、です。それは「お家芸の柔道の落ち込み」という日本柔道界の深刻な状況が、今回の「暴力指導」の根本でした。その背後にあるのは、柔道を世界に普及してき柔道界そのものが「世界に追い越された」という矛盾を克服できなかったことにあります。

 その際の方法は、柔道の根本理念である「柔よく剛を制す」を科学的に発展できなかったということ、さらに言えば、同じ武道の剣道の「極意」でもある「先の先」思想を適用できなかったことにあるのではないかと思います。勿論ルールの「改正」もあるでしょう。しかし、まさに「柔よく剛を制す」の立場で、「ジュードー革新」を図るべきでした。

 そのことはかつて「ボールが止まって見える」と巨人の川上選手が言っていたように、練習の成果として、科学の範囲では捉えきれない人間の認識の素晴らしさや、認識を科学の力で検証しながら、人間の能力の限界に挑む人間の「生きる」の素晴らしさなどについて、日本柔道界が「武道としての、スポーツとしての柔道の革新」をしてこなかった。ここに最大の問題があるように思います。

 それでは何故「革新」できなかったか?政治的な側面、教育的側面など、様々な要因が考えられるでしょう。とても論じられる範囲を超えていますので、申し訳ありませんが、パスをします。

 「赤旗」記者も書いているように、また「武道」である柔道界にある伝統的な「厳しい指導=稽古」が、園田監督がいみじくも発言していたように、「暴力指導」、或いは「シゴキ」に依拠していたこと、このことを何処まで検証していくか、にかかっているのではないでしょうか?

 その点で言えば、以下の事件も、ウヤムヤにされていました。マスコミは、この事件に対しては、今回のように、矛先を組織、すなわち防衛省に向けてはいません。完全に曖昧にしてしまったのです。こうした政治的風潮が、「格技」「武道」における暴力事件を曖昧にし、継承させてきたことは明らかです。その意味からもマスコミの犯罪的役割を指摘しない訳にはいきません。

海自3曹死亡 格闘技訓練中の集団暴行か 広島・術科学校

http://web-kenpou.cocolog-nifty.com/blog/2008/10/post-160a.html

 こうした「暴力指導」による自殺=殺人事件に対する追及が曖昧にされてきた風潮のなかで、勝利第一主義の象徴である「金メダル」獲得だけが強調され、それが取れないジレンマに陥っていったなかで、今回の柔道界の事件が発生したのではないでしょうか?

 「金メダル」を取るためには、「強い選手」を育てなければならないという監督の思い。「金メダル」が取れなければ、監督個人、選手、柔道界などへのバッシング。監督の名誉も、職も奪われる、という様々な「現実」にこそ、目を向けるべきです。

 しかし、このような「暴力指導」だけが「指導」ではないことは、以下の番組を視れば判ります。

NHKスペシャル ミラクルボディー ウサイン・ボルト 人類最速の秘密

http://suportsdougatv.blog.fc2.com/blog-entry-17.html

 この番組は、勝利第一主義に冒されてしまった日本社会のすべてにおいて、暴力指導容認が文化となって継承されてきたことの問題点を指摘しているように思います。その根底にあるのは、限りない可能性に挑戦する人間賛歌です。

 そうした位置と全く逆の位置にあるのが暴力指導容認文化です。それはまさに、日本の伝統文化と言っても言いすぎではないと思います。その文化は何によってつくられ、継承されてきたか、日本軍国主義と言えます。だからこそ、マスコミも曖昧にするのです。

 それについては、既に述べてきましたが、次回に、さらに考えてみたいと思います。

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