「保革」論に代わる枠組みの物差しは憲法を活かすかどうか!
日本の人権民主主義のたたかいの伝統の継承者とパイロットは誰か!
日本型「共産主義」とは何か!
赤旗まつりに対して、産経の記事を紹介しました。今沖縄では、知事選挙がたたかわれていますが、「保革」統一候補に対して、共産党のレッテルを張って、攻撃している輩がいるようです。古臭い「共産党」論が通用すると思っているのでしょう。かつのソ連「脅威」論を、再使用しているのでしょうね。こうした事実をみると、この国の政権政党寄りの勢力は、外国の事例を持ち出さなければ、選挙で勝てないということを自ら暴露しているのですね。呆れます。
もう一つは、この「共産党」論は、中国共産党の蛮行と日本共産党を連想させる政治的意図が透けて見えてきますが、これは日々、垂れ流されていることは周知の事実です。愛国者の邪論はこうした、安倍首相に言わせれば「ねつ造」は止めるべきだと思っているのですが、なかなか止めようとはしません。恥ずべきことですが、目的のためには手段を選ばないのが権力者というものです。
問題は、主権者である国民が、こうした「ねつ造」情報に対して、「ノー!」を突きつける判断力を持っているかどうか、そのことが最大最高も課題であるということです。そのためには、当事者の共産党が、或は民主主義を求める国民が、このような「ねつ造」を許さないというシステムをつくることではないでしょうか。このような「ねつ造」を行った場合は、ペナルティーが課されるということを、どうやって国民的合意をつくるか、そのことが課題になってきているのではないかということです。これはヘイトズピーチ規制と、似ているところがありますが、解釈と運用によっては、治安維持法と同じような使われ方をすることにもなりかねませんので、実現については難しいと思います。
本来は、言論に対しては言論で対処するという「政治風土」をつくることです。さもないと、「政治風評」によって、相手を貶めるようなことが横行することになります。これは「政治風評」による被害は国民にあるということを、国民がどのように気付き、判断をくだしていくか、ということです。その際の最大の課題はマスコミです。言論の民主主義的チェック機能を強化していくことができるかどうかです。そういう意味では、マスコミの民主化は最大最高の課題と言えます。
そういう点で、日本における民主主義の土台づくりを広く固くしていくために、また日本の民主主義を発展させていく中で、文字通り民主主義を根付かせていくためにも、「共産党」という「党名」を検討していく時期に来ているように思いますので、以下まとめてみることにしました。
このことは、共産党の戦前の不屈なたたかいを確認したうえで、「コミュニストパーティ」、最近は「JCP」と略されていますが、その「C」に当たる部分について、訳語の仕方と内容を発展させる時だということです。しかも、これは、ソ連共産党や中国共産党などの「脅威」論や、人権と民主主義を抑圧していることを触れ回っていることを回避するための処方箋としてなどというものではないということです。
愛国社の邪論は、もっと積極的に捉えているのです。21世紀の日本の在り方を展望した「党名」とするということです。どんな党名にしようが、攻撃する側は、必ず攻撃してくるということを前提にしてなお、この党名の今日的発展を国民的に検討するということです。
ここで「共産党」という「党名」、「共産主義」「社会主義」という場合、日本においては、必ず他国の事例を持ち出して、日本共産党を追い落とすという構図が定着しているということです。この不条理については、誰も疑問に感じていないのでしょうか?或はマスコミが、「これって、おかしいよね」とならないようにしているのか、どちらかです。そうしたマスコミ報道が「政治風評」となって、なんとなく自民党政権を支持する世論となってきていたように思います。
「キョーサントー」という漠然とした響きに、なんとなくソ連共産党や中国共産党が連想されて、なんとなく選挙では共産党ではなく「自由民主党」の方が「いいよね」となってしまうのではないでしょうか?「自由」と「民主」を否定する人はいませんから。それに対して、「自由」と「民主」を実現するために命を懸けてきた「共産党」=「キョーサントー」に対しては、腰が引けてしまう国民が多数いるのです。90年代後半に820万もの支持を獲得した時、「キョーサントー」に投票した人の話として、「手が震えた」ということに、ある意味驚きと同時に「そうだよね」と、不思議と納得してしまったことがありましたが、このことは日本国民の意識状況を雄弁に物語っています。
そのような国民意識が形成されてきたのは、『共産党宣言』の最初の「妖怪」論を紐解くまでもなく、また明治において、この「共産主義」が紹介された時、当時流行っていた、恐るべきコレラに譬えられて、「コロリ」と言われていたことに観るように、如何に体制派、支配勢力にとって恐ろしい思想であったか、そのことが判ります。そうした思想・思潮が、今日も継承されているということを理解しておく必要があります。
こうした、「誤解」「偏見」をどのように「変革」「変換」していくか、そのことは、「日本型未来社会」を形成していくうえで、大きな課題ではないかと思うのです。他国の物まねではない、日本の歴史の中で形成されてきた人権と民主主義のたたかう伝統を継承して、現在に活かし、未来をつくるという視点です。
マルクスの見直しと同時にやるべきことは?
日本の歴史における民主主義のたたかいは?
マルクスやエンゲルスなどの思想と理論を学ぶことは当然としても、日本における唯物論学の歴史、階級闘争の歴史から学びながら、更には日本における神道・儒教・仏教・道教などなど、様々な思想を点検しながら、それらが、日本の歴史を前進させるために、どのような役割を果たしてきたか、そして、それらの思想が現代人にどのような影響を与えているか、そして、これらの現代人が、「社会主義」「共産主義」思想をどのように受け止め、日本に具体化しようとしているのか、そのような問題意識の中から、真に「自主独立」の日本の歴史に当てはめた、創造的に適用した変革の道筋を考えていく時が来ているのではないかということです。
日本共産党は自主独立の、日本型「社会主義・共産主義・未来社会を」つくる綱領を持っている政党です。しかし、これらを観ると、以上述べてきたことは、重視されていないように思います。日本に根付いたものを使って、新しい社会をつくるという思想です。ところが最近はマルクス・レーニンなどの見直しが重視されていることは、赤旗などの刊行物を観ると判ります。現在使われている綱領改定の際に、そのことが強調されました。
しかし、かつての野呂栄太郎が『日本資本主義発達史』の中で述べた日本の歴史の分析の方法を使っているとは思えないようなものになっていることは以下を観れば明らかです。
日本共産党綱領全文
自由と民主主義の宣言 (1996年7月13日一部改定) 1996年07月13日
日本型未来社会の模索と展望のためには日本の歴史の中にこそ!
愛国者の邪論は、こうした思想が、日本国民の中にどんな影響を与えているか、その点を研究してみる必要があるように思っているのです。
それは一つには、外国の事例を言われても、NHKの大河ドラマ・時代劇の世界から日本の歴史を観ている国民にとって世界史、とりわけヨーロッパ史はわかりにくい、なじみ深くないという感情があるということ。二つは、こうした感情が、簡単に外国の共産党の蛮行を受け入れてしまうのではないかということ。三つは、日本独自の歴史の中からマルクスやエンゲルスが到達した「社会主義」「共産主義」論を導きだすことができていないことの弱点が、国民をして外国の共産党の蛮行を受け入れさせているのではないかということ。四つは、日本における史的唯物論を使った歴史分析から発展させた歴史の展望としての「社会主義」と「共産主義」像を、国民がイメージできないこと。
などなど、現状の綱領に明記されている理論的思想的研究の現状が反映しているのではないか、それが、国民が、「キョーサントー」を確信を持って支持できていない、大きな要素ではないかと思っているのです。共産党も、エンゲルスが、階級闘争は、「政治闘争、経済闘争、思想闘争の分野で行われている」と述べているにもかかわらず、この「思想闘争」の分野が遅れているのではないかと、愛国社の邪論は、共産党を観ていて思っているのです。
例えば、これだけマスコミが発展している中で、新自由主義の害毒が振りまかれているのにもかかわらず、この新自由主義に対する思想・経済・政治闘争は、中南米が成功したことと比べると、非常に弱いように思います。それは新自由主義とたたかって政権を奪取した中南米の政権との交流が非常に弱いことに象徴的です。
もう一つは、日々振りまかれている害毒に機敏に反撃する政策提起が弱いということ、「政策」の提案はするものの「政権選択」と「政権交代」のための「政権公約」を提案していないことです。これこそ、エンゲルスの「階級闘争の3つの分野」を具体化したものであるはずなのですが、これが弱いということです。更に「階級闘争の弁証法」論と「多数者革命」論にたちながら、広大な無党派層を視野に入れた政策提言と国民的運動を提起しているという点では、弱いということです。
「一点共闘」論から「統一戦線へ」論という「発展段階」論にたっていることです。一般的には間違っていませんが、日本の歴史においては、民主党の政権樹立という政治的経験を果たした国民の政治への「期待」と「失望」「不信」という状況を踏まえるのであれば、残された「期待」は、もはや「キョーサントー」しかないのにもかわらず、大胆な提起ができていないのです。むしろ「自力更生」論が支配的になっているのです。
「自力更生」に「苦戦」しているのは何故か!自己検討はリアルに!
このことは、今日の赤旗を観れば明らかです。それは9面の「党活動」版に象徴的です。
「10月の入党決意が237地区で584人、8月1日以降に党員を迎えた支部は6.9%です。『赤旗』読者は日刊紙719人減、日曜版2497人減となります」とあるように、「自力更生」に「苦戦」しています。その「苦戦」を突破していくためにいろいろな文献の「読了」を提起しています。しかも「党躍進の条件と可能性が客観的に広がっても、自力を付けることなしには選挙で勝利できないということが、この間の国政選挙や党大会後の中間選挙の最大の教訓」と「叱咤激励」をしているのです。
しかし「叱咤激励」をし続けてきてなお、このように「苦戦」を強いられているのは何故か、については、分析されていません。このように、全党員が「自力更生」のために、「党躍進の条件と可能性が客観的に広がっても」「苦戦」しているのは何故か、その点が曖昧なのです。「中央委員会書記局」の分析力・指導力の検証が必要ではないでしようか。
愛国社の邪論も、この文書が言うように、「党躍進の条件と可能性が客観的に広がって」居ることは事実ではないかと思うものですが、それに対する方針が、党員の「政治的な力」になっていないのは何故か、その点が問題ではないかと思うのです。それは、安倍内閣打倒を掲げながら、「政権選択・政権交代」を求めていないことにあるのではないかと思うのです。党員への方針は、この運動のために、職場や地域、学園で、どんな運動を提起しているのか、曖昧です。
内閣打倒を掲げ投げながら、次の政権はどんな政権をつくるのか、共産党は提起していません。このことについて党員の皆さんはどんな考えをおっているのでしょうか?中央委員会の方針をそのまま受けて実践していることは想像に難くありませんが、それにしても、国民の皆さんが、共産党の内閣打倒の声を聴いた時、どんな反応を示しているか、赤旗を観る限りでは、余り判りません。内閣打倒後に、安倍政権に代わる内閣は、自公政権で良いのか、亜流政権で良いのか、或は民主党政権で良いのか、更には政界再編劇に基づく新たな枠組みの政権で良いのか、共産党は何も語っていません。
このような曖昧さが、共産党員の皆さんのこころに火を燃やさせていないのではないでしょうか?判りませんが、今のままでは、「内閣打倒後、どうするの?」ということになりかねません。「いや、その時の情勢で決まるのだ」ということになっているのかも知れません。その時の情勢に枠をはめないように、今は「一点共闘」のたたかいを発展させて、「統一戦線を広げることだ」ということかも知れません。
しかし、安倍政権が解散・総選挙に打って出てきた場合はどうなんでしょうか?それでは従来どおりのたたかい方をするということになりますね。それでは「一点共闘下のたたかい」と小選挙区制下の選挙のたたかい方が、安倍内閣打倒の議席に結びつくものになるのかどうか、現状のたたかい方では、「一点共闘」論に基づくたたかいが安倍内閣打倒のたたかいに結実していくのは大変難しいのではないでしょうか?
安倍内閣の候補者に対して、対抗馬がバラバラでは、国民の「期待」は分断されてしまうことは、この間の選挙で明らかです。だからこそ、民主党の政権交代時の、無党派層の「期待」を集める選挙のたたかい方が求められてくるのだと思うのです。現在民主党の代わりを務められるの共産党であることは明瞭です。しかし、共産党が単独で、その支持を集められるかというと、それはできないでしょう。滋賀・福島・京都の知事選が、何よりの証拠です。
ではどうするか?圧倒的多数の「無党派層」の期待・要求を実現していくための「政権選択・政権交代・政権公約」を国民とともにつくるということを呼びかけるのです。この中で300の小選挙区に安倍内閣に代わる候補者を擁立するのです。こうした流れをつくるための方針こそ、「自力更生」が果たせるのではないでしょうか?
キョーサントーに込められている歴史を打ち破って
日本型未来社会を構築するために!
以上のような曖昧な共産党の方針に加えて、共産党の党名問題があることは、共産党を支持している国民の中からも寄せられていることは、この間の赤旗を観れば明らかです。しかし、これについての、共産党の回答は、まさに「頑固」そのものです。ま、別にその「頑固」さが悪いと言うつもりはありません。が、それにしても、この党名に対する自己検討を行う時期に来ていることは、言っておかなければなりません。
そもそも、この「C」を「共産党」と訳したのは、幸徳秋水と堺利彦と言われています。もう100年以上も前の話です。それを漢字文化圏の中国も使ったのですよね。外国では「共産党」とは表記していないと思いますの、これは漢字文化圏の日本と中国だけの使用かと思います。そこで、
「コミュ」=「共同」論を徹底していくことは民主主義を徹底していくことを意味していると考えています。いわゆる「未来社会」は、徹底した民主主義=「国民・人民が主人公の社会」であるとの認識からすると、コミュニスト=デモクラシストではないかと思っています。
「コミュンー」=「コミニュニティー」ということからすると、生産手段を私的所有をしている資本家=「有産者」と違って、生産手段を私的所有していない、生産手段を私的所有しないと言われている「労働者」=「無産者」の「共同」社会としての「共産主義社会」という意味は、「生産手段の社会化」が徹底された社会という意味からすると、それは生産手段の「社会化」というのは、本来は「生産手段の民主化」、すなわち「民主主義が社会の隅々にまで徹底された社会」ではないかと思います。
そもそも「デモクラシー」は「デモ」=「ピープル=人民・国民」と「クラシー」=「パワー」=「統治力」が一緒になった言葉だということを考えると、「人民が統治力を持つ」「人民が主人公」ということを意味していると思います。これは、国民・人民民主主義ということではないでしょうか?
そういう点からすると、また文字通り、人権・自由・民主主義社会をめざすという意味からすると、「共産主義社会」「共産党」という名前も、その訳語・翻訳の仕方の検討に入るべきではないかと思っています。同時に、このことは憲法を徹底して活かしていくということをも意味していると思うのですね。
ということを考えると、「共産党」という名前を、「C」の持っている意味、歴史的に果たしてきた役割などを踏まえつつ、その伝統を発展させるという視点から検討し直して発展させていくことが検討されるべきではないでしょうか?それが「国民・人民民主主義党」かどうか、現在の私には判りません。
少なくとも、以前「ディクターツゥラー」を「独裁」「執権・執政」「権力」などと訳していたことを、訳語の意味そのものを検討した時の方法論を使って検討する段階が来ているように思います。
そのことは、共産党のたたかう歴史的伝統を貶めるものではありません。これは、これまでの人権と民主主義を実現するために命をかけてきた人民のたたかう伝統を発展させていくという視点で、独り「共産党」という「党名」の枠内に限定するのではなく、文字通り「デモクラシー」を「民主主義」と訳した時以来の大転換を図るという意味も考えながら、日本の、世界の未来社会の展望をも考えるという視点に立っていることを意味しています。
「コミュニズム」はコミュティーの「コミュ」であるからというような説明がなされることがありますが、「コミュニティーセンター」を「共産センター」と訳していないのは何故でしょうか?という簡単素朴な疑問にどのように応えていくか、などなど、共産党の躍進を願う国民の心配が、共産党攻撃がし烈になってきているなかで、名前変更を求めていることに集まっていることに、どのように親切に、どのように丁寧に応えていくか、共産党の、国民政党でありながら、革命政党として、また国民が主人公をめざす政党として、多数者の参加による社会変革=革命をめざす政党としての真骨頂が試されているのではないでしょうか?情勢は日々転換していきます。日米軍事同盟深化派=憲法改悪派=多国籍企業の利益護持派が、日々振りまく体制擁護と温存のイデオロギーをあの手この手と振りまく中で、それに真っ勝負しようとしている共産党が、これまた日々深化していくことを止めた場合、マンネリに陥った場合、国民の支持は得られないということになるでしょう。
以上の意味から、「党名」検討の時期、政権をどのように奪還していくのか、そのたたかい方の検討に来ていると思いますが、如何でしょうか?「自力更生」の果たせないままでは、「政権は奪還できません。党躍進の可能性を現実のものにできません」と国民に言っているようなものであることを自覚すべきではないでしょうか?