インドネシアの名曲「ブンガワン・ソロ」の作詞・作曲・歌手のゲサン・マルトハルノさん
が亡くなった。92歳の高齢であった。日本人の愛好する外国の歌は、ほとんど欧米
生まれが多いのだが、この歌は唯一、東南アジアがルーツで、しかも戦争を介して
半世紀以上にわたって日本人の間で歌い継がれている。
僕はちょっとしたことから、この歌にかかわり、ゲサンとは前後10回以上お会いしてい
る。最初の出会いは1966年(昭和41年)10月、当時勤めていた新聞社の日曜版の特
集記事「世界の歌」の取材の時だった。「ブンガワン・ソロ」は戦後まもなくの1947年、イ
ンドネシアから復員してきた藤山一郎がレコード化し、同時に松田としもラジオで歌い大
ヒット。その後も小林旭、都はるみ、美空ひばりなどもカバーしている。
僕は東京の本社から指令を受けた時「ブンガワン・ソロ」はインドネシアの民謡だと思って
いた。藤山一郎も松田としも民謡として歌っている。ところが、調べてみると、昭和19年
版の「ジャワ年鑑」の現地住民知名人録には「ゲサング(Gesang)26歳、ブンガワンソロ
などの名作曲家「ビンタン・スラバヤ」楽団所属」と記述してあった。もちろん、僕の記事
には、ゲサンを作詞・作曲・歌手として紹介した。
次に僕がゲサンと再会したのは、それから14年も経った1980年1月、北海道の札幌雪祭
の時であった。当時僕は札幌の民放に勤務しており、フジテレビ系の番組「三時のあなた」
の中で、わざわざゲサンをインドネシアから呼び、松田としと一緒に雪祭会場で「ブンガワン・
ソロ」を歌って貰った。(写真は札幌歓迎会場での松田としさんとゲサン氏)
が亡くなった。92歳の高齢であった。日本人の愛好する外国の歌は、ほとんど欧米
生まれが多いのだが、この歌は唯一、東南アジアがルーツで、しかも戦争を介して
半世紀以上にわたって日本人の間で歌い継がれている。
僕はちょっとしたことから、この歌にかかわり、ゲサンとは前後10回以上お会いしてい
る。最初の出会いは1966年(昭和41年)10月、当時勤めていた新聞社の日曜版の特
集記事「世界の歌」の取材の時だった。「ブンガワン・ソロ」は戦後まもなくの1947年、イ
ンドネシアから復員してきた藤山一郎がレコード化し、同時に松田としもラジオで歌い大
ヒット。その後も小林旭、都はるみ、美空ひばりなどもカバーしている。
僕は東京の本社から指令を受けた時「ブンガワン・ソロ」はインドネシアの民謡だと思って
いた。藤山一郎も松田としも民謡として歌っている。ところが、調べてみると、昭和19年
版の「ジャワ年鑑」の現地住民知名人録には「ゲサング(Gesang)26歳、ブンガワンソロ
などの名作曲家「ビンタン・スラバヤ」楽団所属」と記述してあった。もちろん、僕の記事
には、ゲサンを作詞・作曲・歌手として紹介した。
次に僕がゲサンと再会したのは、それから14年も経った1980年1月、北海道の札幌雪祭
の時であった。当時僕は札幌の民放に勤務しており、フジテレビ系の番組「三時のあなた」
の中で、わざわざゲサンをインドネシアから呼び、松田としと一緒に雪祭会場で「ブンガワン・
ソロ」を歌って貰った。(写真は札幌歓迎会場での松田としさんとゲサン氏)