愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

スポーツにおける暴力指導と抑止力論の軍備強化も、根っこは同じことが判らない経済大国の…。

2013-02-15 | スポーツと民主主義

北朝鮮の核兵器実験は文明に対する挑戦と思いました。国連決議に違反しながらも、北朝鮮は、アメリカの敵対的行為、脅威に対する防衛的なものと言っているからです。北朝鮮の核兵器がアメリカに到達するようになれば、なったのであれば、「脅威」と言っているのです。日本や韓国はもっと切実です。日本の場合は原発が狙われたら、などと「脅威」論を煽っているのです。

 「そんな危険なものは作らねばいいのではないか」という発想は微塵もありません。北朝鮮にしてみれば、自国を攻めてくる敵基地を攻撃するのは当然です。それは日米韓にしても同じです。北朝鮮の基地がどこにあるか、はるか遠くから監視しているのは、そのためです。しかもピンポイント攻撃も可能なほど、軍事技術は発展しているのです。

 さらに言えば核兵器保有国は、自分たちが保有している核兵器は脇において、「北朝鮮の核兵器は問題だ」などと言って非難しているのです。昨年12月アメリカも臨海前実験を行いましたが、唯一の核兵器被害国である日本のマスコミは、どのように報道したでしょうか?以下の記事をご覧ください。

 日経 オバマ氏に核実験停止を要請 ノーベル賞の医師団体 2012/12/21 9:51
http://www.nikkei.com/article/DGXNASGM2100A_R21C12A2EB1000/

 【ワシントン=共同】米国が今月5日に実施した臨界前核実験に関し、核戦争防止国際医師会議(IPPNW、本部米マサチューセッツ州)は20日までに「核兵器廃絶を最優先課題に掲げる多くの国々の機運を台無しにする行為だ」と抗議し、実験を直ちに停止するよう求める書簡をオバマ米大統領に送った。 IPPNWは1985年にノーベル平和賞を受賞しているが、米国の臨界前核実験への正式な抗議は初めて。「核なき世界」を訴えて同じ平和賞を受賞したオバマ氏に、残り4年の任期中に核兵器廃絶に向けて踏み出すよう強く求めている。 書簡には4人の共同代表が署名。臨界前核実験は、包括的核実験禁止条約(CTBT)の抜け穴を利用して核兵器を温存し高性能化を目指す行為だと非難し、オバマ政権下で4回の実験が続いている状況に強い懸念を表明した。他国に対する無用な挑発的行為で「核不拡散の理念に反する偽善とも受け取られかねない」と警告した。 今回の臨界前核実験は西部ネバダ州の地下施設で実施。日本の被爆者団体や広島市、長崎市などが抗議した。専門家は核弾頭を模した装置とプルトニウムを組み合わせる新たな手法を用いた可能性を指摘している。(引用ここまで

 北朝鮮にしても、中国にしても、軍備を強化するのは、日米韓と同じ理由です。石原氏の言うように、軽々しく兵器を使うなどということはないのかも知れません。「鯉口」に手をかけている程度かもしれません。日米中北韓の軍事依存病の菌は同じものかも知れません。

 さてそういうことを確認したうえで、今回のスポーツ界における「体罰」という名の「暴力指導」と、「脅威」論が根っこのところで同じなのだということを強調しておきたいと思うのです。

 「体罰」という「暴力」によって、選手を「脅し」、それをもって屈服させ、瞬間的に瞬発力を発揮させようとするところに、指導者と選手の間の主従関係が構築されるのです。或いは主従関係を前提として屈服・屈従感を維持しようとする関係が見えてきます。これは宗主国と植民地の関係に似ています。

 別の角度から言えば、マスコミは、或いはマスコミに登場するコメンテーターなどが放っているのは、暴力指導に頼る監督は指導力がないからだ」「暴力に頼らずとも選手は活躍するものだ」として、非暴力の指導方法を語ってみせます。橋下市長の柳本氏招聘などは、その典型でしょう。

 非暴力による指導は、選手の人格を尊重すること、選手の自発性を尊重して、選手の人間的発達を促し、人格形成に寄与しようとしていること、さらに言えば、選手と競う相手の選手をも尊重する精神を育てること、そのことは同時にルールを尊重すること、そのルールの範囲内で人間的能力を開花させようとすること、などなど、非暴力とスポーツは密接な関係があることは、今さら言うまでもないことです。

 では、こうした視点を国家間に当てはめて考えてみると、どうでしょうか?今北朝鮮や中国の「脅威」「無法」に手をやいている日米韓にとって、取るべき行動は「対話と圧力」「毅然として」「経済制裁」「国際法にもとづいて」などがあります。

 しかし、こうした「道理」は、戦前の日本のように傍若無人ぶりを発揮して、無視され続けています。

 戦前の大東亜共栄圏を正当化する勢力は、あの戦争は欧米の植民地主義の包囲されたもので自存自衛だと言っていますが、現在の北朝鮮の言い分とよく似ていないでしょうか?中国にしても、アメリカが自国の領海・領空近くに空母や潜水艦を配備していることは面白くないでしょう。かつてキューバ危機の時は、アメリガアジアでやっていることを、ソ連にやられたのでした。

 こうしたどっちもどっちの構図をどのようにアウフヘーベンしていくか、そこに現代社会の、人類の知恵が試されているのだと思います。

 このことは体罰という暴力指導で、手っ取り早く指導してしまうか、或いは選手の人格を尊重して、その人格の発達を保障する指導を非暴力で行うか、ということと、よく似ているような気がするのです。

 このことは憲法第9条を使って国際紛争を非軍事・非暴力で解決するのかどうか、ということと非常によく似ているように思います。ここには「脅し」はありえません。「脅し」ではなく、非暴力・非軍事の方が、軍事費など、余計な金を使うことなく、国民がつくりだした価値・富を国民のために使うことができるのではないでしょうか?

 こうした点で、確信と展望が自覚できたら、どうなるか、想像してみてほしいと思います。こちらの方が、こころも身体も豊かになること、人間発達にとって理・利があることは、疑いありません。こちらの方が集団的自衛権の行使で、自分が怪我をするか、殺されるか、或いは殺すか、怪我を負わせるか、ということをも意味しているのですが、これにしても、どっちが人間的か、判断できるのではないでしょうか?

 体罰という名の暴力指導に依存する体質、脅威に対して軍事一辺倒に依存し軍備強化を図っていく体質、どちらも似ているのです。どちらも国家と国民を指導する力量のないことを示しているのではないでしょうか?顧問が体罰という名の暴力指導をすることと同じ目線で考えると、非暴力の指導に徹することは、憲法9条にもとづ平和外交路線の発展に似ていないでしょうか?

 そんなことを考えた北朝鮮の核実験報道でした。