迦陵頻伽──ことだまのこゑ

手猿樂師•嵐悳江が見た浮世を気ままに語る。

場所を選ばぬお仕事。

2018-05-10 20:39:31 | 浮世見聞記
JR相模線には国鉄時代、寒川から西寒川までの約1kmを結ぶ寒川支線が、昭和59年3月31日まで存在してゐた。

もともとは相模鉄道時代の大正11年、相模川の砂利を運ぶために敷設された「四之宮支線」で、第二次大戦後は貨物専用線となってゐたものを、寒川町が住民の“足”を確保するため、昭和19年に路線を買収した国鉄へ旅客営業の再開を要請、終点の西寒川駅舎と駅前広場の整備は町側が負担することを条件に、昭和35年11月15日、復活を果たしたもの。

しかし、利用者の減少などで昭和59年3月31日に支線は廃止、線路跡は地域住民との協議により、「一之宮緑道」として整備され、現在に至る。


その線路跡は過去に訪ねて、『てつみちがゆく──のこす意義』にまとめたが、その往年の寒川支線を写した写真展が神奈川県高座郡寒川町の寒川文書館で開催中とのことで、前回の探訪を補完するつもりで出かけてみる。



現在は緑道に一部だけ遺された線路に、かつて民家すれすれにディーゼルカーが走ってゐたその様子を見て、寒川支線といふものがようやく私のなかで、立体像として認識さるる。

運転最終日の写真には、この期に及んでにわかに有り難がって押し寄せた人々が、普段はガラガラだった──だから廃止の憂き目を見たのだ──ディーゼルカーをすし詰めにしてゐる様が写ってゐる。

それまで見向きもしなかったくせに、軽薄なもんだ、と思ふ。


寒川駅への戻りがけに、本線脇に遺る支線の痕跡を、一見せばやと存じ候。

寒川駅を橋本方面へ出発するとすぐに左に分岐、しばらく本線と併走して、



寒川神社参道にかかる大門踏切手前で、コンクリート製の柵が唯一の面影として示す如く、大きく左にカーブし、



現在は一之宮緑道として整備されてゐる、そちらへと続ひてゐた。

そこから先の様子は、『てつみちがゆく──のこす意義』にまとめた通り。




利用客の減少などで廃止される路線がある一方、利用客の爆発的増加でもはや収拾がつかなくなってゐる首都圏路線の現実と対処を、横浜都市発展記念館の企画展、「伸びる鉄道、広がる道路」展に見る。



首都近郊の沿線にタワーマンションなるものが乱立し、そこに首都圏企業の雇われ人たちが集中移住したため、一編成あたりの車両数が限られてゐる電車は朝夕のラッシュ時にはたちまち輸送量の限界を超へ、大幅な遅延はどの路線もいまや常態化してゐる。


過去にはそれに対処すべく、国鉄は東京から大船間を東海道線と同じ線路を走ってゐた横須賀線を貨物専用線の「品鶴線」へ移行し、それぞれに本数を増やした。

また東京急行電鉄は、横浜駅を経由せずに横浜郊外と東京中心部を結ぶ“画期的”な路線として、田園都市線を開通させた。

それでも、田園都市線がいまや悪名高ひやうに、通勤時間帯の殺人的混雑は緩和されるどころかますます悪化し、そして麻痺に陥る。


“都心へのアクセスも良好”などと謳ひ物件を売り付けることしかアタマになゐ不動産業界こそが、交通機関の大混乱を招ひてゐる張本であり、その罪は重ひと心得るべし。





ヒトが多すぎることに嫌気がさして都会を棄てた人は、正常な精神の持ち主である。


私も、いづれはさうしたゐ。


手猿楽は、

演者の私さへいれば、

いつでも、

どこでも、

披露できるからの。
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