愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

部活動停止・入試中止発言の橋下市長への批判がようやく出てきた!だが、手ぬるい!これでは再発必至!

2013-01-20 | 日記

ようやく橋下市長の発言に対して、以下のような社説が掲載されるようになりました。このことそのものは、大変結構なことで、「あっぱれ!」を進呈したいと思います。

 

1.しかし、体罰容認、勝利至上主義・競争と服従を煽ってきた橋下市長の言動の歴史にメスを入れた社説になっていないのは、どうしてでしょうか?

 2.同時に、以下の社説の引用した部分の奥深いところに、マスコミ(を含めて行政や学校、国民)がメスを入れていないのではどうしてでしょうか?

 3.北海道の体罰調査の記事が掲載されましたが、日本全国で、同様の体罰事例があることは周知の事実だと思っていますが、今後全国的調査で、事実が明らかになった時には、どうするのでしょうか?

体罰:部活で中・高教員、懲戒32件 07年度以降、道教委まとめ 防止徹底求め通知 /北海道 毎日新聞 2013年01月17日 地方版

http://mainichi.jp/area/hokkaido/news/20130117ddlk01040260000c.html

 4.特にこれまで、「いじめ」の事件が起こるたびに、「再発防止」や「根絶」、「宣言」などを繰り返してきた文部科学省の「通知」「指導」でしたが、今回も同様の「指導」が行われるようです。これでは、「いじめ」がなくなっていないように、「体罰」もなくならないでしょう。

何故でしょうか?それは、ガンを切除しないことと同じでしょう。

こうした「対応」は、日米軍事同盟を根拠に米軍基地を各地に、特に沖縄に配備させているなかで、繰り返し起こされる米軍兵士の犯罪事件がなくならないことと同じです。この事件に対しても日米地位協定の「改定」を口にしているだけで、「対応」しようとしている日本。

このことと似ていませんか? 

今日は時間がありませんので、これにて、失礼いたします。

 社説:桜宮高校の体罰 入試中止要請は筋違い毎日新聞 2013年01月20日 02時30分http://mainichi.jp/opinion/news/20130120k0000m070101000c.html

今最も重要なのは、長年にわたって体罰が行われてきた実態を解明し、責任の所在を明らかにすることだ。大阪市は弁護士による外部監察チームをつくり、市教委も連携して3月末までに再発防止策を定める。…真相が明らかにされないうちに、市長が学校そのものが悪いという姿勢を示せば、その意向に沿った調査になりかねない。強い反省に立って真摯に原因究明しなければ意味はない。…今回の問題の背景に学校と市教委の閉鎖的体質があるのは事実だ。…校長らは指導に口出しせず、市教委も匿名通報がありながら部員から聞き取らず体罰はないとの結論を出していた。体質を改めない限り、信頼は取り戻せない。 文部科学省も全都道府県教委に体罰の実態調査を求め、再発防止策を考える。根絶には行政、学校、保護者ら社会全体で取り組む必要がある。桜宮高校だけの問題ではない。(引用ここまで)

 日本海新聞社説 桜宮高校体罰問題 一人一人尊重の指導を  2013/01/20の紙面より

http://www.nnn.co.jp/rondan/syasetu/index.html

体罰が容認されるべきでないことは論をまたない。外部から指摘を受けながら、顧問への聞き取りだけで、体罰はなかったと判断し、適切な対策を行わなかった同校の対応も問題だ。…部活動での体罰は、個人競技よりも団体競技で発生しやすいという。成績が上がらなくても、個人競技は選手個人の問題で済むが、団体競技はそうはいかない。個人よりもチームが優先され、「チームのため」という大義名分の下、体罰を正当化しやすい環境が生まれるからだ。 組織を優先するあまり、個人にまで思いが至らない。問題となった桜宮高校バスケットボール部の顧問に限らず、橋下市長やわれわれ自身も陥りやすい誤りだろう。 社会が人の集まりである以上、組織の利益のために、個人がある程度の不都合を我慢するのはやむを得ない。が、同時に組織の中の一人一人の存在も尊重されるべきだ。 鳥取県内の学校でも、体罰の実態調査が始まる。学校やチームの都合だけでなく、生徒一人一人を尊重した指導であったのか、その点も十分に検証する必要がある。(引用ここまで)

 高知新聞 【大阪市立高体罰】入試中止は問題はき違え 2013年01月19日08時13分 http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=297890&nwIW=1&nwVt=knd

入試中止や全教員異動が、体罰問題の解明解決とどう関係するのだろう。橋下市長は問題をはき違えている。…なぜ多くの教員が体罰を見逃してきたのか――2年前に市の通報窓口に体罰情報が寄せられたものの、市教委や高校は生徒への聞き取りもせずに「体罰はない」と結論付けている。 そうした高校側の体質が生徒の自殺に結び付いた可能性があり、厳しい検証が求められる。  検証と並行して「体罰は許さない」という全教員の意識改革が必要で、入試を中止したからといって、体罰問題が断ち切れるものではないだろう。(引用ここまで)

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日米軍事同盟容認論で憲法の平和主義が守れないことに気づかないのは何故か!武力暴力=抑止論の混迷に喝!

2013-01-19 | 日記

大阪市立桜宮高校における体罰による生徒の自殺事件をめぐるマスコミ報道ミが、事の本質を無視する報道を繰り返していることで、あらためて日本の社会と学校教育の問題点、矛盾が浮き彫りになりました。

それは人権尊重主義とま逆の「体罰」と「命令」による「服従」の強制が、子どもの命と未来を奪うということです。

 人権尊重思想を育まない社会や教育が人権を尊重する人間を育まないことは、アジア太平洋戦争の侵略の事実、戦争協力・加担の事実、厭戦・非協力・抵抗に対してどのよう弾圧やいじめをしてきたか、などなど、様々な事例を見れば明瞭です。その根本に大日本帝国憲法と教育勅語、軍人勅諭がありました。

 だからこそ、天皇制を象徴天皇制として残しながらも、大日本帝国憲法の思想と制度を日本国憲法で否定したのでした。その日本国憲法で、アジア太平洋「戦争の惨禍」は「政府の行為によって」引き起こされたと明記したのです。そして「再び…起ることのないやうにすることを決意し…主権が国民に存することを宣言」して、戦後が始まったのでした。

しかし、その「主権」思想を戦後自民党政権は、一貫してないがしろにしてきました。その結果が、今回の事件の背景になっているのは、見てきたとおりです。そして、今また、安倍自公政権と石原・橋下「日本維新の会」などによって戦前が復活させられようとしているのです。

 だが、この路線は平和と命と暮らしの安全・安心を求める国民との間で矛盾を激しくさせていくでしょう。しかし、だからこそ、安倍自公政権の路線に対してハッキリものを言わない、言えないマスコミに対して、国民世論に対して、メッセージを送っていかなければならないと思うのです。

 そこで、以下の3つの社説と記事を読み、検討してみました。

 琉球新報 憲法解釈見直し 戦争への道を進むな 2013年1月15日

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-201385-storytopic-11.html

安倍晋三首相が2月にも見込まれるオバマ米大統領との会談で、集団的自衛権行使を容認する憲法解釈見直しの加速を伝えるという。これは戦争放棄をうたう日本国憲法を骨抜きにする―と宣言するに等しく、到底容認できない。 冷静な国民論議は必要だろうが、平和主義は現行憲法の核心である。これに反する憲法解釈の重大な変更には疑問を禁じ得ない。…安倍氏にすれば、…早く自主憲法制定への道を切り開きたいのだろう。しかし、「平和憲法」を否定し、この国をどこへ導こうというのか。 安倍政権は日米防衛協力の指針(ガイドライン)再改定や長期的な防衛力整備の指針「防衛計画の大綱」の見直しを打ち出す。狙いは中国の軍事的台頭に打ち勝つための「日米同盟の深化」だろう。 集団的自衛権行使が可能なように憲法解釈を見直すということは、端的に言えば、この国を米国と一緒に戦争ができる国につくり変えるということだ。…中国を敵視する軍事同盟の深化が、アジアの持続的な平和と市民の幸福につながるのか。安倍首相は中国の軍備増強に強く自制を促し、揺るぎない戦略的互恵関係の構築にこそ指導力を発揮すべきだ。…同盟深化とも自衛隊増強とも違う方向性を、欧州にも習いなぜ検討しないのか。…この国の主権国家として誇りを取り戻し、国際孤立を招かない清新な国家…古びた憲法観、安保観から脱皮する時だ。(引用ここまで)

 琉球新報 12衆院選 憲法/戦争の教訓踏まえているか2012年12月8日

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-200050-storytopic-147.html

…竹島、尖閣諸島の領有権問題などをめぐり、主要各党で集団的自衛権の発動を可能とするための改憲論議が活発化。国内にいつになく不穏な空気が漂い始めている。…日本政府は米国の言いなりにならず、毅然として検討の見直しを求めるべきである。…勢いを増す改憲の流れに対し、護憲を掲げる政党の声はかき消されがちだ。「平和憲法」を守り「平和国家」として国際社会の信を得てきた日本は、「戦争可能な国」へと転換していくのか。有権者は重大な選択を迫られている。…71年前のきょう、日本軍のハワイ真珠湾攻撃で日米が開戦し、その後沖縄は地獄絵図のような地上戦が繰り広げられた。戦争がもたらした犠牲は、今も多くの国民の記憶に刻まれ、語り継がれてきたはずだ。作家の城山三郎氏は「戦争で得られたものは憲法だけ」と述べたという。不戦を誓った「平和憲法」をどうするのか、国民全体で考える時ではないか。(引用ここまで)

 中国新聞 米空軍オスプレイ 沖縄の負担増許されぬ'13/1/15

http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh201301150090.html

日本政府は米国の言いなりにならず、毅然として検討の見直しを求めるべき…日本政府の…ルール違反を見過ごす姿勢では「配備ありき」の日米合意だったのではと疑われても仕方あるまい。…まずは沖縄県民に負担軽減の具体策を示すのが先だ。普天間の県内移設強行や、なし崩し的なオスプレイ増強容認では、県民の信頼は程遠い。 過剰なまでの対米追随は日本外交の思考停止を招きかねない。「言うことは言う」対等な関係性こそ同盟関係の基軸であることを忘れてはならない。(引用ここまで)

 琉球新報 社会 女性暴行8割逮捕せず 米兵凶悪犯罪2013年1月15日

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-201382-storytopic-1.html

…日米地位協定で、米軍関係者による「強姦(ごうかん)」が起訴前の身柄引き渡しの対象とされているにもかかわらず、1996年以降に摘発された米兵35人中、8割強に当たる30人が逮捕されず、不拘束で事件処理されていたことが本紙が入手した警察庁の資料で分かった。殺人事件は…95年の運用改善が徹底されていない実態が明らかになった。凶悪事件の一部を公表せず、不拘束で事件処理してきた可能性もある。…警察庁の資料によると、96年以降に摘発した凶悪犯罪(殺人、強盗、放火、強姦)の米兵被疑者は計118人。そのうち、約半数に当たる58人が不拘束で事件処理されたことが記録されており、身柄は起訴された後に日本側に引き渡されたとみられる。(引用ここまで)

以上の社説と記事について、考えたことは、以下のとおりです。

 1.琉球新報は、日米軍事同盟の「深化」論としての集団的自衛権行使は、憲法の平和主義に反する、憲法を否定するものだと言いながら、憲法とま逆の日米軍事同盟廃棄を主張しないのは何故か?

 2.琉球新報は、「『平和憲法』を守り『平和国家』として国際社会の信を得てきた日本」は、不戦を誓った『平和憲法』をどうするのか、国民全体で考える時ではないか」と述べながら、何故、憲法の平和主義を具体化するための方策として日米軍事同盟廃棄を主張しないのか。

 3.中国新聞は、オスプレイ配備は「過剰なまでの対米追随」「日本外交の思考停止」とまで言いながら、さらには、「対米追随」の根本要因である日米軍事同盟の廃棄を主張しないのか。日米軍事同盟=日米安保条約は、「対等な関係性こそ同盟関係の基軸」という場合の「関係」の条約だと、本当に考えているのでしょうか?日米安保条約は、条約の中身をみて、本当に対等な「同盟」=「軍事同盟」と言えるでしょうか?「対等」であれば、存続、深化?「不平等」であれば、廃棄?なのか?

 4.各紙とも、日本国民と沖縄県民の安全を保障するために、さらに言えば日本を守るために、日米軍事同盟を結んでいるのに、その米軍兵士のために沖縄県民の人権が保障されていない事実が、「警察庁の資料で分かった」などと言っているのです。主権国家として可笑しいですよね。でも、にもかかわらず、沖縄県民の命と生活、安全を保障していない日米軍事同盟の廃棄を主張しないのは何故か。

 5.各紙とも、ここまで書いておきながら、日米軍事同盟を廃棄して、憲法の平和主義に基づく日米平和友好条約を結ぶことを何故主張しないのか、不思議です!中国とは日中平和友好条約を調印しているのです。

 6.愛国者の邪論は繰り返し述べてきました。沖縄を極東の軍事拠点として位置づけるアメリカと決別し、沖縄の歴史、琉球王国の歴史を踏まえて、沖縄を東アジアの平和のハブ島として発信していくことを。武力=暴力の島から、非暴力の島、命どぅ宝の島、平和の島へ、何故発信しないのか!です。

7.軍事力=暴力=体罰が人間の命や財産、安全を守る「抑止力」になりえないことは、今回の大阪の事件、沖縄の近代の歴史、そして銃器に苦悩するアメリカ自身の諸事実が示しています、これについては、これまで別項で記事にしました。そこで、この問題の奥深いところに潜む最大の問題は、「死の商人」「原発ムラの住民」の暗躍に勇気をもって対峙すること、このことを抜きに、安全の保障は形成できないのではないでしょうか?

 そのためには、軍事に頼らなくても、原発に依存しなくても、日本経済と国民の暮らしは発展と繁栄が可能であることを検証していくことです。

 もう一つは、軍事=暴力=体罰が「抑止力」であり、成果を創り出す効果的手段であるという「神話」を、一つ一つ論破していくことです。そうして、この「神話」を信じている多くの人間に訴えていくことです。別の方法・道がありますよ、と。こっちの方が、気が楽ですよ。自分も死ななくて良いし、人を傷つけることもしなくて良いのですよ、と。

 そのための方法と内容は、歴史のなかで、現実社会のなかで、豊富な営みによって、ますます大きくなってきています。これらについては、今後事あるごとに検証していきたいと思います。

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「人間としてダメ」なのは橋下氏、競争礼賛、体罰容認、服従強制推進路線こそ、今回の事件の背景だ!

2013-01-18 | 日記

橋下市長のデタラメさがますます浮き彫りになってきました。「いったん流れを断ち切るべきだ」(15日)というのであれば、この間の言動に自ら責任を取って辞職し、彼も言うように選挙の洗礼を受けるべきです。以下まとめてみました。

 1.橋下氏の「信念」ですすめてきた「政治」改革の目玉の一つであった「教育改革」の結果として、今回の痛ましい事件が起こったこと。そのことを自覚せず、生徒に向かっての「暴言」は、酷いものです。以下、彼の発言を読み替えてみました。

仲間(生徒)が死んだのだから、今何をすべきか考えてもらいたい。この状況で部活(市長職)をやったら上手くなるかもしれないが、人間としてはダメだ。それを言うのが教育(政治)だ」ということになりませんか?

 2.入学試験中止発言を見ていると、体育科と普通科の受験システムの違いなど、全く現場のこと、生徒のことを判っていないことが判ります。思いつき発言を修正するなど、その「右往左往」ぶりが何よりの証拠です。

 3.橋下氏の短絡的リセット論は、まるで駄々っ子が自分の要求を通すために、大人の弱点を突いて、わがままを貫くようでもあります。

 こうした観点は、実は受験型指導の「成果」と言えないでしょうか?「答えが合っているか、間違っているか」「○か、×か」という、途中経過、答えを導くまでの思考のもみあい、プロセスなどを問題にせず、答え(結論・結果)のみを追求してきた結果と言えないでしょうか?

 橋下氏の言動には、このパターンがたくさん見られます。「選挙に勝った、負けたか」「選挙で勝ったのだから」「いやなら選挙で」「間違いなら選挙で」「嫌なら辞めろ」「嫌なら日本から出て行け」「言うことを聞かない校長、学校はリセット」、そう言って問答無用で一方を権力でもって切り捨てるのです。

 4.橋下氏は一つの事例に仮定的な事例を持ち出して一般化し、お得意の自分の都合の良い論法、短絡的リセット論で相手を全面否定するのです。一見合理的のように聞こえますが、また少しの事実を、一面を言い当てているので、反論に窮してしまう、そこが彼のねらい目です。

 しかし、彼の都合の良い事例に対して、二者択一で判断していきますので、多様な側面を持つ事柄に対応できません。だから彼は都合の悪い事例を出されると右往左往するか、窮鼠ネコを食むの譬えのとおり、相手に噛み付くのです。権力を使って、です。

 言うことを聞かない生徒や校長、教育委員会に対して、どのような恫喝をしているか、その手法は、驚くほどワンパターンです。

 しかも、今回の事件に対する彼のこの間の言動が、過去の自分の言動と違っていることなど、彼には全く想定もしていませんし、気づいてもいません。全く関係がないのです。彼の思考の回路の想定には、当然の選択の結果として、今回の言動があるのです。

 このことは原発再稼動の前後の言動を見れば明瞭です。

 彼は、「学校全体がクラブで勝つことを第一にして、多くの保護者も容認してきた」と述べていますが、そうした学校づくりを煽り、奨励し、推進し、反抗する教師に対しては、権力的に、憲法違反の条例をつくり、脅し、服従を強制してきたのではないでしょうか?

 今回、バスケット部の顧問が主将を体罰と言葉の暴力で脅し、主将交代、二軍への降格を示唆し、その二者択一を迫っていたことと、橋下氏の言動と論法は、一致しています。ここに、両者の相互関連性があると思うのは、言い過ぎでしょうか?

 こうした思想・論法の奥深いところに、愛国者の邪論は、体罰禁止のルールがあるにもかかかわず、容認し、推進してきた明治以来の「天皇のためには死ぬ」ことを最高の美徳、臣民の義務として強要する大日本帝国憲法体制と、それを土台から支える教育勅語と軍人勅諭、歩兵操典思想があると思うのです。

 この視点を欠落させていれば、第二、第三の犠牲者が出てくることは、この間の経過が示しています。何故ならば、この思想には人権と民主主義の思想が欠落しているからです。この二つのベクトルのエネルギーの中間、合力を前提にしていれば、立場の弱い子どもに、その犠牲者が出てくることは間違いありません。

 さて、以下の資料にアクセスしていただければ、橋下氏の言動が、今日の事態を招くために、一歩一歩積み重ねてきたことが判ると思います。彼の言動と今回の事件の関連を検証してみました。

 

競争と統制の果てに:橋下教育改革の未来像:教育現場統制強化の陰で(1)

http://www.youtube.com/watch?v=xum5p9FhLRk

 競争と統制の果てに:橋下教育改革の未来像:教育現場統制強化の陰で(2)

http://www.youtube.com/watch?v=81goQ37DDPA

 橋下 教育改革

http://www.youtube.com/watch?v=l5May61KfR0

 橋下「改革」で教育どうなった2012年5月11日(金)

http://www.jcp.or.jp/akahata/aik12/2012-05-11/2012051106_01_0.html

 

以下橋下氏の言動を報じる新聞を掲載しておきます。こうした言動に対して、ビシッと批判しないマスコミが、「間違いなら選挙で落とせ」などと傲慢な発言を許しているのだと思います。彼の批判をタブー視せず、批判していくことは、日本の民主主義の成熟度を示すことになるのではないでしょうか?

 彼の推進してきた、或いは、戦後自民党政権が推進してきた教育が、生徒を自殺に追い込んだこと、或いはいじめによる自殺事件が後を絶たないこと、など、その教育のあり方の破綻が、明らかになった今日、二度と尊い命を犠牲にすることだけは、これで終わりにしたいと思います。

  

大阪・高2自殺:桜宮高体育科入試の中止を要請…橋下市長 毎日新聞 2013年01月15日 21時46分(最終更新 01月16日 00時04分)

http://mainichi.jp/select/news/20130116k0000m040091000c.html

仲間が死んだのだから、今何をすべきか考えてもらいたい。この状況で部活をやったら上手くなるかもしれないが、人間としてはダメだ。それを言うのが教育だ(引用ここまで)

 校長、教員総入れ替え「茶を濁すような人事はダメ」…橋下市長が市教委に要請 2013.1.16 21:24 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130116/waf13011621260036-n1.htm

桜宮高校普通科の入試を継続するにしても、校長や教員の総入れ替えは最低条件だと思います。そこまでの人事をやって、やっと普通科入試はギリギリOK」「適切な人事権の行使をやってください。茶を濁すような人事はダメ」(引用ここまで)

 入試中止案「僕は受験生のことを考えている」と強気の橋下市長に批判殺到 広がる波紋2013.1.17 08:09

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130117/waf13011708150003-n1.htm

生徒が死んだ。越えてはいけない一線を越えたから、高校の伝統を断ち切る」と改めて中止の必要性を強調。「僕は受験生のことを考えて判断した」と話すが、在校生も「やり過ぎだ」と訴えた。桜宮高校体育科とスポーツ健康科学科(定員計120人)の入試を中止することに伴う混乱を抑えるため、橋下市長が示しているのが、普通科の定員を120人増やす対応策だ。(引用ここまで)

 「橋下市長は分かっていない」募集停止に在校生から悲鳴 2013.1.17 08:28 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130117/waf13011710180008-n1.htm

桜宮高を目指して頑張ってきた受験生、保護者の気持ちはよく分かるが」としながらも、「これまでの生徒、保護者の意識の積み重ねで桜宮高の体育系クラブの伝統が築かれてきた」と主張。 「入試をやめて校風、体質をいったんゼロにしないと新しい生徒を迎えるわけにはいかない」と強調しており、あくまでも考えを変えない構えだ。(引用ここまで)

 橋下市長発言に市教委動揺「人件費止められたらまずい」 2013.1.17 22:24

http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130117/wlf13011722270035-n1.htm

 「入試中止しなければ予算執行せず」橋下市長が対抗措置表明 2013.1.17 21:12 http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130117/wlf13011721140034-n1.htm

 予算を人質に圧力 「間違いなら選挙で落とせ」 橋下市長 2013.1.18 07:48 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130118/waf13011807490001-n1.htm

学校校長会が同日、すでに進路懇談会を済ませているとして、「生徒、保護者に不安と動揺を与える」と入試実施を求める要望書を出したことについても、橋下市長は「教育者失格だ。どんどん(後任を)公募して代える」と怒りを爆発させた。…橋下市長はこれまで、バスケットボール部の男性顧問(47)の常態化した体罰を黙認した背景に同校の「勝利至上主義」「伝統」があるとの持論を展開。「生徒や保護者の意識の積み重ねでできた伝統を断ち切るために入試を中止すべきだ」「これは哲学、価値観の部分だから仕方ない。受験生は生きていたらチャンスはある」「体罰問題を学校全体が容認し、仲間の生徒が自殺した。それなのになぜ、今クラブ(再開)なのか。そんな生徒がいるとしたら、桜宮高校の教育が完全に間違っていたと思う」(引用ここまで)

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体罰を容認し、煽ってきた橋下市長は責任を取って辞職しろ!田中文科相バッシングと違う橋下擁護に喝!

2013-01-17 | 日記

橋下市長の部活停止・入試中止発言には呆れました。体罰を容認し、煽り、「成果」を求め、憲法違反の条例制定など、職務命令によって職員を「服従」させようとしてきた張本人が、今度は生徒に「責任」を取らせようとしているのです。自分の「責任」は「棚上げ」して!

ま、これが、彼の体質です!これで国民の皆さんも目覚めることでしょう!!

 その前に、言っておかなければならないことがあります。それは、己の言動について、検証して、「責任」を取ったらどうでしょうか?ということです。彼は「行政」の「責任」を口にしたのですから、そのとおりに、大人としての「責任」の取り方を生徒に示して欲しいと思います。生徒には、「人間として」という珍論「言葉」を吐いたのですから、まず有言実行です。

 それから、今回の入試中止について、昨年の田中文科相の大学設置騒動を想い出しました。あの時も、準備が進み、後は認可を待つだけという段階になっての「田中発言」でした。

 マスコミは、「ここぞ!」とばかりにバッシング。「一般論としては判る」と言いながら、認可を待って、受験を間近に控えていた高校生たちのことを、全面に、大学側を、最大限登場させて、田中バッシングが荒れ狂っていました。

 ところが、今回はどうでしょうか?若干事実がことなりますので、簡単に比べることはできないと思いますが、それにしても、入学試験を控えた中学生に対して、橋下市長の言動は、許されるものではありません。

何か、政治的に利用しているような感じがプンプンしているのですね。

確かに、 「特色ある学校づくり」の問題点、「体罰」を容認してきた「勝利第一主義」などなど、問題は山のようですが、又、そうした高校を目指して、「体罰」を容認してきた生徒たちもいることは事実でしょう。がしかし、だからと言って、橋下市長の発言が許されないことは明らかです。

 だから、マスコミは、挙ってバッシングしなければなりません。あの田中大臣の時のように・・・・。

 

その点で、以下の記事は大変参考になりましたので、掲載しておきます。

 【文科相のちゃぶ台返し】秋田公立美術大への進学や編入を目指していた生徒・学生のことを思えば、これほど乱暴な大臣はいない【秋田魁新報】<北斗星>2012/11/04 10:45
■ちゃぶ台返し
 ちゃぶ台返しといえば漫画「巨人の星」の星一徹である。物事が思い通りにならないと目の前のちゃぶ台をひっくり返す、頑固おやじの決め技だ

▼おやじではないが、おやじくさい田中真紀子文部科学相が、やってくれた。大学設置・学校法人審議会が開学を「可」とした秋田公立美術大学ほか2大学を、自分の判断で「不可」としたのである。これをちゃぶ台返しと言わずして何と言う

▼転がり落ちた各大学は、来春開学に向けて準備を進めていた。厳格な事前審査を前提に、申請—受理—認可というのは、ほぼ既定路線。秋田公立美術大への進学や編入を目指していた生徒・学生のことを思えば、これほど乱暴な大臣はいない………

▼大臣は先月、都知事を辞職して国政復帰を表明した石原慎太郎氏のことを「格好悪い暴走老人」と批判したが、ご自身の暴走ぶりには気付いていない。頭を冷やして、ちゃぶ台に並んだ料理をよくご覧いただきたい。(2012年11月3日)http://www.47news.jp/47topics/e/235875.php

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軍事力、体罰、暴力は生命、財産、安全の抑止力、成果の手段にならない!人権尊重主義こそ「抑止力」!

2013-01-16 | 日記

 学校内の秩序維持のために、また指導の「成果」をあげるためには「体罰」「暴力」による「脅し」で生徒を「服従」させること、教師には「命令」と「処分」「賃金」で「脅す」ことが有効だという「神話」が日本社会に沈殿して、はびこっていましたし、今もまかりとおっていることは、この間述べてきました。

 しかし、こうした思想と論理によって、悲惨な事件が起こってしまったこと、「体罰」「暴力」による「脅し」指導がどのような結果をもたらしたか、破綻したか、声を大にして発信していかなければ、第二、第三の悲惨な事件が起こることは、この間の経過を見れば明らかです。

 ところで、「体罰」「暴力」による「抑止力」論の破綻の事例として、もう一つの側面から見ていくことにします。それは沖縄の米軍基地が、北朝鮮や中国の「脅威」に対する「抑止力」として、実は機能していないことが、最近言われてきています。以下の沖縄の記事が示しています。

 森本防衛相「軍事的に沖縄でなくていい」 2012年12月26日 10時06分

http://article.okinawatimes.co.jp/article/2012-12-26_43212

森本防衛相発言 「抑止力」の虚構 明白に 2012年12月26日

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-200766-storytopic-230.html

森本前防衛相発言 軍事的不合理を証明した 2013年1月7日

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-201059-storytopic-252.html

沖縄タイムス社説[崩れる「抑止力論」]基地削減へ本質議論を 2012年12月28日 10時33分http://article.okinawatimes.co.jp/article/2012-12-28_43289?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter

 琉球新報社説 沖縄密約公開/戦略なき外交を露呈 「抑止力」の呪縛と決別を 2011年2月20日

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-173701-storytopic-11.html

 「武力」「暴力」の「脅威」に対して「武力」「暴力」が「抑止力」にならないという事実は、アメリカ国内でも、実はよく示されています。この「抑止力」論について、アメリカ国民は、疑問を持ちながらも、確信が持てずに「仕方ない」と諦めているのではないでしょうか?

 以下の記事が示しています。

恐るべきアメリカ銃社会の10事実とNRAの矛盾

http://uskeizai.com/article/309910245.html

 全米ライフル協会が会見 「全学校に武装警官を」 2012/12/22 6:42

http://www.nikkei.com/article/DGXNASGN22001_S2A221C1000000/

 【私説・論説室から】アメリカという戦場 2012年12月31日

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2012123102000104.html

米中枢同時テロの日に生まれた少女が犠牲になったことでも話題となったこの事件以降、今月のコネティカット州での小学校乱射事件まで、一体何件の悲劇が続いたことか。 「唯一の効果的対策は、全ての学校の適切な武装だ。時間の浪費で、効果も不明な議会の銃規制論議などを待っていては、大切な子供の命は守れない」 真顔でこう語った全米ライフル協会副会長の論法は、対テロ戦争で展開されたブッシュ前政権下の勧善懲悪、力の信仰一辺倒の論理に重なる。平時の論理と倫理が倒錯する戦時の論理そのものではないか。(引用ここまで)

 【私説・論説室から】オバマ大統領の壮大な実験2013114

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/ronsetu/CK2013011402000103.html

米国のオバマ大統領が、銃規制の法案成立に「全力を傾ける」と語った。…生命と財産を守る道具として扱われてきた銃器を、どう封じるのか。議会に銃規制反対を執拗に迫る全米ライフル協会を向こうに回したオバマ氏の挑戦は、米国の日常を覆す壮大な実験でもある。(引用ここまで)

 米大統領、16日に銃規制策 犯歴調査強化など指示 2013/01/16 09:51【共同通信】

http://www.47news.jp/CN/201301/CN2013011601000760.html

NY州で銃規制強化法成立 「全米で最も厳しい内容」 2013/01/16 10:01【共同通信】

http://www.47news.jp/news/2013/01/post_20130116100359.html

米兵、自殺が戦死者上回る 昨年過去最悪に 2013/01/16 10:52【共同通信】

http://www.47news.jp/CN/201301/CN2013011601000909.html

  ここに登場する全米ライフル協会副会長の論法、あまりの短絡的思考! 絶対銃の禁止や廃棄にはしないという思想は、部活動停止と入試中止発言をした橋下市長に似ていないでしょうか? 子どもじみている、というだけでは済まされない思想と論理があります。

橋下市長については、「反省」を口にしつつも、自らの「責任」は不問にし、生徒に「責任」を取らせようとするなど、もってのほか!「直ちに辞職せよ!の声を上げていきましょう!

以下の記事をご覧ください。

 「体育系の入試中止を」橋下市長 市教委は難色 2013.1.15 21:23

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130115/waf13011521280027-n1.htm

 「今部活でうまくなっても人間としてダメ」 橋下氏が持論展開、生徒には動揺 2013.1.16 07:05

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130116/waf13011607060000-n1.htm

 以上のアメリカの「苦悩」を示す記事から、想像できることは、「紛争」を解決する手段として「武力」「暴力」や「脅し」は永久に放棄するとした日本国憲法の平和主義は、アメリカ国民の「苦悩」への回答と言えるのではないかということです。

 それにしても、全米ライフル協会を日本に当てはめると、何になるか、探してみました。ありました!以下をご覧ください。

 自衛隊協力会 日本各地にある自衛隊を支援するための民間団体の1つ。自衛隊との相互理解と親睦を図り、自衛隊の健全なる発展のため支援することを目的として設立されている。

http://www.ajda.jp/

http://www.ajda.jp/kaityouaisatu.html

 どうでしょうか?アメリカで言えば、全米ライフル協会のような、日本で言えば、自衛隊協力会・全国防衛協会連合会のような「団体」が吹聴する思想と論理が、政府と政党を操り、両国の国民を惑わせているのではないでしょうか?巨大な権益、利権が渦巻いていないでしょうか?皆国民の血税が、彼らの懐に入っていっているのです。ここに「脅威」と「抑止力」の発信源が見えていないでしょうか?

 しかし、そのようには見えないようにしている「装置」、マジック・トリックが強力にちりばめられているのです。それは「脅威」と「抑止力」というトリック・ゴマカシです。

 日本国憲法の平和主義を有する日本においてみるならば、中国・北朝鮮の「脅威」に対する「抑止力」を選択するとしたら、「軍事力」「武力」「暴力」の「抑止力」を選択すべきか、「非暴力」「対話」「寛容」「強調」「信頼」「連帯」の「抑止力」を選択すべきか、明瞭ではないでしょうか?

 しかし、実際は、とんでもない方向に持っていこうとしているのです。

 日米両政府と「死の商人」たちとま逆の思想と論理をもった人々が、実は、アメリカにおいても日本と同様に存在しているのです。

 それは「非暴力」「対話」「寛容」「強調」「信頼」「連帯」の「抑止力」として掲げている学校です。以下の引用は『中学生・高校生の発達と教育3』(岩波書店)の中の太田政男「第4章 君たちが君たちの学校をつくる」です。以下みてみます。

 アメリカのある小学校には、「市民としての権利」という、次の文が教室に掲げられている。

一 教室の中で、私は幸せであり、暖かく扱ってもらう権利をもっています。このことは、だれも私を笑ったり、傷つけてはいけないことを意味しています。

二 教室の中で、私は私でありつづける権利をもっています。このことは、黒人である、白人である、太っている、やせている、背が高い、低い、男の子、女の子という理由で、不当に扱われないことを意味しています。

三 教室の中で、私は安全に暮らす権利をもっています。だれも私をぶったり、押したり、傷つけてはいけないことを意味しています。

四 教室の中で、私は他人の話をきき、聞いてもらう権利をもっています。このことは、だれも金切り声をあげたり、騒音をだしたり、わめいたりしないことを意味しています。

五 教室の中で、私は自分について学び続ける権利をもっています。(引用ここまで)

 どうだったでしょうか?橋下市長の「手をあげる」「体罰」すら不必要な「教室」が展望できるのではないでしょうか?ここに確信を持てるか、持てないか、分岐点があります。ところが、この分岐点において、戦後日本は、どちらを選択してきたか。

 それは「持てない」側の道を選択して、ずっと済ませてきた歴史があるのです。だからこそ、「懲戒」と「体罰」を混同させ、ゴマカシ、曖昧にして、「体罰」を容認してきたのです。ここに共通している思想は人権尊重思想の欠如・無理解です。「体罰」「抑止力」「成果」「効果」論という「神話」です。

 そこで注目しなければならないのは、「教室の中で」を、「アメリカの中で」と、さらに「地球の中で」と書き換えたのなら、どのような現実が広がっていくことでしょうか?悲惨な事件、戦争を熱狂的に支持するようなことは起こらないのではないでしょうか?

 こうした思想と論理が大勢になれば、「死の商人」たちを孤立させることができれば、歴史は劇的に変革されるでしょう。

 それにしても、銃規制を阻む全米ライフル協会の主張の根底に何があるか、それを見ていく必要があるように思います。それはイギリスから独立を獲得したアメリカ国民が、「銃」「武力」「暴力」で先住民の命や財産を奪ってきた歴史、黒人奴隷の解放の是非を武力で決着を付けた歴史です。「銃」「武力」「暴力」で国土を拡大してきた歴史です。そうした歴史によってアメリカンドリームを実現してきた歴史です。こうした歴史の中に銃がどのような位置を占めてきた結果、今、悲惨な事件を招いしまったのです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

 これらの歴史的伝統を受け継ぐ全米ライフル協会と黒人解放のキング牧師のアメリカ。

 日清日露戦争を遂行していた天皇制軍国主義に立ち向かった田中正造、その天皇制軍国主義がアジア太平洋戦争を引き起こし敗北し占領された米軍に立ち向かった阿波根昌鴻の日本。

 いずれも非暴力不服従主義を掲げて歴史を創造してきた先人がいる両国で、「軍事力」「武力」「暴力」による「脅し」を「抑止力」として大儲けする思想と論理が大勢を占めている現実、「悲惨な事件はごめんだ」という国民意識の広がりをさらに広げていくことができるか、これを他国への侵略否定と結びつけていくことができるか、今世紀の最大の課題と言えるでしょう。

 何故ならば日米の経済力・軍事力、政治力の動向は、今や世界の発展の桎梏となっているような気がするからです。

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学校と教育に「非暴力」「人権尊重」を徹底せず「暴力」「命令」で「服従」を強制する軍事同盟容認派に喝!

2013-01-15 | 日記

大阪市立桜宮高校の体罰による生徒の自殺事件で、マスコミは、いつもの「事件」のように「ここぞ!」とばかりに、連日「体罰は許せない」「教育委員会と学校と顧問はトンデモナイ!」報道を繰り返し、その度に橋下大阪市長が登場させています。しかし、文部科学省によれば、この間「体罰」による処分が繰り返しなされているにもかかわらず、「処分」が減らない事態の奥深いところに何があるか、本質に迫った発言・議論・報道はされていません。

 朝日 「部活での体罰禁止」 大阪・橋下市長、成人式で表明

http://www.asahi.com/national/update/0114/OSK201301140008.html

 毎日 高2自殺:橋下市長、発言転換後も体罰ルール化依然模索 01月15日 06時49分

http://mainichi.jp/select/news/20130115k0000m040129000c.html

橋下氏は府知事時代の08年、「言っても聞かない子には手が出ても仕方ない」と発言。市長就任後の12年10月には文科省の通知を「ぬるい」と批判し、「もみあげをつまんで引き上げるくらいいい」として、独自基準を作るよう市教委に求めた。 しかし、今月12日、生徒の両親と面会してから大きく方針転換する。「スポーツ指導で手を上げることは全く意味がないと分かった。猛反省している」。14日に市内で開かれた成人式では「部活動で手を上げることは一切禁止する」とスポーツでの体罰一掃を宣言した。ただ、「学校現場で他人に迷惑をかけるとかの時には、手を上げることも認めないといけないかもしれない」とも話している。 市教委幹部は「体罰を容認するような発言は好ましくないと思っていた」と変化を歓迎する一方、「市長がどう変わろうと、教育行政の責任者は市教委だ」と話す。 村山士郎・大東文化大教授(教育学)の話 体罰に当たるかどうかを線引きするのは、「ここまでなら許される」という教師の言い訳を作るための論理だ。(引用ここまで)

 この記事のように系統的に橋下氏の府知事時代・市長の体罰容認・人権軽視発言を報道したことは評価されなければなりません。しかし、今回の事件の本質にまで迫った記事にはなっていません。行政のトップである橋下市長の発言が今回のような「体罰容認」の温床になっている可能性は充分ありますので、その点についてマスコミは検証すべきです。同時に、橋下市長は、「行政の責任」に言及するのであれば、「体罰容認」論の本質を解明し、市長を辞職すべきです。

 しかし、彼は、反省するどころか、未だ「手をあげる」=「体罰」を容認する発言をしているのです。本当に反省などしていないことが判ります。

 同時に、この発言の「論理」に注目しておく必要があります。

 「他人に迷惑をかける」時には「手を上げる」からと言って「体罰」を容認するのではなく、「他人に迷惑をかけない」子どもをどのように育てるかという教育の徹底です。

 このことは、「国際紛争を解決する手段」として「武力」「暴力」による「脅し」を使うか、非暴力的手段を用意し使うかという平和主義の思想と論理の優位性を示す絶好の教材となっています。このことは後述します。

 このような教育は憲法と子どもの権利条約の理念の立場から、子ども自身を権利行使の主体者として位置づけると同時に、子どもに権利行使を保障する責任を自覚させる教育を徹底していくことです。憲法の民主的原理である権利を守る責任論です。これこそが生徒を主権者として位置づける視点です。大日本帝国憲法の臣民論と、ま逆の位置づけです。

 子どもの集団間において、子どもは自分の権利を守り、自分の権利を行使するためには、他人の権利を擁護しなければならないという当たり前のことを学ぶ教育の徹底化です。学級や部活動において、子ども自身にルールをつくらせ、集団の目標設定や、目標実現のための行動を、自らの行動として実践していくという指導です。

 こうした指導が小学校から高校段階まで系統的に行われていたらどうでしょうか?以下の取り組みを文部科学省が奨励していたら、どうでしょうか?

 埼玉県立川越高校の生徒会

http://www.kawagoe-h.spec.ed.jp/zen/seitokai/kiyaku.htm

長野県辰野高等学校学校三者協議会

http://www.nagano-c.ed.jp/tatsukou/plan/sansya.htm

平岸高等学校三者会議の取組

www.city.sapporo.jp/kyoiku/top/kodomonokenri/documents/21san

 ところが、日本の教育は文部(科学)省、地方教育委員会、学校長、教師をとおして生徒に「上意下達」「服従」思想を徹底させる教育が行われてきました。このことは今回の事件で証明されました。部活だけではありません。

 文部省の学習指導要領の徹底化をとおして、教科の指導、「特色ある学校づくり」、行事の指導など、すべての分野において、「強制」指導、ものを考えない指導が行われてきました。先生方の会議である「職員会議」が、先生たちの教育論や教育実践を交流し、合意軽視絵を得ていく場から、校長の「職務命令」を伝える伝達機関として変質させられてきたこと、学校現場が「対話と合意」から「ほうれんそう」に変わってきたことは、その象徴です。

 教師も含めて、児童や生徒が自主的に、民主的に行動できる教育をサボタージュ、変質させてきました。その最たるものは、生徒の自主的卒業式を止めさせ、「日の丸」礼拝、「君が代」斉唱を強制する行事を「職務命令」と「処分」を振りかざし、「服従」を徹底させてきたことです。「職務命令」に違反すると「処分」するのです。この方策の根底に「特別権力関係」論があります。

 こうした教育を浸透させていく一方で、「甲子園か、東大か」という言葉に象徴されるように、「有名中学から有名高校・大学へ、そのための部活動・スポーツ」を教師と生徒に課すのです。教師も生徒も部活動と進学指導での成果を求め、「人事評価」を課しながら、「学校生き残り競争」の渦の中にはめ込まれていくのです。そのために生徒の通学区を「自由化」「多様化」「個性化」の名の下に取っ払っていったのです。今回の市立桜宮高校の学科を見れば明瞭です。

 そうして「」付きの「自主的」「自己責任」の名の下に、上述した教育が行われた結果、どのような教師と生徒が形成されたか、一目瞭然です。

 もう一つあります。以下の記事です。文部科学省の責任について、何ら言及することなく「ヤンキー先生」を持ち上げる記事です。しかも「ヤンキー先生」自身の思想が、橋下市長と同じであることが、彼の発言から見て取れるのは、皮肉でしょうか?しかも、この「ヤンキー先生」、安倍自公政権の「教育再生会議」の看板かけにも登場していました。

 首相教育再生会議の看板かけ 1月15日 18時30

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130115/k10014813851000.html

 橋下市長や「ヤンキー先生」などは、今回の悲惨な事件について「反省」は口にしていますが、本当に「反省」はしていません。何故ならば、以下の記事を見れば明瞭です。

 ヤンキー先生「暴力だ」…大阪市教委に抗議も(2013年1月15日13時55分  読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20130115-OYT1T00465.htm?from=main2

会議終了後、記者団の取材に応じた義家政務官は、改めて「今回の件は恒常的な暴力」と強調。「懲戒的に行う『体罰』と矮小(わいしょう)化するべきではない」と述べ、文科省として、部活動、特別活動での体罰の定義について議論が必要との考えを示した。(引用ここまで)

 毎日 大阪・高2自殺:文科政務官「体罰、線引き必要」 01月15日 11時59分

http://mainichi.jp/select/news/20130115k0000e010185000c.html

義家政務官は記者団に「今回の事案は日常的に行われた暴力だ」と述べた。一方、「体罰と暴力、あり得る体罰とそうじゃない体罰の線引きが必要」とも述べ、体罰を一部容認するとも受け取れる発言をした。…義家政務官は冒頭、今回の問題について「教育行政の責任であると同時に、教育の『無責任』だ。安易に体罰という言葉が流布されているが、継続的、日常的に行われた身体的、精神的暴力と思う」と話した。 協議後、義家政務官は記者団に「市教委は方針を速やかに出せていない」と批判。文科省が問い合わせるまで報告がなかったことや、調査を外部監察チームに委ね、全校生徒へのアンケートなどによる事実確認をしていない点を指摘した。 一方、義家政務官は「気合を入れるための平手打ちは前時代的だ」と否定しながら、「強くなるために(体罰は)一定ある。目的は何なのかだ」と述べ、部活動での体罰と暴力の線引きが必要との認識を示した。学校教育法では、教育上必要があると認めるときに「懲戒を加えることができる」とする一方、体罰を禁止している。(引用ここまで)

 「体罰」を「秩序」維持のための、また「成果主義」のための「手段」「抑止力」として位置づけているいることが判ります。これが教師の思想信条の権利を奪う安倍自公政権と橋下市長の一致した狙いなのです。

 このような彼らの狙いは、実は「軍事力」「武力」「暴力」を「抑止力」として位置づける「日米軍事同盟」を「容認」「深化」させる思想と論理と同じであることが浮き彫りになったと思います。ここに最大の問題があると同時に、解決のための展望もあるように思います。

 何故ならば、こうした路線では、再び同じ事件が起こる可能性があること、同時に、子どもの成長を育むことができないことは明らかだからです。

 これについては、長くなりましたので、次に譲ります。

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成人の日、子どもの意見表明権行使を育てず服従を強制しておいて若者に説教を垂れる社説に大喝!

2013-01-14 | 子どもの権利条約

今日は成人の日、本来は1月15日でした。それは以下の根拠によって制定されたようですが、ハッピーマンデー制度導入によって変更されました。

http://ja.wikipedia.org/wiki/

 ところで「成年」については、以下の規定があるようです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%90%E5%B9%B4

 そこで、今日の成人に向かってメッセージを送った各紙の社説を読んでみました。これらを読んでみて思ったことは、以下のとおりです。

 1.若者を取り巻く厳しい状況を指摘しながらも、若者自身に自覚と責任を求める社説があったこと。

(1)新しい人間関係を誰かと結べば、また、別の分人ができる。そうやって、危機をしのいで、前向きに生きていけないだろうか。…社会が若者たちに閉塞感を与えている面はある。でも、息が詰まる状態に身を置き続ければ、呼吸が苦しくなるばかりだ。心の持ち方を変えて新しい関係を生きてほしい。(毎日

(2)だが、厳しい状況だからこそ、若い力への期待は大きい。既に働いている新成人も、これから社会に出る人も、「社会から求められている」という自負心を持って仕事や勉学に取り組んでほしい。…それぞれの思いを胸に、時代を切り開いてほしい。(読売

(3)若者人口の減少は国力の衰退につながり、国は早急に手を打たねばならない。同時に、若者自身にも日本の次代を担っていこうとする自覚を促したい。…現行憲法を墨守するのかどうか。日本の屋台骨を支えることになる今の若者にこそ真剣に考えてほしい。もはや傍観者であってはならない。…現状に不満を並べるだけでは若者らしくない。大きな志で「強い日本」を創造してほしい。(産経

(4)社会を改善するためにも政治への関心を高めてほしい。選挙への参加もその一つだ。(岩手

(5)この不思議な節目の日、新成人の皆さんには、過ごしてきた時間の重さにしばし浸ってもらいたい。多くの人の愛情や喜怒哀楽がいっぱい詰まった時間の手触りを、まず確かめてもらいたい。 そして想像してほしい。未来と呼ぶにはあまりに身近な次の二十年先に、あなたは何をしているか。何をしていたいのか。 今私たちには、想像力が足りません。…例えば二十年という時間が起こす変化の力を信じずに、現在の物差しで未来を測り、あれもだめ、これもだめだと、できない理由ばかりを探して立ちすくんでいるようです。それがもし「大人」なら、見習わないでいただきたい。 想像してごらん。二十年後、温室効果ガスを25%減らした地域のことを。想像してごらん、原発がゼロになった日本のことを。想像してごらん、戦争のない世界のことを。今皆さんに、できない理由がありますか。(東京・中日

(6)日本は政治、経済とも先行きの見通せない状況に陥っている。がむしゃらに働いてきた大人たちは、新しい社会のビジョンを探しあぐねているともいえる。「どうせ世の中は変わらない」と傍観するのではなく、自ら切り開く気概をもって世の荒波に挑んでほしい。(山陽

(7)ネット選挙を解禁さえすれば、投票率が上がるというものではないはずだ。一人一人が、わがこととして政治や選挙にどれほどの関心を向けられるか。そこにかかっていよう。 今度の政権交代で実際、若い世代にものしかかりそうな課題が岐路に差しかかっている。社会保障費の負担はもとより、憲法改正や集団的自衛権の行使、脱原発政策の賛否をめぐる議論にしても同じだろう。 玉石の入り交じったネット情報を取捨選択し、読み解ける眼力が今まで以上に求められる時代である。自立した有権者を育む選挙啓発や学校教育の再構築が欠かせない。(中国

 

2.若者だけではなく大人も反省を求める社説もあったこと。

(1)今年は新しい仲間を迎える大人社会の側に向けて書きたい。…私たち大人の側から世代の壁を築いてしまわないよう、胸に刻みたい。(朝日

(2)そういう社会にした大人の責任は重大である。誠に申し訳ない。(京都

 

3.若者の選挙に対する低投票率(無関心)を指摘する社説もあった。

(1)先月の衆院選で投票所に足を運んだ新成人は、果たしてどれくらいいただろうか。 詳細はまだ明らかになっていないが、明るい選挙推進協会によれば、平成5年から21年までの6回の衆院選における20歳代の投票率は、いずれも30%台、40%台で、60歳代(約77~84%)などに比べてすこぶる低い数字である。 飲酒・喫煙の自由を得たことは喜んでも、選挙権を得たことの意義を心に刻む新成人は少ないのではなかろうか。雇用や景気に不安を感じ、時代の閉塞感を嘆くばかりで将来への希望も持たず、日本の未来についても当事者意識が希薄なように思われる。 人口が少ない上に投票率が低いとなると、やがて社会の支え手となるであろう若者自身の意思が政治に反映されないことになる。(産経

(2)先の衆院選は、戦後最低の投票率を記録した。若者の選挙離れも指摘されている。 岩手大のキャンパスで18、19歳を対象に行われた意識調査によると、近く選挙権を得ることへの自覚が「ない」とした学生が3分の2に及んだという。一票を投じることは政治を考える貴重な契機となる。20歳となったらぜひ選挙権を行使してもらいたい。 若者が政治に参加し、意思を反映させることで、確かな未来が開かれる。(岩手

(3)最近の国政選挙の投票率を見ると、60、70代が70~80%台なのに対し、ただでさえ数の少ない20代前半は30~40%台にとどまる。政治家に白紙委任するのでなく、与えられた権利を自ら十分に行使してもらいたい。(山陽

(4)20代の投票率は、他の世代と比べて低い傾向が続いてきた。若者が政治に関心を高めるきっかけとなるか、注目したい。…誤った情報に有権者が振り回されでもすれば、投票結果の正当性が問われる場面さえ出てこよう。選挙制度そのものの信頼が根底から揺らぎかねない。…先月の衆院選は残念ながら、戦後最低の投票率にとどまった。30代の本紙読者モニターでNPO法人「ひろしまジン大学」の平尾順平学長がきのう、紙面批評で「予想外だった」と振り返っていた。ネット上の世論の盛り上がりようと、低調に終わった投票率とのずれを実感したのだろう。ネット選挙を解禁さえすれば、投票率が上がるというものではないはずだ。一人一人が、わがこととして政治や選挙にどれほどの関心を向けられるか。そこにかかっていよう。 今度の政権交代で実際、若い世代にものしかかりそうな課題が岐路に差しかかっている。社会保障費の負担はもとより、憲法改正や集団的自衛権の行使、脱原発政策の賛否をめぐる議論にしても同じだろう。 玉石の入り交じったネット情報を取捨選択し、読み解ける眼力が今まで以上に求められる時代である。自立した有権者を育む選挙啓発や学校教育の再構築が欠かせない。(中国

 

4.若者を取り巻く政治・社会の矛盾・問題点を指摘しつつも、その要因、マスコミの報道の仕方について述べていない社説があった。

(1)もちろん、自戒を込めて。薄っぺらい教科書で学んだ、勉強不足のゆとり世代。  内向き志向で、受け身。…(朝日

(2)就職難は相変わらずだし、政治的主張がなかなか通らないもどかしさを感じている人も少なくないだろう。いらだちや虚無感を抱える人が多いのではないか。 最近、気になるのは若者たちの自殺がしばしば報じられることだ。…重圧や不安に悩む若者はかなりの数になるだろう。これらには、狭い環境で追い込まれたように感じ、行き詰まってしまった結果という側面もあるのではないか。(毎日

(3)この間、日本は景気が低迷し、中国に国内総生産(GDP)で抜かれ、世界第2位の座を明け渡した。大学進学率が50%を超える一方で、就職難が続く。明るい展望を持ちにくい時代と言える。(読売

(4)若者人口の減少は国力の衰退につながり、国は早急に手を打たねばならない。雇用や景気に不安を感じ、時代の閉塞(へいそく)感を嘆くばかりで将来への希望も持たず、日本の未来についても当事者意識が希薄なように思われる。(産経

(5)想像してごらん。二十年後、温室効果ガスを25%減らした地域のことを。想像してごらん、原発がゼロになった日本のことを。想像してごらん、戦争のない世界のことを。「イマジン」をつくったジョン・レノンは、こんな歌も歌っています。 ♪戦争は止められるさ/もし君が望みさえすれば♪(ハッピー・クリスマス)(東京・中日

(6)今年の新成人は、まさにこの時期を生きてきた。 この間、情報技術が進歩し、グローバル化が進行。それに伴い、雇用形態も変化した。学校は「ゆとり教育」をめぐり揺れた。 先行する世代を見ると、就職、結婚、子育てなどに格差社会の拡大が反映。課題が先延ばしにされ、社会には閉塞感が漂っている。(岩手

(7)日本、あるいは世界は今、大きな変革期にある。これまで大人たちが築き上げてきたさまざまなシステムがうまく機能しなくなっているからだ。 新成人が誕生したころはバブル経済崩壊の直後だ。その後が「失われた20年」と呼ばれるように、経済は長期間低迷し、デフレ不況はいまだに出口が見えない。 政治も迷走した。20年前、非自民・非共産の連立政権が発足して戦後政治の転換点となったが、その後、政権交代を繰り返す度に国民の不信を深めた。特にこの6年は毎年、総理大臣が交代するありさまだった。少子高齢社会が進む中、国と地方の借金は1千兆円にも膨らんだが、目指すべき社会のかたちは示せていない。(京都

(8)自分の将来に不安を感じる人が、多少感じるも含めて88%に上った。就職難や雇用に関する不安が圧倒的に多かった。…ビジョンを持ち、一生懸命働くことだ。日本人はよく働くが、ビジョンを持つことは苦手だと指摘する。 日本は政治、経済とも先行きの見通せない状況に陥っている。(山陽

(9)現在の公選法は、選挙の期間中に配布できるビラやはがきの枚数、体裁を規制している。(中国

 

5.「問題だな」と言える社説は、以下のとおり。

朝日」―「自戒を」述べ、「ゆとり教育は、始まるやいなや学力向上にかじが切られた。大学も出席を厳しく取るようになった」ことからくる「リアルな人間関係」の「希薄」や「友だち地獄に悩んでいる」若者の実態が「大人の側」の意図によって造り出されていることを曖昧にし、「しかし、生協連をはじめ各種の調査結果を見ると、どちらもそうは言えない」という事例を出すことで、「若者を『問題』としてみようとする大人の視線が、むしろ問題かもしれない」(浅野准教授の指摘)と今度は「大人の視線」を出すことで、政府の教育政策や企業の雇用政策などの問題点を曖昧にしていることです。ここでもマスコミの役割を免罪しているのです。

毎日」―「若者たちの自殺」をとりあげているものの、「誰か」と「新しい人間関係」を「結べ」、「起業をめざす人」のように「新しい人間関係」によって充実した人生を得」なさいと、「息が詰まる状態に身を置き続ければ、呼吸が苦しくなるばかりだ。心の持ち方を変えて新しい関係を生きてほしい」と若者の責任に転嫁していることです。「政治的主張がなかなか通らないもどかしさ」と言いますが、そのような「もどかしさ」を感じさせてきた原因は何か、いっさい触れていません。

読売」―「大企業なら安泰とは限らない」から「米国発」「起業」「ビジネスが日本にも広がり始めた」ように「従来にはない柔軟なアイデアを発揮してもらいたい」と、「明るい展望を持ちにくい時代」となった原因の解決を何ら示さず、結果的には「それぞれの思いを胸に、時代を切り開いてほしい」と述べて責任を転嫁していることです。

産経」―「若者人口の減少は国力の衰退につながり」と、若者人口が減少してきた原因に目を向けず、黙殺し、若者を「産経」のいう「強い日本」=「国力」の強化づくりのために利用しようといているのです。

東京・中日」―「民法は『二十歳をもって、成年とする』(第四条)と定めています。ところが、世界的にはプエルトリコが十四歳、一般には十八歳で成年とみなされる場合が多く、『大人』の根拠はあいまい」と、これが徴兵制度を想定していたことを指摘していません。また世界的には18歳選挙権が大勢ですが、これは子どもの権利条約でも明白です。しかし、こうした視点はありません。このことの意味は重大です。しかも、「「大人」を「見習わないでいただきたい」と述べたり、「イマジン」をつくったジョン・レノンを紹介しながら、「温室効果ガスを25%減らした」「原発がゼロになった日本」「戦争のない世界」を「想像してごらん」、「♪戦争は止められるさ/もし君が望みさえすれば♪」と述べるに留まっているのです。そうした状況にないことは、「若者の自殺」状況を見れば明瞭です。今「望み」を抱くだけではなく、「不断の努力」をこそ、必要ではないでしょうか?何故こうした視点と行動を求めないのでしょうか?世界の若者のように。

山陽」―政治の問題点を曖昧にして「厚生労働省は今年4月から段階的に2割に上げるよう提案したが、自公両党は今夏の参院選を控えてまたも引き上げを見送るようだ。 ただ、先送りしたツケは将来に回る。若い人たちがこの先、年金や医療などで今の水準のサービスを受けられそうにないという世代間格差は重い宿題である。 要は負担を各世代が分かち合い、将来も持続できる社会保障の仕組みをどうつくるかだ。社会保障に限らない。政治の課題に対して若者が声を上げていくことが肝心だ」と述べるだけで、こうした問題点に対して国民的運動があるにもかかわらず、報道していないマスコミの責任放棄を晒して、若者に説教を垂れているのです。

中国」―「ネット選挙解禁」を歓迎しながらも、「一人一人が、わがこととして政治や選挙にどれほどの関心を向けられるか。そこにかかっていよう。 今度の政権交代で実際、若い世代にものしかかりそうな課題が岐路に差しかかっている。社会保障費の負担はもとより、憲法改正や集団的自衛権の行使、脱原発政策の賛否をめぐる議論にしても同じだろう」との「危惧」を述べながら、「ネット情報を取捨選択し、読み解ける眼力が今まで以上に求められる時代である。自立した有権者を育む選挙啓発や学校教育の再構築が欠かせない」などと、自らどのような情報を発信してきたか、それは不問なのです。

 6.以上、社説の特徴と問題点を述べてきましたが、それでも、以下の呼びかけは大切にしたいものです。

(1)一票を投じることは政治を考える貴重な契機となる。20歳となったらぜひ選挙権を行使してもらいたい。 若者が政治に参加し、意思を反映させることで、確かな未来が開かれる。(岩手

(2)若者が希望を抱き、前を向く力は必ず社会の原動力となる。 困難な時代を生き抜き、ともに前に進もう。(京都

(3)「どうせ世の中は変わらない」と傍観するのではなく、自ら切り開く気概をもって世の荒波に挑んでほしい。(山陽

 

 以上、今回の社説を読みながら、最後に、昨日の記事との関連で意見を述べるとすると、以下のことになります。

 「体罰」という「暴力」「脅し」による「服従」を強要している教育界のことを指摘せず、若者の投票行動の低さを指摘している社説があったことは、改めて日本社会の「病理」「戦前」の克服の大切さが浮き彫りになったと思います。

 

ここでも、天皇のために死ぬことを最大の美徳としていた戦前の教育勅語体制と天皇の命令に忠実な兵士づくりをするための軍人勅諭体制と歩兵操典思想が、社会のあらゆる面に徹底されていったこと、その思想と体制が、戦後の現在も色濃く残っていることを指摘しないマスコミ自身のタブー視が浮き彫りになったことです。

 もう一つは、若者の意見表明権、若者を主人公にした学校教育システムや地域のあり方を問うこと、こうした若者たちを日常的に評価し、報せていくマスコミの姿勢が極めて弱いということが判ります。

 このことは60年代から70年代初頭に、「新左翼」という偽りの報道があったものの、高度成長期の日本社会に対する様々な矛盾に対する若者の問題意識や行動を報道することで、さらに若者に大きな影響を与えていったことを見れば、今日のマスコミがどのような位置にあるか、明瞭です。

 このように、どのような「情報」が社会を席巻していくか、そのことが、社会の有り様を決定していくこと、このことを教訓としなければならないと思います。 

以下、「成人の日」を論じた社説を掲載しておきます。

 朝日 成人の日―レッテル貼りを超えて 2013年1月14日(月)付

http://www.asahi.com/paper/editorial.html?ref=com_gnavi

読売 成人の日 若い力で停滞を打ち破ろう(1月14日付)http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20130113-OYT1T00906.htm

参詣 成人の日 「日本は俺が創る」の志で 2013.1.14 03:14

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130114/trd13011403550000-n1.htm

東京・中日 イマジン、次の二十年 成人の日に考える 2013年1月14

http://www.chunichi.co.jp/article/column/editorial/CK2013011402000086.html

岩手 成人の日 若者の力が未来を開く (2013.1.14)

http://www.iwate-np.co.jp/ronsetu/y2013/m01/r0114.htm

京都 成人の日  ようこそ。ともに前へ [2013年01月14日掲載]

http://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/index.html

山陽 成人の日 少数派の世代だからこそ (2013/1/14 9:30)

http://www.sanyo.oni.co.jp/news_s/news/d/2013011409302199/

中国 ネット選挙解禁へ 「玉石」見抜く力 必要だ '13/1/14

http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh201301140072.html

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橋下体罰抑止力論と日米軍事同盟抑止力論は憲法の平和主義とは相容れないことが大阪の不幸な事件で実証!

2013-01-13 | 日記

昨日は、全国・地方紙の社説を取り上げ、大阪市の高校で起こった体罰による自殺事件について、その奥深いところに何があり、そのことについて、マスコミ自身が真剣に取り上げてこなかったこと、またその理由について述べ、さらに、このことの意味についても述べてみました。

今日は、そのことを、さらに憲法の視点にたって、日米軍事同盟容認・深化論との関係から深めてみることにしました。

 まずはじめに確認しておかなければならないことは、今回の事件に関連して、考えなければならないのは、以下の日本国憲法の原則です。

 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。(前文

 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。(9

 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。(13

 何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。(18

 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。(36

 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。(97

 

これらの原則が日本の社会で徹底されていたなら、学校におけるいじめや自殺、さらには、日本社会全体における人権侵害は起こせないでしょう。しかし、この原則が学校で、家庭で、地域で、会社で、どれほど徹底されているでしょうか?マスコミはこの原則をものさしに記事を書いているでしょうか?そういうことを考えると、この原則の徹底化を求めたいと思います。

そこで、特に、以下のことを指摘しておきたいと思います。

 「紛争を解決する手段として」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」は「永久にこれを放棄する」第9条は、単に戦争を経験したという理由からだけではなく、フランス革命以後の人権尊重主義を受け継いだものと言えます。 

幸福追求権」にしてもアメリカ独立宣言に明記されているように、これはイギリスから独立する際の大義名分であったのではないでしょうか?

幸福追求権」 をすべての人間に公平に適用していく!空文句、絵空事ではなく、すべての国民が、この理念を噛み締めて具体化のために実践していく、まさにアメリカ独立革命を実現した人々と今日的に連帯することになるのではないでしょうか?

こうした原則が、単にアメリカから押し付けられたものでないことは明らかです。それは「過去幾多の試錬に堪へ」てきた「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であって、「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託された」結果として、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」(12)と、国民に課せられたのです。そうした意味で、また現在の日本の現実を診れば、日本国民にも適用されることは明らかです。

 しかし、どんな立派な原則も、それを意識的に使っていこうとする気がなければ「宝の持ち腐れ」になります。このことは戦前においても「体罰禁止」の「原則」があったにもかかわらず、「天皇のために死ぬ」ことができる人間を教育するために「体罰」は公然と行われていましたし、「命令に服従する兵士づくり」のために「暴力」が意図的に使われていました。

 その「伝統」は、戦後においても同じでした。憲法と教育基本法が制定され、学校教育法で禁止されたにもかかわらず、そこから学ぶことをせず、「経験主義」によって「体罰」という名の「暴力」は公然と行われ、継承されていました。

以下の資料を掲載しておきます。

 毎日余録:「凡そ学校に於いては、生徒に体罰を加うべからず…2013年01月09日 00時42分

http://mainichi.jp/opinion/news/20130109k0000m070091000c.html

「凡(およ)そ学校に於(お)いては、生徒に体罰(殴るあるいは縛(ばく)するの類)を加うべからず」。1879(明治12)年に制定された教育令第46条だ。学校体罰の法禁の最先進国といわれるフランスより8年も早く、日本は体罰を法令で禁止していた…日本の学校で体罰が乱用されるようになったのは、その後の力ずくの近代化、とくに軍隊教育の影響が大きかったようだ。表向きは教育現場での体罰が厳禁された戦後も、体育系のクラブ活動などの「殴る教育」は時に美化されながら脈々と受け継がれてきた(引用ここまで)

 校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、監督庁の定めるところにより、学生、生徒及び児童に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。(学校教育法第11条

 懲戒体罰を混同しているマスコミ、体罰の概念に対する無理解のマスコミが存在していることは、昨日一覧した以下の社説を見ても明らかです。以下、再度確認しておきます。

 (1)教員による体罰は学校教育法で禁じられている。ここでいう体罰とは、殴る蹴るなど身体への侵害や、長時間の起立など肉体的苦痛を与える行為を指す。…いうまでもなく体罰は悪い。厳しい対処は当然だ。それでも、禁じられた行為だと覚悟のうえでふるわれる熱血教師の「愛のムチ」があり得ることも信じたい。ただ今回のケースは、そうした願望からもあまりに遠い。(産経

(2)顧問の行為は言われているような体罰だったのだろうか。体罰とは本来、過ちを犯した者に対し、再び過ちを犯すことがないよう、やむを得ず身体的な苦痛を与え、導くことだろう。…スポーツの技術的な失敗を理由に殴ったのなら、それは教育的な罰とは異質な暴力と言わざるを得ない。(岐阜

(3)体罰は学校教育法で禁じられている。文部科学省も、殴る、蹴るなど身体に対する侵害や、長時間の正座など肉体的な苦痛を与える行為が体罰に当たるとして全国の教委に禁止を通知している。(神戸

(4)男性顧問は「発奮させるため」と説明している。指導の一環のつもりだったかもしれないが、体罰というには度を越している。暴力以外の何物でもなかろう。教育現場とは対極にある行為のはずだ。(中国

(5)文科省は07年に体罰を殴る蹴るなどの身体的侵害と定義、全面禁止を通知した。(愛媛

(6)学校教育法は児童や生徒への体罰禁止を規定し、文部科学省は2007年、「いかなる場合も行ってはならない」と全国に通知した。力による解決への志向を助長させ、いじめなどの土壌を生む恐れがあるからである。(徳島

(7)文科省は07年の通知で体罰の禁止を確認したうえで、児童・生徒に「毅然とした指導」を求めなからも、それには子どもとの信頼関係構築が大切であり「子ども一人一人の状況に配慮を尽くしたかどうかが重要」とくぎを刺している。 授業であれ、部活動であれ、事情は基本的に同じであろう。(西日本

(9)体罰とは本来、過ちを犯した者に対し、再び過ちを犯すことがないよう、やむを得ず身体的な苦痛を与え、導くことだ。(宮崎日日

(10)部活動の指導者が生徒に気合を入れようと、つい手が出ることはあるかもしれない。だが、自殺に追い詰めるような行為は、明らかに教育の範囲を超えている。…学校教育法は殴る蹴るといった体罰を禁止している。どんな理由であれ人権侵害は許されない。(南日本

 以上のようなマスコミの捉え方が、如何に間違っているか、それに対して文部省が「体罰」について、どのような考え方に基づいて指導をしたか、しかし、その指導が徹底化されず、処分者が後を絶たなかったことは、その後の事実が何より示しています。

 生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得 昭和24年8月2日 法務府発表

http://kohoken.s5.pf-x.net/cgi-bin/folio.cgi?index=sch&query=/notice/19490801.txt

 体罰の禁止並びに暴力の否定について

http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/kohyojoho/reiki_int/reiki_honbun/ag10125081.html

 では何故、「法」や「法律」があるにもかかわらず、それを遵守し擁護することを怠ってきたのでしょうか?そのことは、既に明らかにしてきました。それは怠る勢力の思惑があったからです。それは、

一つには、憲法と教育基本法の徹底化をサボタージュすることで、憲法・教育基本法改悪を目論んでいたこと。

二つには、成果主義を徹底化させ、教師間の団結よりも、競争意識を助長することで分断し、教師自身をも服従させようとしていたこと。

三つ目には、こうした教育の徹底化で、自主的・民主的生徒、民主的人格を育てるよりも服従意識をもった生徒を育てることを目論んだこと。

ということです。

 こうして人権と民主主義を教え、育てる学校現場において、「文部省から現場へ」と上意下達精神が徹底され、教師自身をロボット化させることで、生徒の自主性さえも奪い、物言わぬ労働者として社会に送り出してきたのです。こうした路線が、現在の社会にどのような影響与えているか、事実は明瞭です。

 こうした戦前の教育の再生産が繰り返されてきましたが、その代表的人物が、橋下大阪市長と言えます。

 彼は、自公政権と民主党政権の失態を逆手にとって、得意な言動とパーフォーマンスによって国民とマスコミを引き付けています。しかし、その思想は「日本維新の会」の名のとおり、超保守・国家主義者と言えます。

 今回の事件に対して、彼の言動を「評価」する社説が書かれていますが、この間の彼の主張を辿ることなく、また彼の大ウソを見抜くことをせず、彼の出番を保障しています。このような政治家が、大手を振って闊歩できる日本こそ、民主主義の未成熟度を示していると思います。

 (1)極めてずさんな対応である。この時、踏み込んだ調査をしていれば、今回の悲劇を防ぐことができた可能性もある。大阪市の橋下徹市長が「教育現場の最悪の大失態だ」と指摘したのは当然だ。(読売

(2)橋下徹大阪市長が「事実なら犯罪だ。完全な暴行、傷害だ」と憤慨したのも当然だろう。(東京

(3)橋下徹市長は「自殺の要因に体罰があったと認めざるを得ない」と述べ、徹底調査を指示した。当然のことだ。(神戸

(4)大阪市の橋下徹市長は外部監察チームを大幅に拡大し、調査体制を強化するという。原因を根本から洗い出し、再発防止に全力を注いでほしい。(中国

(5)橋下徹大阪市長が「ずさん。意識が甘すぎる」と批判したのも当然だし、おざなりな調査で、ごまかしてきたとしか言いようがない。(佐賀

(6)橋下徹大阪市長は、市長直轄のチームで実態調査に乗り出す考えを表明した。しかしこれは大阪市だけの問題ではない。この悲劇を機に、全国の学校、教育委員会は直ちに徹底調査を行い、部活動での「体罰」「虐待」を根絶しなければならない。(琉球新報

 どうでしょうか?マスコミの橋下市長に対する「評価」が判るのではないでしょうか?

 橋下市長自身が「勝利第一主義」と「成果主義」を徹底化させるために教員の思想信条を侵害する条例を強行し、「競争」を煽り、「体罰」を容認してきた、その人だったことをマスコミは「黙殺」「評価」しているのです。クロをシロとする、マスコミの捉え方は、まさに民主主義国家にあってはならないものと言えます。以下見てみます。

 朝日 橋下知事「手を出さないとしょうがない」 体罰容認発言2008年10月26日22時49分

http://www.asahi.com/special/08002/OSK200810260045.html

学力向上のための緊急対策に盛り込んだ反復学習の実施に理解を求めた。一方、「口で言って聞かないと手を出さないとしょうがない」と体罰を容認する発言をした。 知事は「私は学力を必ず上げます」と断言、「子どもが社会に出て壁にぶつかったとき、乗り越えられる能力が絶対必要だ」と訴えた。一方で「子どもが走り回って授業にならない。ちょっとしかって頭でもコツンとしようものなら、やれ体罰だと叫んでくる。これで赤の他人の先生が教育をできるか」と話し、どこまでを教育と認めるか合意形成が必要だとした。…討論会後、報道陣から体罰を容認するのかと聞かれた知事は「体罰という言葉にとらわれる必要はない」と答えた。これに対し、討論会に同席した生野照子・府教育委員長は「体罰に関する発言は間違っている」と話した。(引用ここまで)

 朝日 「体罰」場合によってはOK? 橋下氏ら問題提起 2012年2月6日

http://www.asahi.com/kansai/sumai/news/OSK201202060045.html

 大阪維新の会(代表・橋下徹大阪市長)が府議会に提出した教育基本条例案に「(教員は)教育上必要があるときは、必要最小限の有形力を行使して児童生徒に懲戒を加えることができる」という条項がある。体罰批判を恐れるあまり、必要な指導ができなくなっているとの問題意識があるのだという。殴る、けるなどの行為とは区別するため「体罰は加えることができない」とも加えた。だがその線引きをめぐり、現場では長く論争が続いてきた。…学校教育法は体罰を禁じているが、指導との線引きは難しく解釈が分かれてきた。文部科学省は2007年、線引きの基準となる指導方針を通知。体罰にあたるかは、前後の経緯や子どもの心身の状況などを総合的にみて判断するとし、有形力の行使は「一切が体罰として許されないものではない」と位置づけた。

 学校現場では保護者のクレームの増加もあり、体に触れることには慎重になっている。50代の男性中学教諭は「遠回りでも言葉でさとすのが最良だという意識が定着してきた。政治が困難な現場に目を向けてくれたことはうれしいが、体罰容認と取られ、力に頼らぬ指導が混乱する可能性もある」と心配する。(引用ここまで)

 「もみあげをつまんで引き上げるくらいまではいい」 橋下市長の「体罰」新解釈が波紋

2012/10/ 4 19:33

http://www.j-cast.com/2012/10/04148962.html?p=all

橋下市長は、2012年10月2日に開かれた教育振興基本計画を議論する有識者会議の中で、

「文科省のガイドラインに(加えて)、また大阪市が作ってもいいんじゃないですか?」

と、さらに具体的なガイドラインを作るように求めた。橋下市長は、「先生ももうちょっと、どうなんですか、懲戒権というか、認めてあげられないもんなんですかねー。ちょっと立たせただけで体罰(と言われる)とかですね…。『これぐらいはいいでしょう』っていうガイドラインを示してあげるとですね…。もう(生徒を)怒れなくなってますよ、先生が」と、教員が問題生徒に対して行える対策が限られていることを問題視。「体罰はダメ」と断りながらも、ガイドラインの一例として、「僕は、もみあげをつまんで引き上げるくらいまではいいと思うんですけどね、そんなのしょっちゅうありましたし、それぐらいなかったらねー、ダメです。大阪市でそれを体罰とか何とか言われたら、政治で僕が引き受けますから」と述べた。さらに、「腹をどつかれた時の痛さ、そういうものが分かれば、相手側の方に対しても歯止めになると思う」と、いじめ対策の側面も強調した。(引用ここまで)

 橋下市長、遺族に謝罪 高2自殺、体罰「認識甘すぎた」2013年1月13日2時5分

http://www.asahi.com/national/update/0112/OSK201301120111.html

橋下徹大阪市長は12日午後、生徒の遺族宅を訪れ謝罪した。橋下市長は「口で言って聞かなければ手を出すときもある」などと発言してきたが、両親と兄との2時間以上の面会後、「自分の認識は甘すぎた」と述べた。 橋下市長は「学校、市教委、市に百%責任がある」と謝罪し、遺族の了解を得て生徒の遺書を読んだという。面会後、市長は「最後の言葉をつづる姿を想像するだけでたえられない」と涙ぐんだ。 学生時代はラグビー部員だった橋下市長は「スポーツの指導で頭をたたかれたり、尻を蹴られることは普通にあると思っていた」。だが自殺に至る経緯を両親から聞き、認識が甘かったと気づいたという。「顧問と生徒は絶対的な上下関係。そういう状況の中で厳しい指導を認めると、こういうことになってしまう。むしろ厳格に暴力は排除しなければいけない」生徒の自殺後、学校が行ったアンケートに「この顧問の指導を受けたい」という言葉が並んでいたことに、「これは異常な世界。勝つためには厳しい指導が必要という意識を変えないと」と話した。また朝日新聞が12日朝刊に掲載した元プロ野球選手の桑田真澄さんのインタビュー記事を踏まえ、「あそこまで極めた方が、暴力はスポーツの能力を伸ばさないと言っている。反論できる人はいない」とも話した。(引用ここまで)

 どうだったでしょうか?「体罰」と「懲戒」を意図的に混同させ、「体罰」の概念を曖昧にして「体罰」=「暴力」によって「秩序維持」を目論む橋下市長の思想は、憲法違反の公務員統制と同じ発想であることが判ります。彼のような思想が社会全体に蔓延していった場合、どうなるでしょうか?想像力を働かせてみる必要があります。

 ところが、13日付け「朝日」39面に掲載された橋下氏の「反省」を読むと、このような簡単なことが理解できなかった人間が政治家として、世間を煽ってきたこと、そのことを反省もせず、簡単に見解をコロッと変えてしまうこと、反省すすのであれば、自らの政治手法をも転換しなければならないはずなのに、そうした視点には立っていないこと、などをみると、この人間の薄っぺらさが判るというものです。

 「朝日」は、2008年10月26日の記事の際には写真入りで紹介していたにもかかわず、今回の発言に対して、今度は写真は掲載せず、社会面の小さな記事で紹介しているのです。呆れます!

 それにしても、こうした思想の持ち主が、この「体罰」による自殺事件をどう考えているか、そこにも注目しておかなければなりません。「違う!反省した!」とするなら、この間、大阪府と大阪市で行ってきた政治に対して、全面的に謝罪し、責任を取るべきでしょう。

 一つは、当事者たちの発言を見る限り、橋下氏自らが煽って推進してきた教育によって、「体罰」が温存され、横行し、生徒が自殺したことは、想像に難くありません。にもかかわらず、彼は反省することもなく、まるで他人事のように教育委員会と学校と教師を非難・攻撃し、マスコミを使って、国民の不満を煽り、橋下市長の推進する行政への支持を得ようとしていることです。

 二つ目は、こうした教育委員会と学校と教師の失態を契機に学校と教育の統制を強めようとしていることです。

 こうした思惑に対して、事実をもって、先に述べた憲法の諸原則を使って批判すること、このことこそが、憲法の原則である人権と民主主義に忠実でなければならないマスコミのやるべきことではないでしょうか?「朝日」の記事を見るまでもなく、事実は全く逆の方向で進められているのです。

 さて、最後に、以上掲載してきた体罰容認論の奥深いところに、実は「体罰=教育」論、「体罰=秩序維持」論、「体罰=服従」論、「体罰=勝利第一主義」論が沈殿していることが判ります。

 実は、これらは、形を変えた「軍事(=暴力)抑止力」論ということができます。この思想の信奉者たちが、何を語っているか、一目瞭然です。さらに言えば、「体罰は良くないが、ある程度なら仕方ない」などという「体罰必要悪」論の立場に立つ国民が、中国・北朝鮮の「脅威」から「日本をまもるために」という日米軍事同盟容認・深化派の吹聴する「大義名分」のために日米軍事同盟を容認してしまう論理と感覚と一致しないでしょうか?

 こうした思想と論理こそ、実は、戦前から繰り返されてきたものです。明治政府でさえも、学校における体罰禁止をしました。しかし「天皇のためには」「ロシアの脅威のためには」「満蒙のためには」「鬼畜米英のためには」「ABCD包囲網のためには」「大東亜共栄圏のためには」、「命令に服従する、強い兵士づくり」が必要であり、そのためには「軍備」=「暴力」こそが、有効な手段でした。朝鮮半島や中国大陸、東南何味アジア諸国の占領統治、植民地統治の手法をみれば、歴然としています。

 こうした「暴力」と「天皇は神聖にして不可侵」という精神主義とによって、悲惨な惨禍が引き起こされたのですが、それを反省・責任を取ることもせず、しかし、タテマエとしては学校教育法によって「体罰」=暴力を否定しながらも、実態としては、憲法を形骸化し、改悪したい勢力によって、戦後も「体罰=暴力」は温存・再生産されてきたのです。

 こうした思想と論理と歴史をみれば、普天間基地撤去やオスプレイの配備反対などの課題が、国民的合意に至らないことが判ります。「体罰が悪いことは判るが、しかし…」「米軍基地が危険であることは判るが…しかし…」という論理と感情です。根深いものです。

 こうした思想と論理が、人権と民主主義を否定する思想であることは明瞭です。ではどうするか、です。

 人権擁護と民主主義を使った運動を、あらゆる場面で実践することです。特にスポーツと民主主義を意味づけることです。これほど判りやすい事例はないでしょう。

 「紛争を解決する手段として」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」は「永久にこれを放棄する」(第9条)は、人間間の「紛争」「諍い」を「解決する手段」として「暴力」と「威嚇」は「永久に放棄する」ということは、どういうことか、です。

 そうです。「紛争」「諍い」は「非暴力的手段」=「話し合い」で解決するということです。これは、人間を「対等」=「平等」にみる見方考え方を前提にしてはじめて成り立つ「手段」です。

 このことは、「いづれの国家(=個人)も、自国(=自分)のことのみに専念して他国(=他人)を無視してはならないのであつて、政治(=人間生活)道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国(=自分)の主権を維持し、他国(=他人)と対等関係に立たうとする各国(=各人)の責務である」(憲法前文)という思想の具体化です。ここに「体罰=暴力」の入る余地はありません。

 以上のように憲法の各条文の中に「体罰=暴力」を当てはめてみれば、これが如何に憲法の原則に反しているか明瞭です。

 こうした視点を国家も行政も、学校も、地域も、家庭も貫くこと、そうして多面的に実践していくことではないでしょうか?

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大阪市の体罰事件を全国・地方紙はどのように考えたか、軍国主義無批判・憲法形骸化社説に大喝を!

2013-01-12 | 日記

大阪市のスポーツ強豪高校である市立高校で起こった体罰による生徒の自殺事件について、各紙は社説で取り上げていました。しかし、この社説を読んで判ったことは、以下のとおりです。

 1.ほとんどの社説が事件の解明と検証を求めていますが、学校と教育委員会の隠蔽体質からくる事実解明を求めるものがほとんどでした。

 2.どの新聞も共通していることは、「体罰は良くない」「学校教育法で体罰は禁止されている」「国は処分を把握し「通知」などを発していた」など、文部行政に、その責任を問うものはなく、その責任を教育委員会と学校に負わせるものでした。その最たる人物は橋下市長です。

 3.こうした事件がスポーツ強豪高などで起こる背景に「勝利第一主義」を掲げる社説はあるものの、これが文部省(文部科学省)による「個性化」「多様化」「自由化」路線による「成果主義」を起因としていることを論評しているもの以下のみでした。

 (1)文科省が掲げた「特色ある学校づくり」を受け、体育に力を注ぐ一部の学校では、試合成績という結果だけを追う成果主義が強まっていないだろうか。勝利至上主義の弊害はかねて指摘されてきた。生徒の自発性や仲間と成長する喜びがあってこその部活動だ。(京都

 4.学校と教育委員会の隠蔽体質がなかったら、この事件は防げたのではないかという論調がありました。

 5.競争第一主義・体罰容認発言を発してきた橋下市長の事件に対する「怒り」を評価する新聞もありました。

 (1)極めてずさんな対応である。この時、踏み込んだ調査をしていれば、今回の悲劇を防ぐことができた可能性もある。大阪市の橋下徹市長が「教育現場の最悪の大失態だ」と指摘したのは当然だ。(読売

(2)大阪市の橋下徹市長は「教育現場の最悪の大失態だ」と絶句した。その通りだろう。教育としてのスポーツが、ゆがんだ勝利至上主義と間違ったスパルタ指導に結びついていたのなら早急に改めなければならない。(山陰中央

 6.この事件を人権侵害として評価しているのは、驚くべきことに、たった3紙でした

(1)教育の基本である子どもの命や人権を守るという視点が抜け落ちていると言わざるを得ず、憤りを禁じ得ない。(愛媛

(2)体罰は人権侵害そのものであり、学校教育法11条がはっきりと禁止している。強くなるために体罰もやむなしという、ゆがんだ勝利至上主義を排し、学校現場から体罰をなくす。その決意を新たにしたい。(佐賀

(3)学校教育法は殴る蹴るといった体罰を禁止している。どんな理由であれ人権侵害は許されない。指導者をはじめ関係者は体罰一掃に本気で取り組むべきだ。(南日本

(4)暴力で生徒の心に屈服を刻み込んで人間教育と言えるだろうか。教諭も保護者も、社会全体で体罰を許さないことを再確認したい。(京都

 7.体罰を人権侵害と捉える視点が欠落し、程度の問題に矮小化し、正当化している社説もありました。

(1)教員による体罰は学校教育法で禁じられている。ここでいう体罰とは、殴る蹴るなど身体への侵害や、長時間の起立など肉体的苦痛を与える行為を指す。(産経

(2)体罰とは本来、過ちを犯した者に対し、再び過ちを犯すことがないよう、やむを得ず身体的な苦痛を与え、導くことだ。(宮崎日日

 8.この体罰が繰り返されていることを認めつつも、その背景について、軍国主義との関係で掘り下げた論評はわずかでした。

 (1)教育的指導の名の下で行われる体罰は、旧日本軍をほうふつさせるが、過去の話でも、桜宮高に限った話でもない。(東京

 (2)日経 春秋 2013/1/11付

http://www.nikkei.com/article/DGXDZO50492990R10C13A1MM8000/

(3)毎日 余録:「凡そ学校に於いては、生徒に体罰を加うべからず…2013年01月09日 00時42分

http://mainichi.jp/opinion/news/20130109k0000m070091000c.html

 9.体罰を「程度」の問題と捉え、事実上容認する社説もありました。

 (1)いうまでもなく体罰は悪い。厳しい対処は当然だ。それでも、禁じられた行為だと覚悟のうえでふるわれる熱血教師の「愛のムチ」があり得ることも信じたい。ただ今回の(2)ケースは、そうした願望からもあまりに遠い。(産経

顧問の行為は言われているような体罰だったのだろうか。体罰とは本来、過ちを犯した者に対し、再び過ちを犯すことがないよう、やむを得ず身体的な苦痛を与え、導くことだろう。…スポーツの技術的な失敗を理由に殴ったのなら、それは教育的な罰とは異質な暴力と言わざるを得ない。(岐阜

(3)男性顧問は「発奮させるため」と説明している。指導の一環のつもりだったかもしれないが、体罰というには度を越している。暴力以外の何物でもなかろう。教育現場とは対極にある行為のはずだ。(中国

(4)文科省は07年の通知で体罰の禁止を確認したうえで、児童・生徒に「毅然(きぜん)とした指導」を求めなからも、それには子どもとの信頼関係構築が大切であり「子ども一人一人の状況に配慮を尽くしたかどうかが重要」とくぎを刺している。 授業であれ、部活動であれ、事情は基本的に同じであろう。感情に流され、力の行使に頼れば教育とは懸け離れ、子どもとの信頼関係は損なわれてしまう。 体罰は子どもの信頼を奪い、取り返しのつかない事態を招くことさえある。そのことを、教育委員会も学校現場も、あらためて自覚しなければならない。(西日本

(5)部活動の指導者が生徒に気合を入れようと、つい手が出ることはあるかもしれない。だが、自殺に追い詰めるような行為は、明らかに教育の範囲を超えている。(南日本

 10.子どもの意見を尊重すべきという論調もありますが、それが子どもの権利条約、憲法の視点から論じることはありません

 (1)市の通報機関が何ら機能しなかった。危機管理能力の乏しさがうかがい知れる。市教委も学校も、子どもの声に真摯に耳を傾けるという教育の基本を怠った。当事者感覚が欠落していると言わざるを得ない。(中国)

 11.指導のあり方を含めて体罰に対する厳しい対処を述べている社説もあります。

 (1)ポーツ指導現場で、まず努めるべきは指導者の質向上だ。科学的な指導理論の研修とその習得者の養成に力を入れたい。さらに体罰が発覚した場合、指導者資格の即時はく奪や過去の実績を経歴から抹消するぐらいの断固とした体罰排除の姿勢が教育界に求められよう。 指導は相手との信頼関係のもとに人間的成長を促すものでなければなるまい。体罰からはなんの信頼も生まれないことを、指導者すべてがあらためて心に刻みたい。(愛媛

 こうした諸事実から思うことは、

1.日本の新聞のこうした認識が、体罰容認世論を野放しにしてきたことが明らかになりました。

 (1)スポーツ強豪校では特に、成果を出すために体罰が広く行われ、厳しい上下関係の中で「愛のムチ」として見過ごされてきた傾向がある。しかし、こうした体質は根本的に改めなければならない。(毎日

(2)学校現場も市教委も体罰を軽く考え、事態を放置してきたのではないのか。組織防衛や自己保身の意識が先に立ち、穏便に済ませようと意図したのではないのか。 大津市であった中学二年の男子生徒のいじめ自殺の問題で、後ろ向きの対応に終始して批判された中学校や市教委とそっくりの事なかれ主義が透けて見える。 とりわけスポーツの強豪校では、戦績を挙げるために教育的指導の名の下で体罰が黙認される風潮が強いという指摘がある。東京

(3)これは特定の高校で、特定の顧問が起こした特異な問題ととらえるべきではない。小学生が参加するスポーツ少年団で、中学校、高校、さらに大学の部活でも暴力的な指導がまかり通っていることを私たちは知っている。…国内競技連盟にはまだ暴力を否定する倫理規定などを整備していないところがある。(岐阜

(4)だがその認識も、体育系の部活指導となると緩みがちになる。勝つため、強くなるために時として体罰が肯定されてきた一面は否めない。(中国

(5)しかし残念ながら、場合によっては体罰も許されるとの考えが根強く残っているのが実情だ。保護者会に出席した親からは「体罰が全て悪いとは思えない。熱心さが行きすぎた末の悲劇だ」との声も聞かれた。体罰を容認する意識をどう変えていくか。社会に突き付けられた課題である。…大阪市のケースは氷山の一角ともいわれる。徳島県をはじめ全国でも見過ごされている問題はないのか。あらためて調べる必要がある。(徳島

(6)果たしてこの問題は、特殊な例だろうか。文科省の調査によると、11年度に体罰で、懲戒処分や訓告などを受けた教員は404人にも上る。水面下には、もっと多くの事例が潜んでいるだろう。(佐賀

(7)運動部での体罰の横行は、この高校だけの特異な問題ではないようだ。文部科学省の統計によると11年度に全国の公立小中高校などで体罰を理由に処分を受けた教職員は404人。うち110人が何らかの部活動に絡むもので、その大半が「運動部関係と推測される」(同省初等中等教育企画課)という。学校運動部の一部で依然、体罰や暴言などの暴力的指導がまかり通っていることは、これまでも度々指摘されていた。(熊本日日

 2.体罰を徹底的に人権侵害、憲法軽視と意味づけることを怠ってきた自らの視点を棚上げして、説教を垂れているのです。

 (1)体罰を根絶するには社会全体での取り組みが必要だ。教育委員会や教師だけでなく保護者も強い意思を持って対応していかねばならない。(毎日

(2)この高校はバスケットボールの強豪校として全国的に知られている。教諭の指導と存在への周囲の遠慮が、体罰を容認する雰囲気を醸し出していなかったか。これについても徹底的に検証しなければならない。(北海道

(3)文部科学省の調査によると、11年度に体罰で処分を受けた教員は約400人いた。今回ほど重大ではないとしても、広く通じる問題だ。体罰をしない、容認や黙認をしない―という意識をあらためて徹底する必要がある。(信濃毎日

(4)「情熱的な監督」「熱血指導」などとことさら美化し、見て見ぬふりをするなら、日本のスポーツ指導の現場から暴力はなくならない。この悲劇を機会に、指導者による暴力を根絶するうねりが全国で巻き起こってほしい。(岐阜

(5)運動部における体罰は、これまで本県を含め各地で繰り返し起きている。大阪の悲劇を教訓に、潜在化する体罰の問題を掘り起こし、苦しんでいる生徒の救済につなげなければならない。(高知

(6)今回の事件を学校スポーツ界全体の問題として受け止め、関係者には暴力的体質を一掃する明確な対応を望みたい。(熊本日日

(7)県内でも、少年スポーツを含め「体罰」が顕在化しているケースがある。それを黙認する傾向はないか。勝利至上主義を正し、スポーツを健全なものにするためにも、体罰を繰り返す指導者の排除をためらってはならない。(琉球新報

 3.そこで日本の新聞が事件の背景を追求しないのは、何故かを考えてみました。

 その理由は、以下のとおりです。

 (1)戦前の軍国主義を追及していくと、「天皇のために死ぬ」ことを最大の「美徳」「価値」として教育が行われてきたことにならざる得なくなり、それは戦前の政治を推進してきた政友会・民政党・軍部の政治を受け継いだ戦後自民党政治の「総決算」にまで突き進んでいくことになるからです。

 (2)人権問題として捉えようとする社説が少ないのは、日本国憲法を実際の生活のなかで意味づけようとする視点がマスコミに弱いことを示しており、これは、現行憲法に対して「改憲か、護憲か」という偽りの対立構図を描き、事実上憲法の形骸化を容認してきたマスコミと戦後自民党政治の「総決算」にまで突き進んでいくことになるからです。

 以上のようにみてきましたが、憲法の人権と民主主義を擁護し定着させていくべきマスコミが、国民世論を反映して人権思想の視点が極めて弱いことは、実は、日米軍事同盟による基地の弊害を容認する世論、憲法の平和主義の立場から世論をリードしていかなければならないマスコミの責任放棄と重なっていることが判ります。

 学校や地域社会のなかで体罰をなくすことと、日米軍事同盟を廃棄し、日米平和友好条約を締結すること、国際紛争を非軍事・非暴力的手段で解決するとした憲法の平和主義を具体化することは、実は、同じ次元のことであることが判ります。

 以上の視点を踏まえて、国民に説教を垂れるマスコミに肝に銘じてほしいことは、以下の言葉です。

 「そのためにも、体罰の現場を目撃したり、情報を得たりした場合は、臆することなく、声を発していく強い意志を持つ必要がある」(北海道

 理由は、以下のとおりです。

今、安倍自公政権が誕生し、戦前の復活が目論まれていることは周知の事実です。これは日米軍事同盟容認・深化の日本、財界擁護、国民生活無視の政治、憲法形骸化の政治の横行です。こうした諸事実に対して、マスコミがどのような立場に立って、国民に事実を報せていくか、そのことが鋭く問われているのです。

 それでは、今日の時点で、調べた各紙の社説を一覧しておきます。ご参考までに・・・。

全国紙

読売 大阪体罰自殺 教師による犯罪ではないのか(1月11日付)

http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20130110-OYT1T01566.htm

 産経 体罰と自殺 愛情の一片も感じられぬ 2013.1.11 03:23

http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130111/crm13011103250002-n1.htm

 朝日 高2生の自殺―体罰許さぬ教育現場に 2013年1月11日(金)付

http://www.asahi.com/paper/editorial.html?ref=com_gnavi

 毎日 高2生自殺 体罰は絶対許されない 2013年01月10日 02時30分

http://mainichi.jp/opinion/news/20130110k0000m070087000c.html

 東京 バスケ部主将の自殺 学校に体罰はいらない 2013年1月11

http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2013011102000147.html

 

地方紙

北海道新聞 部活の体罰 常態化がなぜ見抜けぬ (1月10日)

http://www.hokkaido-np.co.jp/news/editorial/432632.html

 信濃毎日 高校生自殺 なぜ防げなかったのか 01月11日(金)

http://www.shinmai.co.jp/news/20130111/KT130110ETI090007000.php

 岐阜 部活と体罰 誤った勝利至上主義正せ 2013年 1月10日(木)

http://www.gifu-np.co.jp/column/syasetsu/sya20130110.shtml

 京都 大阪高2自殺  教育に体罰はいらない20130112日掲載]

http://www.kyoto-np.co.jp/info/syasetsu/20130112_3.html

 神戸 先生の体罰/暴力が教育といえるのか 2013/01/10

http://www.kobe-np.co.jp/column/shasetsu/201301/0005658857.shtml

 中国 高2男子「体罰」自殺 なぜ命救えなかったか '13/1/11

http://www.chugoku-np.co.jp/Syasetu/Sh201301110079.html

 山陰中央新報 部活と体罰/暴力では何も解決しない ('13/01/10 )

http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=536644033

 愛媛 高2生自殺 体罰から信頼関係生まれない 2013年01月12日(土)

http://www.ehime-np.co.jp/rensai/shasetsu/ren017201301125756.html

 徳島 大阪高2自殺  体罰を許さない社会に 1月11日付

http://www.topics.or.jp/editorial.html

 高知 【部活の体罰】潜在化する問題にメスを 2013年01月10日08時23分

http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=297545&nwIW=1&nwVt=knd

 宮崎日日 部活動と体罰 2013年01月12日

http://www.the-miyanichi.co.jp/contents/index.php?blogid=5&catid=15

 佐賀 部活と体罰 氷山の一角ではないか 2013年01月12日更新

http://www.saga-s.co.jp/news/ronsetu.0.2378980.article.html

 熊本日日 体罰自殺 運動部の暴力一掃しよう 2013年01月10日
http://kumanichi.com/syasetsu/kiji/20130110001.shtml

 西日本 体罰自殺 指導の「暴走」は許されぬ 2013年1月11日 10:49

http://www.nishinippon.co.jp/nnp/item/342784

 南日本 [部活と体罰] 黙認せず声をあげよう ( 1/11 付 )

http://373news.com/_column/syasetu.php

 琉球新報 体罰で生徒自殺 「虐待」根絶の視点必要だ 2013年1月11日 

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-201249-storytopic-11.html

 

コメント
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繰り返される体罰の温床に成果主義、戦争責任回避と憲法軽視があることを声を大にして言っておかねば!

2013-01-11 | 日記

またしても、あってはならない悲惨で不幸な事件が起こってしまいました。残念でなりません。夢多き子ども、若者が自ら命を絶ってしまうなど、これほど悲しいことはありません。彼の人生には無限の可能性があったはずです。その可能性を自ら絶ってしまったのです。

 こうした悲しい事件を二度と起こさないためには、何をなすべきか!大人と社会の責任が鋭く問われているように思います。

 そこで、この事件に対してマスコミがどんな内容で報道しているか、いくつかを見てみました。大方のマスコミは、大津のいじめと自殺の時もそうでしたが、学校と教師を隠蔽している悪者として扱いバッシングしているように思います。これは「閉塞社会」に不満を募らせている国民からみると、鬱憤晴らしのようにも見えます。

 ましてや、大阪市で起こった事件です。「市長が体罰などについて学校側の対応を直接指揮することを可能にする条例制定の検討を始めた」(産経)などのように、橋下市長のコメントを報道するマスコミをみると、公務員・教員バッシングにはもってこいの「材料」として利用しようとする姿が透けて見えてきます。愛国者の邪論の偏見でしょうか?

 橋下市長の発する一言一言は、問題ありの言葉でちりばめられています。先ほどもテレビで「30発、40発であれば、暴行、犯罪だ」と言っていました。「産経」では「30~40発殴られた」、これが「事実なら傷害、暴行で許されない」と書いてあります。

 「主つくるような人事」橋下市長、顧問の勤続18年を厳しく批判2013.1.10 12:02

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130110/waf13011012040022-n1.htm

 切り取られた発言のみで判断するのは早とちりかもしれませんが、市長の言い方ですと、「一発ぐらいなら許せる」という「体罰容認」論が根底にあるようにも思われます。それは、府知事・市長としておこなってきた政治、すなわち人権と民主主義を尊重しない橋下氏の有り様が見えているからです。

 こうした橋下氏の言動がまかりとおっているのは橋下氏を支持する、また持ち上げるマスコミと国民意識があることです。ここに注目していかねばなりません。

 そこで、こうした悲惨な事件が繰り返されるのは何故か、について述べてみたいと思います。

 その前に、「体罰」事件について、マスコミがどのように報道しているか、見てみました。

懲戒処分:部活指導で体罰、中学教諭を減給処分−−県教委 /兵庫毎日新聞 2012年10月25日 地方版

http://mainichi.jp/area/hyogo/news/20121025ddlk28040520000c.html

 懲戒処分:体罰で王寺工高教諭を停職処分−−県教委 /奈良毎日新聞 2012年10月26日 地方版

http://mainichi.jp/area/nara/news/20121026ddlk29040514000c.html

 体罰:神戸の高校、監督を解任 野球部員に馬乗り毎日新聞 2012年12月14日 大阪朝刊

http://mainichi.jp/area/news/20121214ddn041040009000c.html

 共通しているのは、「体罰」が「暴力」であり、「人権侵害」で、「犯罪」であるとする意識が欠如していることです。今回の事件の直前に起こっている「体罰」事件の報道と今回の「体罰」事件による「自殺」事件報道の違いを観れば明瞭です。

 同時に、学校ではどうみているでしょうか?

教育界においても、「体罰は指導ではない」「法律違反である」とする「お達し」「通達」が文書で、或いは口頭でなされているようですが、タテマエとホンネはものの見事に違っていること、さらに酷いことには、「体罰」事件を起こし処分される教員を配慮する力学が働いて、生徒を護ることは後景に押しやられていること、いわゆる「体罰」の「隠蔽」など、大阪市立桜宮高校の校長の発言に象徴的です。

 橋下市長「どんな学校なのか。最悪」 市教委と学校の対応に怒り2013.1.8 22:50  http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130108/crm13010822560027-n1.htm

 悲劇招く勝利至上主義 「事なかれ」教委、生徒聴取せず2013.1.8 23:55

http://sankei.jp.msn.com/life/news/130108/edc13010823590002-n1.htm

  校長「体罰一掃」誓った夜、バレー部の平手打ち隠蔽2013.1.10 23:18

http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130110/waf13011023260040-n1.htm

 「もうワンチャンスを」体罰隠蔽の校長釈明 記者会見一問一答2013.1.11 01:14

 http://sankei.jp.msn.com/west/west_affairs/news/130111/waf13011101150001-n1.htm

 今、この事件を報道するマスコミの論調を見ていると、「体罰」事件を報告しなかった「隠蔽体質」に目が向けられているように思います。この「隠蔽」は当然問題です。では「隠蔽体質」が解決すれば「体罰」はなくなるのでしょうか?

 違うでしょう。何故ならば、「体罰」に対しては一応「処分」はなされてきましたし、上に掲載したように報道もされてきています。それでも「体罰」は起こっているのです。

 何故「体罰」事件が「隠蔽」されたのか、何故教育界では「体罰」が許されるのか、そこに何があるかを追及していかなければ、単なるバッシング、単なる「体罰事件報道」に終わってしまい、第二、第三の「体罰」事件と自殺事件が起こることは明らかです。

 では、こうした「体罰」を引き起こす要因に何があるか、考えてみました。

 

1.今回の「体罰」事件を起こした顧問の発言に見るように「体罰は教育の一環」という「錯覚」があることです。

(1)「教鞭を取る」という言葉があるように「愛の鞭」です。

(2)軍隊の内務班における新兵教育思想が教育現場だけでなく、日本社会に深く沈殿している。

(3)「身体を美しく」という「躾」論が色濃く残っている。

(4)生徒の親の中にも「悪いことをしたら、少しぐらい殴っても構いません」という「愛の鞭」観がある。

(5)「厳しい指導」と「暴力」が混在している。

 

2.こうした「錯覚」がどのように形成されてきたかを、追及してこなかった日本の社会と教育があることです。どのような残滓が残っているか、主なものを具体的にみると、

 

(1)現在学校教育に色濃く残されている戦前の教育の根本である教育勅語体制が色濃く残っている。安倍内閣の教育基本法改悪はその典型例。

(2)「御真影」礼拝は行事における「日の丸」礼拝、体育館のステージの壁に向かって一同礼=擬似「御真影」礼拝、「君が代」斉唱など。

(3)甲子園の入場行進にみる集団行動、持久力走=耐寒マラソン、体育祭(運動会)における棒倒し、騎馬戦、障碍物競争、万国旗の中心に「日の丸」掲揚など。

(4)日常的に「起立、礼」「朝礼」「気をつけ」「校訓」など、当たり前のように使われ、継承されている。

(5)以上指摘した諸項目の根本思想は、「軍人は忠節を尽すを本分とすべし…死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ」(軍人勅諭)と「軍紀の要素は服従に在り。故に全軍の将兵をして身命を君国に献げ、至誠上長に服従し、其の命令を確守するを以って第二の天性と成さしむるを要す」(歩兵操典)にある。

(6)これが今日、学校教育ばかりか、自衛隊や警察、消防などに継承され、民間会社が社内教育の一環として自衛隊に体験入隊をさせている。

(7)以上の思想と教育が、明治期に始まり、とりわけ大正末期から始まった学校教錬で具体化されていった。それが今日「体操」から転じて成立した「学校体育」「クラブ(部)活動」に「敢闘精神」「精神主義」として継承されている。

 バスケ部顧問“体罰は強い部に必要” 1月11日 18時54分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130111/k10014752191000.html

 

3.以上の思想と内容が、ポツダム宣言受諾、天皇の人間宣言、憲法公布、「教育勅語等の失効確認に関する決議」などの経過を経ながら、天皇の戦争責任回避と逆コースのなかで、憲法の理念を使って戦前を根本的に清算してこなかったことがある。

 

(1)そのことに関連して、教育基本法の理念のサボタージュと形骸化が、憲法のそれと同様に、日本社会や教育のなかで浸透させられていったこと。

(2)特に1947年に始まった国民体育大会における開会式の入場行進と天皇杯・皇后杯に見るように、スポーツを民主主義の訓練の場として、平和文化として位置づけなかった日本の風潮があります。

(3)こうした歴史的背景を受けて、教育界におけるスポーツと体育は、「勝利第一主義」「成果主義」に基づく教育として推進されてきました。この事件は「競争」と「勝利第一主義」を掲げる橋下イズムの結末を見ることができます。

(4)教育界を含めて日本社会の中に潜む「絶対服従精神」である「上意下達」「先輩後輩」を優先する組織の体質が温存されてきたことがあります。

 

4.特に、「1980年には大阪府の公立高校で初めてとなる体育科が併設され」「1982年3月には野球部が第54回選抜高等学校野球大会に出場している」大阪市立桜宮高等学校の歴史は、文部省の推進してきた学校「多様化」路線と「成果主義」路線の典型です。

http://www.ocec.ne.jp/hs/sakuranomiya-hs/

http://ja.wikipedia.org/wiki

 

(1)この「成果」をもって、「進学実績」の「成果」が強調され、生徒集めが行われ、今日に至ったのです。これは甲子園大会に出場するためには、優秀な選手を全国から集めるという風潮と同じです。まさに「文武両道」の成果をあげるためには、公立内の競争はもとより、私学との競争にも打ち勝たねばならないのです。

(2)学校内においては、こうした方向に「成果」をあげた教員が神格化され、尊敬されていくのは当然の成り行きです。「黙認」が横行する根本要因が、ここにあります。

(3)こうして成果をあげた学校に入学させるために、保護者・親も必死になります。少しぐらいの「体罰」は「厳しい指導」として大目に見られるのです。

(4)生徒の中にもレギュラーをはずされない為には、顧問に「服従」するしかなくなります。同じ生徒同士は競争の相手となります。

(5)顧問にしてみれば、勝利のためには生徒を将棋の駒のように扱うのです。「服従」を強要するのは当然です。この方向にそぐわない生徒は「叱咤激励」の「喝」=「体罰」を入れるのです。

(6)タテマエは「体育」「保健」「健康」「スポーツ」教育、「自主的」活動が奨励されていますが、ホンネは「何が本当の自由で、何が本当の個性なのか?本校では、集団の中で生き生きと生きる自分をみつけることができます。厳しい状況にあっても自分を見失わない強い自分、人にやさしくできる自分を発見することができます」という「校訓」に学校の教育目標が示されています。「知性・敬愛・活力」という言葉と実態の乖離、特に「桜高祭」に、戦前の教育が見事に継承されています。

①大日本帝国憲法の「臣民の権利と義務」の関係と日本国憲法の「国民の権利」を比較すると、この校訓がどちらを受け継いでいるか明瞭です。

②この考え方は、安倍自公政権が改悪した新教育基本法と昨年発表した自民党の憲法改悪案と同一線上にあります。

http://law.e-gov.go.jp/htmldata/H18/H18HO120.html

http://www.jimin.jp/activity/colum/116667.html

 (7)「体育」「保健」「健康」「スポーツ」に戦前の教育を継承している「服従」「精神主義」からは人権尊重という「敬愛」は育ちません。そうした集団に創造的な「活力」が望めるでしょうか?

(8)しかし、生徒自身は、「服従」と「自主」「自立」「自律」に悩みながらも実に逞しく生きているのだと思います。そうしたなかで学校と教育、教師に対する精一杯の「抵抗」として、死という選択を余儀なくされた悲惨で、不幸な事件だったように思います。

(9)そうした意味で、こうした教育と社会を何としても変革していかねばなりません。何故ならば、戦前の教育は、天皇のために死ぬことを強要する教育でしたが、戦後は、自分や社会の平和と進歩のために生きることを自主的に選択できる力を培う教育だったからです。教育者が、生徒に生きることではなく、死ぬことを教えていたとしたら、あの戦争の反省は何処へ行ったのでしょうか。

 

5.今こそ憲法を生かした学校と社会の徹底化を!憲法を改悪する時ではない!

 

(1)本来スポーツは、対等平等の下で行われる人間の営みです。ルールも「合意」によって変えていくことができます。その場合は人間の可能性を引き出し開花させるものです。例をあげれば、バスケットボールの3点シュート、9人制バレーから6人制バレー、ビーチバレーへの進化、ラグビー、サッカー、フットサルなど、その多様性は、好例です。スポーツの発展にとって人間尊重、人権と民主主義、憲法の理念は必要不可欠です。

(2)スポーツの発展には、あらゆる学問と科学の成果が不可欠です。栄養学、運動力学(スポーツ科学)、運動靴やユニホーム、各種施設や用具の開発など、あらゆる分野の科学・技術の発展、すなわりスポーツ文化の発展が、それです。今やコンピュータを使った解析で、試合や自分、チームを分析するのは当たり前のことではないでしょうか?ここに「精神主義」を持ち込む余地はありません。むしろ科学的分析力の向上によってファイティングスピリッツは向上していくのではないでしょうか?

(3)子どもの「体力」=「身体的な生活力或いは生存力」(正木健夫『子どもの体力』大月書店)を育てていくためにも、人間力、人間を見る目を養うこと、科学に裏打ちされた「体を健やかに保ち、育てる学問と教育」を徹底化させること、そのためにも人権と民主主義を重視し、科学を活用したスポーツの発展を、学校現場や地域・家庭から育てていく。この視点を踏まえてこそ、国民的スポーツの発展=スポーツの裾野を広げ固めていくになるのではないでしょうか?

(4)スポーツを楽しむためには「余暇時間、技能、費用、仲間、そして精神の解放」の獲得が必要不可欠だという考え方があります(中村俊雄『近代スポーツ批判 新版』三省堂選書)。これらの条件をクリアーするためには、どのようなたたかいが必要でしょうか?こうした側面からみると、長時間過密労働や低賃金、雇用形態など、労働者の人権が保障されなければなりません。ヱスビー食品陸上部は好例です。

(5)学校における部活動顧問である教師の人権はどのように保障されているでしょうか?部活動指導のために人権はないがしろにされていないでしょうか?人間力や技能などを学ぶために、顧問の余暇時間は保障されているでしょうか?そのための費用は学校が保障しているでしょうか?仲間とともに生徒の指導方法や種目の技能や、それらの基礎となる考え方を学び交流する時間は保障されているでしょうか?特に顧問の家族はどのような状況に置かれているでしょうか?顧問も教育労働者です。その人権がどのように省みられているか、そのことも社会は大切に見ていく必要があるように思います。

(6)そして何よりも「子どもの最善の利益」を保障する「子どもの権利条約」を学校や地域に具体化していく大人の営みを、さらに、さらに強めることです。子どもの意見表明権を保障する視点です。これらが学校や教師に徹底化されていたなら、今回のような悲惨な、残念な、不幸なことは起こらなかったのではないでしょうか?!

(7)こうした視点を貫くためにも、教育行政の果たす役割は大きいと言えます。上意下達、責任転嫁という無責任ではなく、「ほうれんそう」運営ではなく、教師の分断ではなく、あくまで生徒と現場目線にたって、教師集団の民主的運営と保護者や地域との連携を醸成していくために最大の力を注ぐべきではないでしょうか?

 桑田真澄さん 体罰は安易な指導1月11日 20時15分

http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/0111.html

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