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迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

勝っても負けても結果は「負」。

2019-01-14 17:06:27 | 浮世見聞記
横浜開港資料館の企画展示「明治の戦争と横浜─伝わる情報、支える地域─」展を見る。


明治新政府によって整備された洋式軍隊は、西南戦争といふ内戦を経て、海の外へと乗り出して行く。

日清戦争後の日露戦争では、一般から徴兵された多くの人が犠牲となったが、それでも今回展示された資料の多くが、意気揚々とした調子に彩られてゐる。

それは、明治ニッポンの経験した戦争はすべて遠い海の向こうの出来事であり、また何よりも、敵に本土を攻撃されなかったからだらう。

この時代の風刺画が、そんな間接的ゆゑに呑気だった世相を伝へてゐる。


しかし、これら資料はすべて、けっきょく“負”の記録に過ぎない、といふことに気が付かなくてはならない。


日清戦争も、日露戦争も、わさわざ海を渡って戦火を交える意味が、はたして本當にあったのだらうか?

近代化したニッポンを西欧列強へ誇示するには、丁度良ゐ機会だったのかもしれないが、しかしその後の迷走が引き起こした戦争悲劇を考へると、やはり無駄な努力だったと思はざるを得ない。


背伸びをすれば、いづれは均衡を失ひ転倒する。


150年前、西洋かぶれに陥ったニッポンが明治天皇を“軍神”に仕立て上げ、徒らに背伸びしてゐた様を、その遺品たちは戦意揚々であればあるほど、私たちにその虚しさを、はっきりと示してゐる。
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