「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

防空壕で母と聞いた敗戦の玉音放送

2016-08-15 05:37:30 | 2012・1・1
71回目の敗戦記念日である。毎年のことながら、この日になると、天皇陛下の敗戦の詔勅(玉音放送)を聞いた日のことを想い出す。当時、僕は中学3年生で勤労動員中だったが、電力不足で工場が休みで家におり、警戒警報の中、母と共に防空壕の中で聞いた。亡父の勤め(大東亜省)の関係で、すでに僕は敗戦を知っており、敗戦のショックはなく、ただ”これで工場へ行かないで済む”といった単純な喜びだけだった。

今、住んでいる家の駐車場の隅に防空壕はあった。縦2m,横1.5m,深さ1.5mほどの小さいもので、両親と僕と3人で掘ったものだ。昭和19年秋、B-29の本土爆撃が本格化して来た前後から、都会では職場でも家庭でも防空壕造りが始まった。僕の学校でも授業の合間に教師の指導で校庭の段差を利用して造られた。今、考えると、爆弾が直接当たれば、いっぺんに壊れてしまうチャチなものであったが、それでも旧友の一人は、学校からの帰宅途中、池上線の桐ケ谷駅(廃駅)付近で空襲にあった際、防空壕に逃避し爆風を逃れ、九死に一生の思いをしている。

わが家の防空壕は親子3人がやっと座って入れるほど小さなものだった。幸い、わが家は5月23日の空襲で近くに焼夷弾の破片が落下した程度で防空壕のお世話にはならなかった。防空壕は敗戦後も暫らくの間、物置代わりに使われていたが、亡父の日記によれば8月30日には早くも取り壊されている。そして,その跡は家庭菜園にとって変わられた。戦争は終わったが、厳しい食糧難の日々であった。今、防空壕跡、家庭菜園であった場所には、観賞用の夏の草花が植えられ、平和を享受している。