今年は「国技館」が出来て100年だという。「国技館」といっても今の国技館で
はなく、昔、両国の回向院の境内にあったドーム型のものだ。通称、大鉄傘と
もいわれた国技館だが、ここで大相撲を見た日本人も少なくなってきた。旧国
技館は空襲で内部が焼けたが、戦後改装されて進駐軍に「メモリアール」とし
て接収され、解除後は日大講堂だったが昭和47年、解体され今はない。
双葉山の69連勝の時代(昭和11年ー14年)僕は亡父が相撲記者をしていた関
係で旧国技館で大相撲を好く見る機会に恵まれた。記録によれば、旧国技館
の建物の内径は62m、天井の高さは25mとあるが、子供の目にはとても大きく
見えた。内部の周囲には支度部屋の他、飲食店や土産物を売る売店があり、人
ごみを分けて一周するのが大変だった。戦前の本場所は年2回(1月、5月)で、そ
れ以外は花相撲やボクシングなどの催し、菊人形展に使用されたりした。
戦前、この国技館で大相撲が催されたのは昭和19年1月場所までで、戦争の激
化に伴い、建物は軍に工場として接収され、一説には「風船爆弾」を製造していたと
いわれる。このため5月場所と20年1月場所(冬季のため繰り上がって19年11月)
は野外の後楽園球場で行われている。(僕は11月場所を友人と一緒に見ている)
戦前の大相撲と今との違いは土俵だろう。四本柱が撤去されて吊り屋根になった
のは戦後の事。それと打ち出しの時間が今のように夕方6時前後になったのはテレ
ビ放送に併せてからだ。双葉山時代には午後9時打ち出しという日がある。国技館
百年の歴史の中にも色々と変化がある。
はなく、昔、両国の回向院の境内にあったドーム型のものだ。通称、大鉄傘と
もいわれた国技館だが、ここで大相撲を見た日本人も少なくなってきた。旧国
技館は空襲で内部が焼けたが、戦後改装されて進駐軍に「メモリアール」とし
て接収され、解除後は日大講堂だったが昭和47年、解体され今はない。
双葉山の69連勝の時代(昭和11年ー14年)僕は亡父が相撲記者をしていた関
係で旧国技館で大相撲を好く見る機会に恵まれた。記録によれば、旧国技館
の建物の内径は62m、天井の高さは25mとあるが、子供の目にはとても大きく
見えた。内部の周囲には支度部屋の他、飲食店や土産物を売る売店があり、人
ごみを分けて一周するのが大変だった。戦前の本場所は年2回(1月、5月)で、そ
れ以外は花相撲やボクシングなどの催し、菊人形展に使用されたりした。
戦前、この国技館で大相撲が催されたのは昭和19年1月場所までで、戦争の激
化に伴い、建物は軍に工場として接収され、一説には「風船爆弾」を製造していたと
いわれる。このため5月場所と20年1月場所(冬季のため繰り上がって19年11月)
は野外の後楽園球場で行われている。(僕は11月場所を友人と一緒に見ている)
戦前の大相撲と今との違いは土俵だろう。四本柱が撤去されて吊り屋根になった
のは戦後の事。それと打ち出しの時間が今のように夕方6時前後になったのはテレ
ビ放送に併せてからだ。双葉山時代には午後9時打ち出しという日がある。国技館
百年の歴史の中にも色々と変化がある。