
何の気なしにテレビをつけると、歌舞伎舞踊の「身替座禅」らしきものが映ってゐた。
山蔭右京が、権妻との一夜を本妻にノロケてしまふ、後半部分だ。
振付通り“動く”ことにばかり追われて、この舞踊に求められる肝心の“色気”が全くお留守の舞台に、演者は誰じゃと呆れてゐると、だうやら役者ではなくて、舞踊家らしい。
なれば芝居っ気に乏しいのは致し方なとしても、わざわざ劇場まで足を運んで見るほどのしろもので無いことに、変わりはない。
さう考へると、亡き中村屋や天王寺屋の山蔭右京を当たり前のやうに目にしてゐたその贅沢さを、今さらながら恐ろしく思ふ。
十代目坂東三津五郎が急逝して以来、日本舞踊といふものをまともに観る気が失せて久しいが、その認識に誤りがなかったことを、はしなくもここに再確認する。
山蔭右京が、権妻との一夜を本妻にノロケてしまふ、後半部分だ。
振付通り“動く”ことにばかり追われて、この舞踊に求められる肝心の“色気”が全くお留守の舞台に、演者は誰じゃと呆れてゐると、だうやら役者ではなくて、舞踊家らしい。
なれば芝居っ気に乏しいのは致し方なとしても、わざわざ劇場まで足を運んで見るほどのしろもので無いことに、変わりはない。
さう考へると、亡き中村屋や天王寺屋の山蔭右京を当たり前のやうに目にしてゐたその贅沢さを、今さらながら恐ろしく思ふ。
十代目坂東三津五郎が急逝して以来、日本舞踊といふものをまともに観る気が失せて久しいが、その認識に誤りがなかったことを、はしなくもここに再確認する。