僕が今住む東京の目黒区の区報で高齢者の孤独死や認知症に対して区民に”気づいてください””あなたの声で守られる”と呼びかけている。その中で例として、一週間ほど新聞が玄関の郵便受にたまっていたら心配です”と写真で注意を引いていた。その通り、新聞を見たら北区の都営アパートの一室で85歳の妻が介護ベッドで、夫が別室の布団の上でなくなっていた。夫婦しての”孤独死”らしく、先月末からの新聞が玄関にたまっていたという。
わが家の東隣りに数年前まで古い木賃のアパートがあったが、孤独死が発見されたのを機会に家主が建て替えた。しかし、建築会社に一切、管理などをまかしているためか住民の姿をほとんん度見たことがない。大型連休には、新聞が一杯受け取り口あふれている、防犯上も危険であるが、手を出すわけにはいかない。
昔、東京には引越しの挨拶として向こう三軒両隣りへ蕎麦を配る習慣があった。〝そば(側)に近づきました”という江戸っ子の洒落から来ていたらしいが、今は出前の制度もなくなりなくなった。この結果、隣に引っ越してきても挨拶までなくなってしまった。幸いわが町は熟成しており、僕が杖をついて散歩すると、同じような高齢の女性が一言声をかえてくれる。区の広報には、認知症の見分け方として、季節はずれの服装を例にあげているが、老妻に言って、せいぜい、服装には注意して貰おう。笑い話ではなく、問題はお互いの社会への温かい気配りだ。
わが家の東隣りに数年前まで古い木賃のアパートがあったが、孤独死が発見されたのを機会に家主が建て替えた。しかし、建築会社に一切、管理などをまかしているためか住民の姿をほとんん度見たことがない。大型連休には、新聞が一杯受け取り口あふれている、防犯上も危険であるが、手を出すわけにはいかない。
昔、東京には引越しの挨拶として向こう三軒両隣りへ蕎麦を配る習慣があった。〝そば(側)に近づきました”という江戸っ子の洒落から来ていたらしいが、今は出前の制度もなくなりなくなった。この結果、隣に引っ越してきても挨拶までなくなってしまった。幸いわが町は熟成しており、僕が杖をついて散歩すると、同じような高齢の女性が一言声をかえてくれる。区の広報には、認知症の見分け方として、季節はずれの服装を例にあげているが、老妻に言って、せいぜい、服装には注意して貰おう。笑い話ではなく、問題はお互いの社会への温かい気配りだ。