「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

米一粒食べられなかった最悪の昭和21年7月の東京

2018-07-15 05:15:25 | 2012・1・1
東京は今、新暦によるお盆の最中である。といっても、昔のような”迎え日””送り火”盆提灯”といった習慣をする家はは減り、檀家へ棚教で訪れる僧侶の姿もあまり見られない。お盆に先祖の墓を詣でる良習さえ減ってきているらしい。東京の住民といっても、最近は地方からの転入者が多く、故郷の習慣に従って8月の旧暦のお盆をする家庭が増えてきたのも一因らしい。わが家でも中元の挨拶をかねて浅草のお寺へお墓参りに出かけたが、家庭でのお盆の行事は一切しなくなった。

僕の遠くなった昔の記憶によれば、東京の夏は7月21日から始まる学校の夏休みからで、その前は”夏”ではなかった。お盆の頃、30℃を超す日はなく、今年のような暑さの記憶はなかったが、亡父の昭和21年7月の日記によると、13日(土)34.8℃、14日(日)35.2℃=新記録とあまりった。当時はエアコンなどなく、扇風機さえある家は少なかった。日射病はあったが、熱中症という言葉はなかった。

酷暑の中一般庶民の生活はどうだったのか。参考までに亡父の7月日記「後遺」の一部を紹介してみる。「7月の食糧危機もアメリカの厚意による小麦粉や缶詰でどうやら切り抜け得た。実際、この月、我々が口にした三度三度の食事はアメリカのお救い米で、内地のものは一粒もない。もし、アメリカから何もくれなかったなら、私たちはことごとく餓死をまぬかれなかった、と考えると、慄然たるものがる」

横浜新港ターミナル近くに昭和天皇のおきさきだった香淳皇后のお歌を刻んだ碑がある。「あたたかき外つ国人の心づくしゆめな忘れぞ時は経ぬとも」
まだ子供であったが、大変な時代を経験してきた。