札幌での足掛け10年、筆者一家は三角山(311m)の麓の西区山の手一条に一軒家を借りて住んでいた。朝晩山を眺めながらの生活は東京生まれ生活の僕にとっては珍しく快適であった。しかし、年のうち半分近くは「冬」の札幌で一軒家暮らしの僕にとっては厳しすぎた。何年かは雪景色も楽しかったが、慣れると屋根の雪下ろし、玄関前の雪かきにネを上げてしまった。
しかし、札幌在勤中(1971年ー81年)わが家が東京を離れていたのは幸いであった、環七の大気公害で小児喘息であった子供が健康になり、学校の必修科目であったスキーの授業のため三角山へ出かけたり,当時あった荒井山へジャンプ台に遊びに行ったりした。信州生まれの老妻も雪の中の生活もさほど苦ではないようだった。
山の手の家から琴似駅までは歩いテ30分ほどで途中、琴似神社の境内には明治の初め開拓使時代内地(本州)から入植した屯田兵の家屋が復元されてあった。地下鉄の東西線はまだ琴似までしか開通してなかった。JR琴似駅は高架になったばかりで、遠く手稲の四季折々の景色の変化が遠望できた。
手稲は札幌市民の近間のスキー場として賑わい、夏は遊園地となり、ゴルフもできる。近くには朝里温泉もあり日帰り入浴を楽しんだおともあった。
しかし、札幌在勤中(1971年ー81年)わが家が東京を離れていたのは幸いであった、環七の大気公害で小児喘息であった子供が健康になり、学校の必修科目であったスキーの授業のため三角山へ出かけたり,当時あった荒井山へジャンプ台に遊びに行ったりした。信州生まれの老妻も雪の中の生活もさほど苦ではないようだった。
山の手の家から琴似駅までは歩いテ30分ほどで途中、琴似神社の境内には明治の初め開拓使時代内地(本州)から入植した屯田兵の家屋が復元されてあった。地下鉄の東西線はまだ琴似までしか開通してなかった。JR琴似駅は高架になったばかりで、遠く手稲の四季折々の景色の変化が遠望できた。
手稲は札幌市民の近間のスキー場として賑わい、夏は遊園地となり、ゴルフもできる。近くには朝里温泉もあり日帰り入浴を楽しんだおともあった。