一人姉弟の姉が亡くなって70年になる。昭和19年5月2日、姉は肺結核で21歳の若さでこのを去った。今なら治るものの当時は薬もなく、言ってみれば姉は銃後の戦死だと思っている。姉は国家総動員令もあって高等女学校を出ると、すぐ保険会社に就職したが、若い男性は戦地に送られ、その影響で残業が多く過労から風邪をこじらせ4か月病床に伏しただけであった。
戦前、結核は”死に至る病”と恐れられた。わが家でも姉の結核は周囲には”肋膜”と秘密にした。結核の療法としては堀辰雄の小説「風立ちぬ」のように空気の好い所に転地してサナトリウムで栄養のある食べ物を食べて休養るほかなかった。当時の東京はまだ、空襲こそ激しくなかったが、食料は不足し、風邪薬まで入手が困難の状態であった。そんな状況下、母は何処からかヤミで当時貴重品であったタマゴや鶏肉を求め姉に与えた。僕も毎日、熱さましの氷1貫目(約1キロ)を買いに氷屋へ出かけた。
叔母も19年9月、57歳の若さで亡くなっている。夫に先立たれ、叔母は和裁の教室を開き生活をたてていたが、、二人の息子が徴兵された後、その気苦労からか、風邪をこじらせて不帰の客となってしまった。叔母は正規な医者にかかれず、安い”もぐりの医者”から薬を貰っていた。戦前、東京にはこういった、正規ではないニセ医者が開業していた。
今のような国民医療保険制度が出来たのは戦後のことで、庶民はよほどの事でない限り医者にかからなかった。ちょっとした風邪や腹痛は売薬で済ませていた。また生活保護制度もなく、貧乏人は薬も買えなかった。それにもまして戦時下は食糧が不足し、栄養不良者が多かった。戦争は銃弾だけではない。銃後の庶民の生命まで奪った。
戦前、結核は”死に至る病”と恐れられた。わが家でも姉の結核は周囲には”肋膜”と秘密にした。結核の療法としては堀辰雄の小説「風立ちぬ」のように空気の好い所に転地してサナトリウムで栄養のある食べ物を食べて休養るほかなかった。当時の東京はまだ、空襲こそ激しくなかったが、食料は不足し、風邪薬まで入手が困難の状態であった。そんな状況下、母は何処からかヤミで当時貴重品であったタマゴや鶏肉を求め姉に与えた。僕も毎日、熱さましの氷1貫目(約1キロ)を買いに氷屋へ出かけた。
叔母も19年9月、57歳の若さで亡くなっている。夫に先立たれ、叔母は和裁の教室を開き生活をたてていたが、、二人の息子が徴兵された後、その気苦労からか、風邪をこじらせて不帰の客となってしまった。叔母は正規な医者にかかれず、安い”もぐりの医者”から薬を貰っていた。戦前、東京にはこういった、正規ではないニセ医者が開業していた。
今のような国民医療保険制度が出来たのは戦後のことで、庶民はよほどの事でない限り医者にかからなかった。ちょっとした風邪や腹痛は売薬で済ませていた。また生活保護制度もなく、貧乏人は薬も買えなかった。それにもまして戦時下は食糧が不足し、栄養不良者が多かった。戦争は銃弾だけではない。銃後の庶民の生命まで奪った。