日本植民地支配下の1919年(大正8年)3月1日、ソウルで起きた抗日独立運動を記念して韓国では3月1日は「三.一節」という国の祝日だが、今年はその99周年に当たり、ソウルの朴元淳市長が「日本軍慰安婦国際コンフアレンス」を開催、日中両国から関係者を招請した。韓国の中央日報(日本版)によると、この会議で、初めて先の戦争中中国雲南省謄沖で虐殺されたとする、米国公文館所蔵の韓国人慰安婦虐殺モノクロの映像(19秒)が公開されたという。
虐殺があったという謄沖は、日本側の記録では謄越で、ビルマ(ミャンマー)国境に近い町で、1944年(昭和19年)6月から9月まで”援蒋ルート”をめぐって日本軍(第57師団113師団)約千人と米国遠征軍支援による中国国府軍4万人との間に激戦があり多勢無勢、日本軍が弓折れ矢つきて3人を除き、全員玉砕した地である。戦闘についてはウイキぺディア”拉孟、謄越の戦い”に記されているが、謄越城内にいた日本軍将兵は渡された手榴弾で自爆している。
中央日報の電子版には虐殺されて捨てられた場所の写真と生前謄沖(謄越)にいたという慰安婦の写真が載っている。生前の写真は拉猛、謄越の戦闘について、戦後生きの残った人からの聴き取り調査をもとに出版されたた「戦後体験を受け継ぐこと」(遠藤美幸著 高文研 2014)にも掲載されている。ネットの本の紹介に当時、謄越城内には、日本人15人、朝鮮人5人の慰安婦が働いていた。残念ながら、僕は虐殺の映像は見ていないが、全員玉砕命令下で朝鮮人慰安婦だけを虐殺されるというのは、どうみても不自然である。
朴元淳市長は、2000年12月、東京九段会館で開かれた「国際女性戦犯法廷」(模擬裁判)で昭和天皇に有罪判決を下した韓国側の代表である。今回のコンファレンスに日本側から招かれたのは、この時の日本側主催者の流れを組むグループである。2015年の日韓両国の合意で、慰安婦問題は最終的不可逆的な解決を見たが、依然として、韓国は首都の市長が、日本側の資料を調べず、いかがわし虐殺映像を意識的に公開している。僕が知る限り、日本政府が韓国に抗議したかどうか知らないが、徹底的に抗議すべきだ。
(注}(援蒋ルート) 蒋介石の国府軍の兵器は当時のビルマ(ニャンマ―)国境沿いの雲南省経由で持ち込まれるていた。
虐殺があったという謄沖は、日本側の記録では謄越で、ビルマ(ミャンマー)国境に近い町で、1944年(昭和19年)6月から9月まで”援蒋ルート”をめぐって日本軍(第57師団113師団)約千人と米国遠征軍支援による中国国府軍4万人との間に激戦があり多勢無勢、日本軍が弓折れ矢つきて3人を除き、全員玉砕した地である。戦闘についてはウイキぺディア”拉孟、謄越の戦い”に記されているが、謄越城内にいた日本軍将兵は渡された手榴弾で自爆している。
中央日報の電子版には虐殺されて捨てられた場所の写真と生前謄沖(謄越)にいたという慰安婦の写真が載っている。生前の写真は拉猛、謄越の戦闘について、戦後生きの残った人からの聴き取り調査をもとに出版されたた「戦後体験を受け継ぐこと」(遠藤美幸著 高文研 2014)にも掲載されている。ネットの本の紹介に当時、謄越城内には、日本人15人、朝鮮人5人の慰安婦が働いていた。残念ながら、僕は虐殺の映像は見ていないが、全員玉砕命令下で朝鮮人慰安婦だけを虐殺されるというのは、どうみても不自然である。
朴元淳市長は、2000年12月、東京九段会館で開かれた「国際女性戦犯法廷」(模擬裁判)で昭和天皇に有罪判決を下した韓国側の代表である。今回のコンファレンスに日本側から招かれたのは、この時の日本側主催者の流れを組むグループである。2015年の日韓両国の合意で、慰安婦問題は最終的不可逆的な解決を見たが、依然として、韓国は首都の市長が、日本側の資料を調べず、いかがわし虐殺映像を意識的に公開している。僕が知る限り、日本政府が韓国に抗議したかどうか知らないが、徹底的に抗議すべきだ。
(注}(援蒋ルート) 蒋介石の国府軍の兵器は当時のビルマ(ニャンマ―)国境沿いの雲南省経由で持ち込まれるていた。