憲法を歴史的に意味づけれ場、憲法は使わざるを得ないものになる!
次は各社のコラムに掲載された「文化の日」について掲載されていたものを掲載しておきます。ご覧ください。
北海道新聞 卓上四季 2014・11・3 http://www.hokkaido-np.co.jp/news/fourseasons/
憲法と文化
映画「2001年宇宙の旅」でも鳴り響いた雄大な交響詩は有名。ことし生誕150年のドイツの作曲家リヒャルト・シュトラウスである。地味ながら胸を打つ歌劇も残した。17世紀の三十年戦争を扱った「平和の日」だ▼書かれたのはナチス政権下、台本原作は作家シュテファン・ツバイク。政権に近かったシュトラウスに対し、ユダヤ人のツバイクは亡命を選び、ついには自殺する。対照的な人生だったが、平和への思いは通じ合い、作品に結実した▼さて、きょうの「文化の日」。現代日本の「平和の日」という位置づけもできることを、あらためて認識したい。「国民の祝日に関する法律」では、その趣旨を<自由と平和を愛し、文化をすすめる>日としているのだから▼日本国憲法の公布記念日である。1946年のこの日、昭和天皇は国会で勅語書を読んだ。<朕(ちん)は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し(略)、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ>▼憲法の条文を調べてみると―。「文化」が登場するのは意外にも1回だけ。「自由」が11回で、「平和」は5回だが、うち4回は最も重要な宣言である前文に、残る1回は9条に出てくる▼明治天皇の誕生日でかつては「天長節」「明治節」と呼ばれた。制定の裏には復古的思惑もあったが、それも歴史を考える教材になるだろう。(引用ここまで)
南日本新聞 南風録 ( 11/3 付 ) http://373news.com/_column/nanp.php
「文化の日」について、国民の祝日に関する法律は「自由と平和を愛し、文化をすすめる」と定めている。俳句で季語になるほどなじみ深い祝日である。では、なぜ11月3日が文化の日なのかと言うと少々ややこしい。1946年のこの日、日本国憲法が公布された。「憲法記念日」にふさわしいが、明治天皇の誕生日を祝う「明治節」に当たるため、連合国軍総司令部に気兼ねしたらしい。47年5月の憲法施行は決まっていた。ただ、1日はメーデー、5日は男子の節句でどちらもそぐわない。そこで3日とし半年前の公布を閣議で決めたが、当時の法制局長官は「司令部の思惑はどうかという一抹の不安」と書き残している。日本が復古主義に戻ろうとしていると、疑われることへの恐怖がうかがえる。そのため、5月3日を「憲法の施行を記念」する日とし、公布日は名を変えて祝日と認めさせた。新憲法の下で文化国家を築くという決意表明に知恵を絞った成果に違いない。憲法公布から68年、安倍政権は戦後一貫して行使できないとしてきた集団的自衛権の憲法解釈を閣議決定でひっくり返した。憲法の空洞化を進める勢いに、平和国家の土台が揺らぐ危うさを感じずにはいられない。芥川賞作家で俳人の清水基吉氏の句に「文化の日一日賜(たま)ふ寝てゐたり」とある。のんびりと休みを楽しめる平和のありがたさをかみしめたい。(引用ここまで)
河北春秋 2014年11月03日 月曜日 http://www.kahoku.co.jp/column/kahokusyunju/20141103_01.html
明治の草創期に開明的な人材が東北から出た。渡米し、ありのままを伝えた仙台藩士玉虫左太夫、藩校養賢堂の大槻磐渓学頭ら。磐渓に学んだのが宮城県志波姫町(現栗原市)出身で、近代憲法の源流を成す五日市憲法起草者、千葉卓三郎だ▼46年前に東京・多摩の土蔵でほこりをかぶっていた草案を大学のチームが見つける。第一発見者の新井勝紘専修大教授が先日、東北大で講演した。地方の民権運動を卒論に、と足を延ばした家で虫の食い始めていた文と出合う▼「日本国民は各自の権利自由を達すべし 他より妨害すべからず 国法これを保護すべし」。教育の自由や地方自治確立…。一条一条写し204条。海外の憲法に頼ったかと比較したが、オリジナルと分かる▼明治憲法発布前にここまでリベラルな中身を無名の民が考えていた。昨年10月に79歳の誕生日を迎えた皇后陛下は感想を聞かれ、郷土館で見た草案が心に残ると述べられた▼1年にわたり盛んな憲法論議が交わされたとし、「19世紀末の日本で市井の間に育っていた民権意識を記録するものとして、世界でも珍しい文化遺産と思います」。新井氏は「素直な気持ちなのでしょう」と受け止める。きょう3日は日本国憲法の公布日。その精神を先取りした言葉は輝きを失わない。(引用ここまで)
天声人語 2014年11月3日(月)付 http://www.asahi.com/paper/column.html?iref=comtop_pickup_p
近代以降、きょうの呼び名は時代で変わった。明治期には天皇誕生日を祝う天長節。昭和の初めから明治節と称され、戦後に文化の日となった。歴史の刻まれた日は「晴れの特異日」としても知られる▼特定の日に同じ天気が高い確率で現れる特異日は、1930年前後にドイツの気象学者が提唱した。きょうは昔から晴天が多いと言われたらしく、「天長節日和」という言葉もあったそうだ▼本紙で再連載中の『三四郎』にも天長節がこれから出てくる。「空は限りなく晴れて、どこ迄(まで)も青く澄んでいる上を、綿の光った様な濃い雲がしきりに飛んで行く」――。秋日和の一日を描いて、漱石の筆は冴(さ)えている▼特異日があれば「特異人」というべき人もいて、雨男、雨女などと呼ばれている。むろんジンクスの類だが、自他共に認める人もいる。明治の話でつなげば、作家の尾崎紅葉は相当な降(ふ)り性(しょう)〈雨男〉だったらしい▼その紅葉が、園遊会での講演を頼まれた。依頼した歌人の佐佐木信綱も名うての雨男。誰もが雨を観念したが、当日になると不思議と降らない。雨男と雨男がかち合ったため、陰が極まって陽を生じたと柴田宵曲(しょうきょく)著『明治の話題』が伝えている▼ちなみに2010年までの30年をみると、11月3日が晴れる率は東京で70%、大阪73%、仙台は67%。雨男、雨女の返上にいい祝日だが、きょうは晴雨が割れそうだ。太平洋側は特異日の面目を保つものの、北の日本海側は雨マークがつく。ままならぬ秋の空である。(引用ここまで)
凡語 文化の原義 [京都新聞 2014年11月03日掲載] http://www.kyoto-np.co.jp/info/bongo/index.html
東洋史学の大家、内藤湖南に「先哲の学問」という著作がある。タイトル通り学者ら江戸期の賢者9人にスポットを当てる▼新井白石、賀茂真淵(かものまぶち)らおなじみの顔ぶれの中に市橋下総守(しもうさのかみ)(長昭、1773~1814年)という聞き慣れない名前がある。今の滋賀県日野町にあった仁正寺(にしょうじ)藩の七代藩主だ▼石高は1万7千石にすぎなかったが、学問を好んだ希代の書籍コレクターとして知る人ぞ知る存在だった。藩校「日新館」を創設するなど広く学芸を奨励し、藩の文化力を高めた▼内藤は、大藩諸侯のように本の収集を学者や家臣任せにするのではなく、自ら取り組んだことも評価。「本を後世に伝えるという上においても非常に思慮の深かった人である」とたたえる▼中国文学者の興膳宏・京都大名誉教授は「『文化』の原義は武力に頼らず平和的な手段で世を教化すること」と「漢語日暦(ひごよみ)」(岩波新書)に書く。和漢の書を渉猟した市橋が目指したのはむろん、文治による藩政だった▼市橋が亡くなって今月で200年。湖国の小藩主が成し得た大きな業績に思いをはせるとともに、「文化」という言葉がもともと持っていた意味をいま一度深く受け止めたい。3日は、平和の思想がバックボーンにある日本国憲法が公布されたのにちなむ祝日「文化の日」だ。(引用ここまで)
中日春秋 2014年11月3日 http://www.chunichi.co.jp/article/column/syunju/CK2014110302000106.html
木下恵介監督、高峰秀子さん主演の映画「二十四の瞳」は一九五四(昭和二十九)年九月の公開で、ちょうど六十年前になる。本日は文化の日。若いお方もスマホ遊びで休日を終えるぐらいならば、ビデオを見ても損はない▼香川県・小豆島の分校を舞台にした若い先生と小学一年十二人の日々という説明は要るまい。映画の冒頭、先生が教室で、初めて出欠を取る場面がえらく長い▼出席なんて名を呼び、返事をきけば済むのに大石先生は名前を呼んで、いちいちその子と会話をする。「みんなには何て呼ばれているの」「あなたはちょっとおせっかいね」。時間がかかるはずだが、子ども一人一人に時間をかけて向きあう大石先生の性格を描いている▼同じ小学一年生。公立小学校の一年生「三十五人学級」の見直しと四十人体制の復活を財務省が主張している。二〇一一年度に導入したが、いじめ、不登校などで大きな改善効果がないという▼新たに導入する幼児教育の段階的無償化にも財源がかかることは承知しているが、いかにも性急な判断である▼一年生にとって、先生は親に近く、お話をしたい相手である。「先生あのね」。人数を増やし、子らが分け合う時間を奪うべきではなかろう。そこに思い出や体験が生まれる。「八十の瞳」はいかにも窮屈である。成果がない? 成果はその子が大人になるまで判断できまい。(引用ここまで)
信濃毎日 斜面 11月03日(月) http://www.shinmai.co.jp/news/20141103/KT141101ETI090011000.php
作家水上勉さんの著書「失われゆくものの記」に、越前和紙を取り上げた章がある。福井県五箇地区に、紙祖神(しそしん)「川上御前」が伝えたという紙すきの古法を、一徹に守る職人がいた◆人形や筆、漆器、菓子…。1960年代、水上さんは全国の職人を訪ね、彼らの生き様や伝来の技に倣った仕事ぶりを記録した。高度成長期のただ中で荒廃する山野の景観、村人が都会に出て離散した集落の様子を伝えた。既に失われつつあった当時から、さらに半世紀が過ぎている◆今月、日本の和紙が、国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録される見通しとなっている。島根県の石州半紙と、埼玉県の細川紙、岐阜県の本美濃紙が対象だ。越前和紙も今年、国の重要有形民俗文化財に指定された。伝統の技を守る人々は今もいる。心強い◆一つの手仕事が消えることは、なりわいを受け継いできた集落の営みや、人と自然との関係を失うことにもなるのだろう。「失われゆく…」で、水上さんは「職人の亡(ほろ)びは、大切な美術品や大切な日本人固有の生活調度品の亡びである。それは日本の亡びを象徴する」とつづっている◆文化の日のきょう、県内各地で文化祭が開かれる。工芸品の展示や芸能の披露、地元の歴史を学ぶ講座なども企画されている。自分たちが暮らす地域の風土を培ってきた文化に、思いをめぐらせてみるのもいい。(引用ここまで)
宮崎日日 子どもと読書 2014年11月3日 http://www.the-miyanichi.co.jp/kuroshio/_9024.html
「目耕」と書き「もっこう」と読む。田んぼを耕すことになぞらえ、目で紙を耕す。つまり読書の意味だ。過ごしやすく夜が長い秋は灯火親しむの候、読書の季節とされる。10月27日からの読書週間はきょうの文化の日で折り返し。読書の大切さが言われる一方、若者の本離れを憂う声は相変わらずだ。若者の側に立てば、読書以外に使う時間も多いのだろう。なのに本を読め読めとやり玉に挙げられれば、少しだけ同情もしたくなる。耕す対象が紙から画面へと変わってきたのは、テレビが登場してからか。子どもは本を読まなくなったと批判され、21世紀に入るとインターネットとゲームが爆発的に普及、今やスマホが席巻する。若い世代の読書が増える望みは薄い。世の中の利便性や娯楽の向上にせっせと精を出したのは大人なのに、子どもには誘惑に乗らず本を読めでは通るまい。それなら大人が読書しているかと聞かれたら、ウッと詰まる人もいるはずだ。仕事が忙しいとか、ありふれた言い訳は口にせぬ方が無難である。ただし読書の魅力を子どもが知っていても損はない。「ひとり燈火のもとに文をひろげて、見ぬ世の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる」。本を通じて昔の人を友とすることは何より慰められると、兼好法師は徒然草に書いている。灯火の昔と違い、季節も時間も気にせず思い切り本が読める時代になった。年が若いほど人生は長く、紙を耕す時間もたっぷりある。そして、読めば読むほど豊かな実りがあることを大人は教えていく責任があろう。読書週間は9日まで。(引用ここまで)
福島民友 【編集日記】(11月3日付) http://www.minyu-net.com/shasetsu/nikki/1103n.html
「めくる めぐる 本の世界」。9日まで行われている「読書週間」の標語だ。1947(昭和22)年の第1回だけは1週間だったが、2回目以降は「文化の日」をはさみ2週間となった▼きょうはその文化の日で、読書週間も残り1週間となる。本紙読者の皆さんは読書週間前半の先週、何冊の本をお読みになっただろうか。と、聞くのにも勇気がいるような調査結果が手元にある▼文化庁が行った2013年度の「国語に関する世論調査」で、1カ月間に本を1冊も「読まない」という回答が48%と半数近くに達した。約10年前の02年度に比べて10ポイントの増加だ▼それだけではない。読書量も65%が「減っている」と答えた。「忙しくて時間がない」(51%)や、「視力など健康上の理由」(34%)が今回も多いが、「スマホなど情報機器で時間が取られる」が26%と、5年前に比べて12ポイントも増えた▼情報機器の普及で、さまざまな情報を得る機会は大幅に増えたが、精神面での質やゆとりが失われているということはないだろうか。本のページをめくり、心豊かな空間と巡り合う。そういう時間をもっと持ちたい。(引用ここまで)
北國新聞 きょうのコラム「時鐘」 2014年11月3日 http://www.hokkoku.co.jp/jisyoh/hjisyoh.htm
なるほど、そういうことだったのかと納得(なっとく)できる一言(ひとこと)に出会(であ)うことがある。古い九谷焼(くたにやき)が、くどいくらいの絵付(えつ)けだった理由(りゆう)を語(かた)った陶芸家(とうげいか)の一言もそうだった
電気(でんき)のない時代(じだい)、ろうそくのほの明(あ)かりに照(て)らされた暗(くら)い室内(しつない)で存在感(そんざいかん)を放(はな)つためだというのである。古九谷皿に見る大胆(だいたん)な絵柄(えがら)や幕末(ばくまつ)・明治に描かれた、きらびやかな九谷焼のなぞが、その一言で氷解(ひょうかい)した気分だった
歌舞伎役者(かぶきやくしゃ)の大胆な化粧(けしょう)も、舞台照明(ぶたいしょうめい)がろうそくしかなかった時代の産物(さんぶつ)だとの見方がある。強烈(きょうれつ)な隈取(くまど)りや白塗(しらぬ)りの化粧は、薄(うす)明かりの中で映(は)える演出(えんしゅつ)だったという。ことし夏、平成中村座(へいせいなかむらざ)がニューヨークで公演(こうえん)した。はでな立ち回りが受けたのも同じ理由(りゆう)だったのだろう
文化の日。有形無形(ゆうけいむけい)の、そして土地土地で異(こと)なる「文化」に光(ひかり)が当てられる一日である。どれもそれぞれの風土(ふうど)と伝統(でんとう)の中から生まれ、変化(へんか)を続(つづ)けてきたものだ。昔(むかし)のまま変わらないようにみえて、発生当時(はっせいとうじ)の形のものは一つとしてない
晴(は)れの日にスポットライトを浴(あ)びて表彰(ひょうしょう)される人々の足元にある「影(かげ)」に、先人(せんじん)の汗(あせ)と工夫(くふう)を見るのである(引用ここまで)