昨日は、全国・地方紙の社説を取り上げ、大阪市の高校で起こった体罰による自殺事件について、その奥深いところに何があり、そのことについて、マスコミ自身が真剣に取り上げてこなかったこと、またその理由について述べ、さらに、このことの意味についても述べてみました。
今日は、そのことを、さらに憲法の視点にたって、日米軍事同盟容認・深化論との関係から深めてみることにしました。
まずはじめに確認しておかなければならないことは、今回の事件に関連して、考えなければならないのは、以下の日本国憲法の原則です。
われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(前文)
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(第9条)
すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。(第13条)
何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。(第18条)
公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。(第36条)
この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。(第97条)
これらの原則が日本の社会で徹底されていたなら、学校におけるいじめや自殺、さらには、日本社会全体における人権侵害は起こせないでしょう。しかし、この原則が学校で、家庭で、地域で、会社で、どれほど徹底されているでしょうか?マスコミはこの原則をものさしに記事を書いているでしょうか?そういうことを考えると、この原則の徹底化を求めたいと思います。
そこで、特に、以下のことを指摘しておきたいと思います。
「紛争を解決する手段として」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」は「永久にこれを放棄する」第9条は、単に戦争を経験したという理由からだけではなく、フランス革命以後の人権尊重主義を受け継いだものと言えます。
「幸福追求権」にしてもアメリカ独立宣言に明記されているように、これはイギリスから独立する際の大義名分であったのではないでしょうか?
「幸福追求権」 をすべての人間に公平に適用していく!空文句、絵空事ではなく、すべての国民が、この理念を噛み締めて具体化のために実践していく、まさにアメリカ独立革命を実現した人々と今日的に連帯することになるのではないでしょうか?
こうした原則が、単にアメリカから押し付けられたものでないことは明らかです。それは「過去幾多の試錬に堪へ」てきた「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であって、「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託された」結果として、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(第12条)と、国民に課せられたのです。そうした意味で、また現在の日本の現実を診れば、日本国民にも適用されることは明らかです。
しかし、どんな立派な原則も、それを意識的に使っていこうとする気がなければ「宝の持ち腐れ」になります。このことは戦前においても「体罰禁止」の「原則」があったにもかかわらず、「天皇のために死ぬ」ことができる人間を教育するために「体罰」は公然と行われていましたし、「命令に服従する兵士づくり」のために「暴力」が意図的に使われていました。
その「伝統」は、戦後においても同じでした。憲法と教育基本法が制定され、学校教育法で禁止されたにもかかわらず、そこから学ぶことをせず、「経験主義」によって「体罰」という名の「暴力」は公然と行われ、継承されていました。
以下の資料を掲載しておきます。
毎日余録:「凡そ学校に於いては、生徒に体罰を加うべからず…2013年01月09日 00時42分
http://mainichi.jp/opinion/news/20130109k0000m070091000c.html
「凡(およ)そ学校に於(お)いては、生徒に体罰(殴るあるいは縛(ばく)するの類)を加うべからず」。1879(明治12)年に制定された教育令第46条だ。学校体罰の法禁の最先進国といわれるフランスより8年も早く、日本は体罰を法令で禁止していた…日本の学校で体罰が乱用されるようになったのは、その後の力ずくの近代化、とくに軍隊教育の影響が大きかったようだ。表向きは教育現場での体罰が厳禁された戦後も、体育系のクラブ活動などの「殴る教育」は時に美化されながら脈々と受け継がれてきた(引用ここまで)
校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。(学校教育法第11条)
懲戒と体罰を混同しているマスコミ、体罰の概念に対する無理解のマスコミが存在していることは、昨日一覧した以下の社説を見ても明らかです。以下、再度確認しておきます。
(1)教員による体罰は学校教育法で禁じられている。ここでいう体罰とは、殴る蹴るなど身体への侵害や、長時間の起立など肉体的苦痛を与える行為を指す。…いうまでもなく体罰は悪い。厳しい対処は当然だ。それでも、禁じられた行為だと覚悟のうえでふるわれる熱血教師の「愛のムチ」があり得ることも信じたい。ただ今回のケースは、そうした願望からもあまりに遠い。(産経)
(2)顧問の行為は言われているような体罰だったのだろうか。体罰とは本来、過ちを犯した者に対し、再び過ちを犯すことがないよう、やむを得ず身体的な苦痛を与え、導くことだろう。…スポーツの技術的な失敗を理由に殴ったのなら、それは教育的な罰とは異質な暴力と言わざるを得ない。(岐阜)
(3)体罰は学校教育法で禁じられている。文部科学省も、殴る、蹴るなど身体に対する侵害や、長時間の正座など肉体的な苦痛を与える行為が体罰に当たるとして全国の教委に禁止を通知している。(神戸)
(4)男性顧問は「発奮させるため」と説明している。指導の一環のつもりだったかもしれないが、体罰というには度を越している。暴力以外の何物でもなかろう。教育現場とは対極にある行為のはずだ。(中国)
(5)文科省は07年に体罰を殴る蹴るなどの身体的侵害と定義、全面禁止を通知した。(愛媛)
(6)学校教育法は児童や生徒への体罰禁止を規定し、文部科学省は2007年、「いかなる場合も行ってはならない」と全国に通知した。力による解決への志向を助長させ、いじめなどの土壌を生む恐れがあるからである。(徳島)
(7)文科省は07年の通知で体罰の禁止を確認したうえで、児童・生徒に「毅然とした指導」を求めなからも、それには子どもとの信頼関係構築が大切であり「子ども一人一人の状況に配慮を尽くしたかどうかが重要」とくぎを刺している。 授業であれ、部活動であれ、事情は基本的に同じであろう。(西日本)
(9)体罰とは本来、過ちを犯した者に対し、再び過ちを犯すことがないよう、やむを得ず身体的な苦痛を与え、導くことだ。(宮崎日日)
(10)部活動の指導者が生徒に気合を入れようと、つい手が出ることはあるかもしれない。だが、自殺に追い詰めるような行為は、明らかに教育の範囲を超えている。…学校教育法は殴る蹴るといった体罰を禁止している。どんな理由であれ人権侵害は許されない。(南日本)
以上のようなマスコミの捉え方が、如何に間違っているか、それに対して文部省が「体罰」について、どのような考え方に基づいて指導をしたか、しかし、その指導が徹底化されず、処分者が後を絶たなかったことは、その後の事実が何より示しています。
生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得 昭和24年8月2日 法務府発表
http://kohoken.s5.pf-x.net/cgi-bin/folio.cgi?index=sch&query=/notice/19490801.txt
体罰の禁止並びに暴力の否定について
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/kohyojoho/reiki_int/reiki_honbun/ag10125081.html
では何故、「法」や「法律」があるにもかかわらず、それを遵守し擁護することを怠ってきたのでしょうか?そのことは、既に明らかにしてきました。それは怠る勢力の思惑があったからです。それは、
一つには、憲法と教育基本法の徹底化をサボタージュすることで、憲法・教育基本法改悪を目論んでいたこと。
二つには、成果主義を徹底化させ、教師間の団結よりも、競争意識を助長することで分断し、教師自身をも服従させようとしていたこと。
三つ目には、こうした教育の徹底化で、自主的・民主的生徒、民主的人格を育てるよりも服従意識をもった生徒を育てることを目論んだこと。
ということです。
こうして人権と民主主義を教え、育てる学校現場において、「文部省から現場へ」と上意下達精神が徹底され、教師自身をロボット化させることで、生徒の自主性さえも奪い、物言わぬ労働者として社会に送り出してきたのです。こうした路線が、現在の社会にどのような影響与えているか、事実は明瞭です。
こうした戦前の教育の再生産が繰り返されてきましたが、その代表的人物が、橋下大阪市長と言えます。
彼は、自公政権と民主党政権の失態を逆手にとって、得意な言動とパーフォーマンスによって国民とマスコミを引き付けています。しかし、その思想は「日本維新の会」の名のとおり、超保守・国家主義者と言えます。
今回の事件に対して、彼の言動を「評価」する社説が書かれていますが、この間の彼の主張を辿ることなく、また彼の大ウソを見抜くことをせず、彼の出番を保障しています。このような政治家が、大手を振って闊歩できる日本こそ、民主主義の未成熟度を示していると思います。
(1)極めてずさんな対応である。この時、踏み込んだ調査をしていれば、今回の悲劇を防ぐことができた可能性もある。大阪市の橋下徹市長が「教育現場の最悪の大失態だ」と指摘したのは当然だ。(読売)
(2)橋下徹大阪市長が「事実なら犯罪だ。完全な暴行、傷害だ」と憤慨したのも当然だろう。(東京)
(3)橋下徹市長は「自殺の要因に体罰があったと認めざるを得ない」と述べ、徹底調査を指示した。当然のことだ。(神戸)
(4)大阪市の橋下徹市長は外部監察チームを大幅に拡大し、調査体制を強化するという。原因を根本から洗い出し、再発防止に全力を注いでほしい。(中国)
(5)橋下徹大阪市長が「ずさん。意識が甘すぎる」と批判したのも当然だし、おざなりな調査で、ごまかしてきたとしか言いようがない。(佐賀)
(6)橋下徹大阪市長は、市長直轄のチームで実態調査に乗り出す考えを表明した。しかしこれは大阪市だけの問題ではない。この悲劇を機に、全国の学校、教育委員会は直ちに徹底調査を行い、部活動での「体罰」「虐待」を根絶しなければならない。(琉球新報)
どうでしょうか?マスコミの橋下市長に対する「評価」が判るのではないでしょうか?
橋下市長自身が「勝利第一主義」と「成果主義」を徹底化させるために教員の思想信条を侵害する条例を強行し、「競争」を煽り、「体罰」を容認してきた、その人だったことをマスコミは「黙殺」「評価」しているのです。クロをシロとする、マスコミの捉え方は、まさに民主主義国家にあってはならないものと言えます。以下見てみます。
朝日 橋下知事「手を出さないとしょうがない」 体罰容認発言2008年10月26日22時49分
http://www.asahi.com/special/08002/OSK200810260045.html
学力向上のための緊急対策に盛り込んだ反復学習の実施に理解を求めた。一方、「口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と体罰を容認する発言をした。 知事は「私は学力を必ず上げます」と断言、「子どもが社会に出て壁にぶつかったとき、乗り越えられる能力が絶対必要だ」と訴えた。一方で「子どもが走り回って授業にならない。ちょっとしかって頭でもコツンとしようものなら、やれ体罰だと叫んでくる。これで赤の他人の先生が教育をできるか」と話し、どこまでを教育と認めるか合意形成が必要だとした。…討論会後、報道陣から体罰を容認するのかと聞かれた知事は「体罰という言葉にとらわれる必要はない」と答えた。これに対し、討論会に同席した生野照子・府教育委員長は「体罰に関する発言は間違っている」と話した。(引用ここまで)
朝日 「体罰」場合によってはOK? 橋下氏ら問題提起 2012年2月6日
http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201202060045.html
大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)が府議会に提出した教育基本条例案に「(教員は)教育上必要があるときは、必要最小限の有形力を行使して児童生徒に懲戒を加えることができる」という条項がある。体罰批判を恐れるあまり、必要な指導ができなくなっているとの問題意識があるのだという。殴る、けるなどの行為とは区別するため「体罰は加えることができない」とも加えた。だがその線引きをめぐり、現場では長く論争が続いてきた。…学校教育法は体罰を禁じているが、指導との線引きは難しく解釈が分かれてきた。文部科学省は2007年、線引きの基準となる指導方針を通知。体罰にあたるかは、前後の経緯や子どもの心身の状況などを総合的にみて判断するとし、有形力の行使は「一切が体罰として許されないものではない」と位置づけた。
学校現場では保護者のクレームの増加もあり、体に触れることには慎重になっている。50代の男性中学教諭は「遠回りでも言葉でさとすのが最良だという意識が定着してきた。政治が困難な現場に目を向けてくれたことはうれしいが、体罰容認と取られ、力に頼らぬ指導が混乱する可能性もある」と心配する。(引用ここまで)
「もみあげをつまんで引き上げるくらいまではいい」 橋下市長の「体罰」新解釈が波紋
2012/10/ 4 19:33
http://www.j-cast.com/2012/10/04148962.html?p=all
橋下市長は、2012年10月2日に開かれた教育振興基本計画を議論する有識者会議の中で、
「文科省のガイドラインに(加えて)、また大阪市が作ってもいいんじゃないですか?」
と、さらに具体的なガイドラインを作るように求めた。橋下市長は、「先生ももうちょっと、どうなんですか、懲戒権というか、認めてあげられないもんなんですかねー。ちょっと立たせただけで体罰(と言われる)とかですね…。『これぐらいはいいでしょう』っていうガイドラインを示してあげるとですね…。もう(生徒を)怒れなくなってますよ、先生が」と、教員が問題生徒に対して行える対策が限られていることを問題視。「体罰はダメ」と断りながらも、ガイドラインの一例として、「僕は、もみあげをつまんで引き上げるくらいまではいいと思うんですけどね、そんなのしょっちゅうありましたし、それぐらいなかったらねー、ダメです。大阪市でそれを体罰とか何とか言われたら、政治で僕が引き受けますから」と述べた。さらに、「腹をどつかれた時の痛さ、そういうものが分かれば、相手側の方に対しても歯止めになると思う」と、いじめ対策の側面も強調した。(引用ここまで)
橋下市長、遺族に謝罪 高2自殺、体罰「認識甘すぎた」2013年1月13日2時5分
http://www.asahi.com/national/update/0112/OSK201301120111.html
橋下徹大阪市長は12日午後、生徒の遺族宅を訪れ謝罪した。橋下市長は「口で言って聞かなければ手を出すときもある」などと発言してきたが、両親と兄との2時間以上の面会後、「自分の認識は甘すぎた」と述べた。 橋下市長は「学校、市教委、市に百%責任がある」と謝罪し、遺族の了解を得て生徒の遺書を読んだという。面会後、市長は「最後の言葉をつづる姿を想像するだけでたえられない」と涙ぐんだ。 学生時代はラグビー部員だった橋下市長は「スポーツの指導で頭をたたかれたり、尻を蹴られることは普通にあると思っていた」。だが自殺に至る経緯を両親から聞き、認識が甘かったと気づいたという。「顧問と生徒は絶対的な上下関係。そういう状況の中で厳しい指導を認めると、こういうことになってしまう。むしろ厳格に暴力は排除しなければいけない」生徒の自殺後、学校が行ったアンケートに「この顧問の指導を受けたい」という言葉が並んでいたことに、「これは異常な世界。勝つためには厳しい指導が必要という意識を変えないと」と話した。また朝日新聞が12日朝刊に掲載した元プロ野球選手の桑田真澄さんのインタビュー記事を踏まえ、「あそこまで極めた方が、暴力はスポーツの能力を伸ばさないと言っている。反論できる人はいない」とも話した。(引用ここまで)
どうだったでしょうか?「体罰」と「懲戒」を意図的に混同させ、「体罰」の概念を曖昧にして「体罰」=「暴力」によって「秩序維持」を目論む橋下市長の思想は、憲法違反の公務員統制と同じ発想であることが判ります。彼のような思想が社会全体に蔓延していった場合、どうなるでしょうか?想像力を働かせてみる必要があります。
ところが、13日付け「朝日」39面に掲載された橋下氏の「反省」を読むと、このような簡単なことが理解できなかった人間が政治家として、世間を煽ってきたこと、そのことを反省もせず、簡単に見解をコロッと変えてしまうこと、反省すすのであれば、自らの政治手法をも転換しなければならないはずなのに、そうした視点には立っていないこと、などをみると、この人間の薄っぺらさが判るというものです。
「朝日」は、2008年10月26日の記事の際には写真入りで紹介していたにもかかわず、今回の発言に対して、今度は写真は掲載せず、社会面の小さな記事で紹介しているのです。呆れます!
それにしても、こうした思想の持ち主が、この「体罰」による自殺事件をどう考えているか、そこにも注目しておかなければなりません。「違う!反省した!」とするなら、この間、大阪府と大阪市で行ってきた政治に対して、全面的に謝罪し、責任を取るべきでしょう。
一つは、当事者たちの発言を見る限り、橋下氏自らが煽って推進してきた教育によって、「体罰」が温存され、横行し、生徒が自殺したことは、想像に難くありません。にもかかわらず、彼は反省することもなく、まるで他人事のように教育委員会と学校と教師を非難・攻撃し、マスコミを使って、国民の不満を煽り、橋下市長の推進する行政への支持を得ようとしていることです。
二つ目は、こうした教育委員会と学校と教師の失態を契機に学校と教育の統制を強めようとしていることです。
こうした思惑に対して、事実をもって、先に述べた憲法の諸原則を使って批判すること、このことこそが、憲法の原則である人権と民主主義に忠実でなければならないマスコミのやるべきことではないでしょうか?「朝日」の記事を見るまでもなく、事実は全く逆の方向で進められているのです。
さて、最後に、以上掲載してきた体罰容認論の奥深いところに、実は「体罰=教育」論、「体罰=秩序維持」論、「体罰=服従」論、「体罰=勝利第一主義」論が沈殿していることが判ります。
実は、これらは、形を変えた「軍事(=暴力)抑止力」論ということができます。この思想の信奉者たちが、何を語っているか、一目瞭然です。さらに言えば、「体罰は良くないが、ある程度なら仕方ない」などという「体罰必要悪」論の立場に立つ国民が、中国・北朝鮮の「脅威」から「日本をまもるために」という日米軍事同盟容認・深化派の吹聴する「大義名分」のために日米軍事同盟を容認してしまう論理と感覚と一致しないでしょうか?
こうした思想と論理こそ、実は、戦前から繰り返されてきたものです。明治政府でさえも、学校における体罰禁止をしました。しかし「天皇のためには」「ロシアの脅威のためには」「満蒙のためには」「鬼畜米英のためには」「ABCD包囲網のためには」「大東亜共栄圏のためには」、「命令に服従する、強い兵士づくり」が必要であり、そのためには「軍備」=「暴力」こそが、有効な手段でした。朝鮮半島や中国大陸、東南何味アジア諸国の占領統治、植民地統治の手法をみれば、歴然としています。
こうした「暴力」と「天皇は神聖にして不可侵」という精神主義とによって、悲惨な惨禍が引き起こされたのですが、それを反省・責任を取ることもせず、しかし、タテマエとしては学校教育法によって「体罰」=暴力を否定しながらも、実態としては、憲法を形骸化し、改悪したい勢力によって、戦後も「体罰=暴力」は温存・再生産されてきたのです。
こうした思想と論理と歴史をみれば、普天間基地撤去やオスプレイの配備反対などの課題が、国民的合意に至らないことが判ります。「体罰が悪いことは判るが、しかし…」「米軍基地が危険であることは判るが…しかし…」という論理と感情です。根深いものです。
こうした思想と論理が、人権と民主主義を否定する思想であることは明瞭です。ではどうするか、です。
人権擁護と民主主義を使った運動を、あらゆる場面で実践することです。特にスポーツと民主主義を意味づけることです。これほど判りやすい事例はないでしょう。
「紛争を解決する手段として」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」は「永久にこれを放棄する」(第9条)は、人間間の「紛争」「諍い」を「解決する手段」として「暴力」と「威嚇」は「永久に放棄する」ということは、どういうことか、です。
そうです。「紛争」「諍い」は「非暴力的手段」=「話し合い」で解決するということです。これは、人間を「対等」=「平等」にみる見方考え方を前提にしてはじめて成り立つ「手段」です。
このことは、「いづれの国家(=個人)も、自国(=自分)のことのみに専念して他国(=他人)を無視してはならないのであつて、政治(=人間生活)道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国(=自分)の主権を維持し、他国(=他人)と対等関係に立たうとする各国(=各人)の責務である」(憲法前文)という思想の具体化です。ここに「体罰=暴力」の入る余地はありません。
以上のように憲法の各条文の中に「体罰=暴力」を当てはめてみれば、これが如何に憲法の原則に反しているか明瞭です。
こうした視点を国家も行政も、学校も、地域も、家庭も貫くこと、そうして多面的に実践していくことではないでしょうか?