詭弁を弄するさいたま市教委の屁理屈にみるヒラメ目線に大喝!
ヒラメ目線が憲法形骸化に加担行為と自覚できない役人根性に大喝!
教育関係者として憲法を活かす子どもの目線に沿った仕事をすべき!
さいたま市大宮区の三橋公民館の俳句削除問題に動きがありました。結果的には、「改善はなし」ということです。その理由は「二分」論です。そこで以下の東京の記事を踏まえて検証してみることにしました。この事件については、すでに記事にしてありますので、ご覧ください。
俳句「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」掲載を「政治的に偏った特定の事業」と屁理屈を述べる偏見に大喝!(2014-07-10 14:37:48 | 憲法を暮らしに活かす)http://blog.goo.ne.jp/aikokusyanozyaron/e/96f717d2e557e24c137b6e7c339736ac
1.「(世論を二分する)語句をいちいち指定すれば言葉狩りになってしまう」論について
そのとおりです。「梅雨空」「九条」「守れ」「女性」「デモ」という語句を「二分する」ものとして「指定」はできないということになります。「言葉狩り」はできないと言いながら、「世論を二分するようなものは載せるべきではないという考えは崩していない」ということを理由に、「掲載しない」ということは、明らかに、これらの言葉を「二分」する言葉として位置付け、言葉狩りをしていることになります。俳句の言葉は、言葉狩りしないが、俳句は言葉狩りをするという詭弁、スリカエがあります。全くのデタラメ・ゴマカシです。そもそも、「二分」しているのはダメで、「三分」、「四分」しているのであれば掲載するというのでしょうか?
2.このような詭弁が子どものを前にして許されるか、教育委員会は、胸に手を当てて問いかけてみる必要があります。
もはや道理のないことは明らかです。教育委員会は、学校において、このようなことがまかり通るかかどうか、子どもに、生徒にアンケートを取ってみれば良いのではないでしょうか?あるいは、この俳句問題を使った授業を全県で実践してみれば良いのです。自らの施策、「指導と助言」が正しいか否か、検証すべきです。
これが中央集権国家ニッポンの実態!どこかのかの国と相似形!
3.教育委員会が、このような対応を執ったのは、明らかに「政府の意向を忖度した」というしかありません。
それは、国家の行政権の中央集権制にあります。憲法に明記された地方自治ではなく上から目線を恐れる下から目線の実態があります。前回は社会教育法に基づいて検証しましたので、今回は、市教委という点を踏まえて、別の視点から見てみます。以下をご覧ください。
地方教育行政の組織及び運営に関する法律 (昭和三十一年六月三十日法律第百六十二号)http://law.e-gov.go.jp/htmldata/S31/S31HO162.html
第五章 文部科学大臣及び教育委員会相互間の関係等
(文部科学大臣又は都道府県委員会の指導、助言及び援助)
第四十八条 地方自治法第二百四十五条の四第一項 の規定によるほか、文部科学大臣は都道府県又は市町村に対し、都道府県委員会は市町村に対し、都道府県又は市町村の教育に関する事務の適正な処理を図るため、必要な指導、助言又は援助を行うことができる。
2 前項の指導、助言又は援助を例示すると、おおむね次のとおりである。
一 学校その他の教育機関の設置及び管理並びに整備に関し、指導及び助言を与えること。
四 教育委員会の委員及び校長、教員その他の教育関係職員の研究集会、講習会その他研修に関し、指導及び助言を与え、又はこれらを主催すること。
八 指導主事、社会教育主事その他の職員を派遣すること。
九 教育及び教育行政に関する資料、手引書等を作成し、利用に供すること。
十 教育に係る調査及び統計並びに広報及び教育行政に関する相談に関し、指導及び助言を与えること。
十一 教育委員会の組織及び運営に関し、指導及び助言を与えること。
3 文部科学大臣は、都道府県委員会に対し、第一項の規定による市町村に対する指導、助言又は援助に関し、必要な指示をすることができる。
4 地方自治法第二百四十五条の四第三項 の規定によるほか、都道府県知事又は都道府県委員会は文部科学大臣に対し、市町村長又は市町村委員会は文部科学大臣又は都道府県委員会に対し、教育に関する事務の処理について必要な指導、助言又は援助を求めることができる。
(是正の要求の方式)
第四十九条 文部科学大臣は、都道府県委員会又は市町村委員会の教育に関する事務の管理及び執行が法令の規定に違反するものがある場合又は当該事務の管理及び執行を怠るものがある場合において、児童、生徒等の教育を受ける機会が妨げられていることその他の教育を受ける権利が侵害されていることが明らかであるとして地方自治法第二百四十五条の五第一項 若しくは第四項 の規定による求め又は同条第二項 の指示を行うときは、当該教育委員会が講ずべき措置の内容を示して行うものとする。
(文部科学大臣の指示)
第五十条 文部科学大臣は、都道府県委員会又は市町村委員会の教育に関する事務の管理及び執行が法令の規定に違反するものがある場合又は当該事務の管理及び執行を怠るものがある場合において、児童、生徒等の生命又は身体の保護のため、緊急の必要があるときは、当該教育委員会に対し、当該違反を是正し、又は当該怠る事務の管理及び執行を改めるべきことを指示することができる。ただし、他の措置によつては、その是正を図ることが困難である場合に限る。
(文部科学大臣の通知)
第五十条の二 文部科学大臣は、第四十九条に規定する求め若しくは指示又は前条の規定による指示を行つたときは、遅滞なく、当該地方公共団体(第四十九条に規定する指示を行つたときにあつては、当該指示に係る市町村)の長及び議会に対して、その旨を通知するものとする。
(文部科学大臣及び教育委員会相互間の関係)
第五十一条 文部科学大臣は都道府県委員会又は市町村委員会相互の間の、都道府県委員会は市町村委員会相互の間の連絡調整を図り、並びに教育委員会は、相互の間の連絡を密にし、及び文部科学大臣又は他の教育委員会と協力し、教職員の適正な配置と円滑な交流及び教職員の勤務能率の増進を図り、もつてそれぞれその所掌する教育に関する事務の適正な執行と管理に努めなければならない。(引用ここまで)
どうでしょうか!この「指導と助言」とは、「命令」ということの代名詞です。この「命令」に従わなければ、「処分」が待っているのです。「クビ」になることは、ま、あり得ないとして、それに近い「処分」があることは明らかです。それは出世から遠ざける、その他配置転換、嫌がらせなど、いわゆるパワーハラスメントです。これは大手を振って行われることはありません。「適正」に「処理」されるのです。そのような手口を知っているからこそ、忖度するのです。
このようなことがまかり通ることは、安倍首相や自民党、マスコミが繰り返し批判している、どこかの国の独裁と同じ手口となっていることは明らかです。かの国の手口も、その国の「法の支配」に基づいて行われていることは明らかです。日本も同様に、国会で通過した法律に基づいて「適正」に行われていると政府文科省は答弁することでしょう。しかし、この「適正」が、憲法の条文を「適正」に映し出しているものかどうか、それは否!と言えるのです。何故か。
それは「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」の、二分されている意見の一方の側、すなわち「憲法九条を守れ」ではない、「憲法九条を変えろ」という意見の側に、その立場を置いているからです。国家の最高法規である憲法は、その99条で、憲法尊重擁護の義務を大臣・国会議員・その他の公務員などに課しているからです。このことを平然と黙殺して「適正」の「処理」しようとしているのです。明らかにルール違反です。サッカーで言えば、レッドカードです。
では、以下記事をご覧ください。
9条俳句でさいたま市教委 「公民館判断」変えず 2014年9月25日 朝刊 http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/news/CK2014092502000162.html
「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」と詠んだ女性市民(73)の俳句について、さいたま市大宮区の三橋(みはし)公民館が月報への掲載を拒否した問題で、市教育委員会の稲葉康久教育長は二十四日、掲載基準の作成方針を撤回する考えを表明した。一方で、市教委職員の公民館長が掲載の是非を最終判断するとの姿勢は変えておらず、「それがおかしいと気付くべきだ」との声が出ている。 (岡本太)
市教委は七月、「世論を二分するテーマの作品は月報にふさわしくない」として、掲載基準をつくる方針を示した。だが、多くの市民や識者から「世論を二分しているかどうか、客観的な判断は不可能」「行政側が掲載か不掲載を決めれば言葉狩りになる」と批判が強まっていた。
この日の定例記者会見で、稲葉教育長は「(世論を二分する)語句をいちいち指定すれば言葉狩りになってしまう」と基準作成には問題があると認めた。一方で「世論を二分するようなものは載せるべきではないという考えは崩していない」と強調。公民館長が掲載には問題があると判断した作品は、公民館の利用者らでつくる地域連絡協議会などから意見を聞き、館長があらためて最終判断するのが望ましいと述べた。
俳句の掲載を求めている団体職員の武内暁(さとる)さん(66)は「基準作成の断念は当然で評価できるが、世論を二分する作品を排除しようという根本は変わっていない。そもそも公民館として掲載を判断することが、おかしいと気付くべきだ」と話した。(引用ここまで)
埼玉新聞 「九条守れ」俳句、今こそ掲載を 熊谷出身の作家·森村誠一氏 2014年8月5日 http://www.saitama-np.co.jp/news/2014/08/05/04.html
熊谷市出身の作家森村誠一さん(81)が、さいたま市大宮区の三橋公民館が公民館だよりに、俳句「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」の掲載を拒否した問題で埼玉新聞に寄稿。森村さんは、公務員は憲法尊重擁護義務があり、憲法9条改正の動きが強まっている今こそ「九条守れ」俳句を掲載すべきだと、している。
「九条守れ」俳句が、さいたま市大宮区の三橋公民館の「公民館だより」への掲載を拒まれたことが、憲法で保障された表現の自由の侵害であるとして、さいたま市の多くの市民の批判や苦情を集めています。
これに対し、公民館側は、「憲法を見直す動きが活発化しているなか、公民館の考えであると誤解される」と説明しています。公民館長から、「意見が二つに割れている問題で、一方の意見だけを載せるわけにはいかない。七月号は俳句欄を削除する」と、「公民館だより」に俳句を掲載している俳句教室に通告があったそうです。また市長は記者会見で、憲法が保障する表現の自由を侵したのではないかと質問されると、「私たちは(表現の自由に)制約をするつもりはない。一方だけ載せると、むしろ表現の自由に制約をあたえかねない」と答えたそうです。
■一方に偏せず
「九条守れ」俳句掲載拒否問題は、市長の言葉のように「一方だけ載せると、むしろ表現の自由に制約をあたえかねない」、また館長の「意見が二つに割れている問題で、一方の意見だけを載せるわけにはいかない」という回答そのものが、一方の意見に偏っていると思います。まず、憲法九十九条で憲法尊重擁護義務が規定され、「公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」とされており、九十八条で、「この憲法は、国の最高法規であって、その条規に反する(中略)全部又は一部は、その効力を有しない」と規定されています。つまり「九条守れ」俳句の掲載は最初から合憲であり、憲法尊重擁護義務のある公務員が「九条守れ」俳句を掲載することは、決して、一方の意見のみに偏っていることになりません。
■精神拠点
さらに、憲法が保障する表現の自由の下、「九条守れ」俳句に反対する俳句を掲載すれば、双方、恨みっこなしになります。反対俳句の作者が掲載したくなければ、表現の自由を棄権したわけであり、なんの問題もありません。戦争の犠牲を踏まえて獲得した不戦憲法9条が、暴走政権によって揺れている今こそ、「九条守れ」俳句の掲載のベストタイミングです。九十九条「憲法尊重擁護義務」の下、大手を振って掲載すべき時期に、暴走政権下にあるタテ社会の成員の辛い所でありましょうが、公務員はお上の家来ではなく、その精神拠点は、国民(市民)にあるべきだと思います。世論が二分しているのではなく、一内閣が勝手に国の最高法規である憲法と条規に反して解釈改造しているだけです。改めて、第九十七条「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、(中略)現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである」ことを思い出し、「公民館だより」に引用してはいかがでしょう。(引用ここまで)
俳人の立場から さいたま市の俳句掲載拒否の問題点 2014/08/22 18:41http://mujin.at.webry.info/201408/article_3.html
さいたま市の三橋公民館が発行する「図書館だより」に、公民館独自の判断で俳句作品の掲載を拒否した問題は、現在大きな批判のうねりとなりつつあります。経緯はすでにご存じの方が多いと思いますが、先ず事件の概略とポイントを述べ、次にこの問題の何が問題なのかを、長年俳句に携わってきた者の立場から纏めてみました。
■ 事件の概略とポイント(略)
■ この事件を看過できない理由
私がこの事件を知ったのは7月4日の東京新聞の記事でした。記事を目にした時、脳裏を過ったのは戦前に起った京大俳句事件です。京大俳句事件とは当時、新興俳句運動の中心であった京大俳句会の中心メンバーが、拘引・逮捕・監禁された事件です。この事件を、きっかけに言論弾圧の嵐が吹き荒れ一年後、日本は太平洋戦争に突入しました。私は7月4日の記事で「この事件を看過すると、そこまで行くぞ」と言いようのない悍(おぞま)しさを感じました。それは今年に入り以下のような伏線があったからです。
・ 明治大学、「平和や原発考える集会」に会場提供を拒否(H26年6月)。
・ 福井県文化振興事業団が、反原発を副題にしているという理由で、アート展
の施設利用申請を却下(H26年6月)。
自由と学識の府である大学や、公的機関が、政治や思想に関係した関わり合いを拒否する問題が最近多くなったように思います。特に原発や最近話題の憲法改正・解釈の問題に対して、本来自由で平等な立場である筈の機関が権力に「上目使い」になるのは、例えば大学では国からの研究費や助成金支給に関する金銭的な問題が背景にあるものと思われます。
しかし大学や公共機関のこれらの行為は、詰まるところ市民の「言論の自由」「表現の自由」を拘束することに加担している行為に他なりません。このことを放置しておけば、やがては自らに、または子や孫の世代に、その報いが跳ね返ることを、職務上の利害を超えて一市民として自覚しておかねばならないと思います。
■ 市側の対応の何が問題なのか
その後、当件に関する「市民の集い」(7月25日)があるとを知り出席した。その集会で、パネラーの佐藤一子先生(法政大学)から、本件について主に法的解釈面から話があった。(略)以下、先生の話を元に小生なりに本件を解釈し、問題と思われるポイントを述べます。
◆ 法的に見た公民館の役割と今回の問題。
公民館の本来の役割は「市民の学習の自由を保障し、その環境を醸成する」ことにある。今回、その立場にある公民館長が「学習の内容や、成果の発表に恣意的な政治判断をして行政介入」することは、自らの職責を自覚しない越権行為である。
◆ 市側の対応の問題点。
今回の問題に対する市側の対応は、非常に問題が多いことが明らかになりました。以下に、その問題点を列挙します。
□ 公民館を管理指導する立場にある市の教育行政部門が、上述した館長の越権行為を糺すべきところを、逆に擁護に回っていること。
□ その根拠として、社会教育法第23条とさいたま市の「さいたま市広告掲載要項」を持ち出し、法的正当性を主張しようとしている。 しかし、これは以下に述べるように全く根拠がない。
□ 23条は、公民館という公共の場を利用する際の利用規制を示しているもの。すなわち特定の営利事業を援助すること、特定政党の利害事業や特定選挙候補者の支持、特定の宗教の支持・支援などを規制している。
□ これは、民間会社の営利や、政党・宗教の教育宣伝活動に公共の建物を使用させないもので、俳句の会をこの基準にのせて活動を規制することはどう見てもおかしい。
□ また、23条では説得性が薄いと見たのか、市側は併せて市の「さいたま市広告掲載基準第4条(1)エ」を引き、「国内世論が大きく分かれているもの」を根拠としている。しかし、この条項は本来市の刊行物に有料で広告を掲載し市の財源を補充する目的で制定されたもので、その際の広告内容を規制する条項である。つまり、俳句作品と有料で掲載する広告の内容とを同列に扱おうとしている。
□ これは23条では説明しきれないので、全く筋違いの「さいたま市広告掲載基準第4条(1)エ」を持ち出して来たと思われる。
□ このような筋違いな条項を持ち出し、俳句作品に適用する姿勢は、法的知識に疎い市民を見下した市民無視の行為に他ならない。
□ さらに気を付けるべきことは、市側が23条の条文が具体的でないので、具体的な禁止事項を条文化し追補して行きたいと言っている点である(東京新聞朝刊、7月16日)。
□ 例えば今回の問題で、公民館長や市長が言っている「国民を二分する問題を公民館で取り上げてはならない」などの条項が条文化されたら、公民館で9条の話や、集団的自衛権などの話が一切出来なくなる危険性がある。
□ この発言は、公民館とは市民がそういう話を活発にする、つまり社会教育の場であるという基本的概念が「さいたま市」にはないということを宣言していることにはならないか。
□ これは、「さいたま市」が戦前の治安維持法の地方自冶体版を制定しようとしている動きを示唆していることになると思われる。
□ 上記の理由から、本件が戦前の治安維持法に戻る「蟻の一穴」にならないよう、市民は今後も注視すべき問題であると思います。
画像<7月25日に開かれた市民の集い>
■ 俳句という文芸について
今回の問題で公民館長の言い分「世論を二分している内容の作品」について考えてみたいと思います。館長のこの言葉の響きには俳句作品「梅雨空に「九条守れ」の女性デモ」が、俳句作品ではなく、恰も個人の発言または意見に見えているように思います。現に掲載をしない理由書を作者個人に送付しているということは、その観が否めないように思われます。これは、俳句という文芸をよく理解していないことに原因があるように思われます。俳句をやらない方には、俳句という作品がどのような経過をたどり作品になるか、分からないと思いますので、以下にその手続きを簡単に説明したいと思います。
◆ 句会という俳句作品の生成の場
俳句作品は一般に以下の行程を経て作品となります。
□ 個人が個別に詠んだ俳句を句会が準備した短冊に記述する(無記名)。これを出句と言い、提出する句数は事前に伝えられる。 <出句>
□ 出句された短冊を集め、短冊をバラバラに掻き混ぜた上で、再度短冊を句会出席者に回し短冊の俳句を清記用紙に転記する。これは筆跡などで作者が知れることを防ぐためで、清記と呼ばれる。 <清記>
□ 清記用紙を句会出席者に順番に回し、予め指定された句数だけ感銘をうけた句を抜き出して選句用紙に記載し披講者に渡す。 <選句>
□ 披講者が各人の選句を読みあげる。 <披講>
□ 主宰者または指導者が選評・講評する。 <選評>
□ 出席者全員が、高点句や感銘句、問題句などを評し合う。 <合評>
なお、句会によっては「選評」迄で、「合評」がないこともあります。
一般には「出句」~「合評」の行程を経て俳句作品が生み出され、作者名が明かされるのは、披講、または選評の時に初めて明らかになります。つまり俳句作品は、現代詩のように作品=作者という近代市民的自己主張性は句会によってかなり薄められます。その理由は上述したように句会と言う互選システムや選評・合評を通して自己の作品から「座(句会に連座している皆さん)=読み手」の作品へと昇華されるためです。これは偏に以下に述べるような俳句が持っている詩形の特徴からくるものと思われます。
◆ 俳句の詩形とその表現上の特徴。
俳句は17音の世界最短の詩形と言われています。このため多くの事を一句の中に織り込むことはできません。したがって古来その表現方法に様々な工夫が凝らされてきました。その結果、これは小生の考えですが大別すると、現在は以下の二つの方法が主流となっています。
□ 主張したいことを花鳥風月(森羅万象)に託して詠む古典的な表現。
□ 眼前を凝視し見たままを詠む、子規が明治以降に採用した写生的表現問題になった「梅雨空に「九条守れ」の女性デモ」という句は、表現法としては写生的表現に入ると思います。久しぶりに都内に出たところ、梅雨空の下で「九条を守れ」と叫ぶ女性だけのデモに遭遇したという事実を、さりげなく詠んだ句であると思います。この句に作者の強い思い入れはなく、眼前の景を素直に詠んだ写生句と思います。敢えて言えば季語「梅雨空」に作者の鬱とした気分が感じられます。このような句を「世間を二分する云々」と恰も裁判官のように大仰な判断を下し掲載禁止にすることは、俳句という日本を代表する芸能を全く理解していないと思わざるを得ません。
◆ 俳句(古くは俳諧)の学問的価値
日本民俗学の父、柳田国男は、終生『俳諧七部集』を座右の書とし、擦り切れるまで読んでいたと言われています。柳田は『俳諧七部集』から、当時(江戸初期~中期)の庶民の気持ちや暮し振りを手に取るように読みとっていたと言われています。柳田の『木綿以前の事』を読むと、そのあたりのことが窺い知れます。木綿や、瀬戸物(陶器)が庶民の間に普及することで、庶民の暮しやその時の心情が、それこそ心の襞を見るように『俳諧七部集』で分かるというようなことが書いてあります。つまり民俗学的な見地から、また歴史学の時代考証的な面から見ても俳句(俳諧)作品は、学問的な価値を秘めていると言えます。
俳句や川柳がよく新聞のコラムやエッセイに引用されるのも、その時代、時代の庶民の心情や暮らし振りを端的に表現している作品だからと言えるのではないでしょうか。後世の人が現在の世相を見る上で大変参考になるかも知れない、あるいはそのような学問的価値のある作品であるかも知れないわけです。掲題の「梅雨空に「九条守れ」の女性デモ」という句は、少なくとも平成26年の6月を代表する世相であり、庶民が記憶した歴史の記録でもあるわけです。つまり、「世相を二分」する時代・世相だからこそ記録(掲載)すべきではないでしょうか。
■ 地方自冶体の文化リテラシー
リテラシーという言葉が最近多く使われているようです。本来の意味は読み書き能力を表す言葉でしたが、十数年前に米国IT企業が拡販目的に「ITリテラシー」なる造語を作り、盛んに企業へのIT導入を画策してから言葉として定着したようです。小生もそれにならい地方自冶体の「文化リテラシー」なる言葉を造語し、今回のさいたま市と対照的な高知市のニュースを紹介したいと思います。このニュースは高知市に住む友人が教えてくれたもので、6月24日の「高知新聞」の「よさこい談話室」というコラムで紹介されました。コラムの題は「連歌で返す初舞台」となっており、以下はその概要です。
六月の高知市議会の最終日、四月に就任したばかりの谷智子新教育委員長が、この日初めて議会で答弁に立ちました。無事に質疑応答を終えた新教育委員長に、短歌が趣味の岡田泰司議員が、「水無月や言論の府よ答弁席」と五七五で問いかけました。新教育委員長は一瞬ためらいを見せましたが、「ただ真っ直ぐに子ら思ひつつ」と七七で返答しました。女性の新教育委員長らしく、ひたすら子ども達のことを思って答弁しました、と応じたわけです。すると岡田議員は再び「水無月や言論の府よ答弁席」と繰り返し呼びかけました。新委員長、こんどは落ち着いて「どぎまぎするもお手柔らかに」と再度七七で答え、見事追撃をかわし場内の拍手を呼んだ。
流石に教育委員長です、短歌・連歌の素養は十分で、慌てることなく優雅に連歌での質問には連歌で応えるという、高知市議会の文化リテラシーの高さを、さりげなく示したようです。市議会と公民館を同列に比較はできませんが、少なくとも行政を司る行政の長たるものは一定の文化リテラシーをもって行政にあたって欲しいと思います。
■ さいたま市にお願いしたいこと。同じ埼玉県民として私は、以下の事を、さいたま市にお願いします。
◆ 社会教育法、および公民館の役割に関して法の精神に鑑みた行政。
◆ 市民の社会教育を損なうような公民館利用に関する規制条例化の廃止。
◆ 今回の掲載拒否の謝罪と当該俳句の再掲載。<以上> (引用ここまで)
愛国者の邪論の拙句・拙歌をどうぞ!
十七の文字に慌てる権力者
いつの世も庶民つぶやく言の葉にビビる権力自由の国にも