「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

外国人研修生の逃亡と犯罪

2006-10-21 06:04:20 | Weblog
外国人研修現場で10年ちょっと仕事をしたことがある。この経験を踏
まえていえば、わが国に研修事業は”開発途上”、極言すれば名前だけ、
これでは問題が多発するのは当たり前だ。

厚生労働省が 外国人研修技能制度の見直しを検討しているという。この
制度は国内の人手不足解消のため1993年に設けられ、毎年8万人前後
の研修生が中国などから来日している。ところが、ここ数年研修生の企業
先からの”逃亡”が続出、これが犯罪の温床化している、と指摘する声が
ある。事実、外国人犯罪はうなぎ登りに増えてきている。

もともと入管法では、収入を目的とした外国人の入国は認めていない。あく
まで技能修得が目的である。研修生募集のパンフレットの中には”日本の先
端技術修得”をうたい文句にしたものもある。しかし、実際は建設現場の力
仕事もある。一方、企業側は最初から低賃金で外国人を雇用したいのが本音
だから、その間に大きなギャップがある。

問題なのは最初1年間の”実務研修”である。日本の基準では極端に低い賃
金で、研修とは名のみの仕事に従事させる。宿泊設備も食事もよくない。日
本に慣れてくると、周囲には非合法滞在や日系の同国人が自分より高い賃金
で働いている。これが”逃亡”の原因のようだが、中には最初から研修制度を
悪用してきている者もいる。

FTA交渉の結果、フィリッピン女性に限り介護分野の仕事が解放される。介護
士の仕事が過酷な割りに低賃金なため辞める者が増えている。この”代替”
としてフィリッピン女性に依存するわけだが、介護は生命に直結する仕事であ
る。食品加工とか建設現場とは違う。監督の厚労省はくれぐれも問題が起きな
いよう配慮して欲しい。

痴呆症か 認知症か

2006-10-20 05:15:44 | Weblog
痴呆症と認知症とがどう違うのか解らなかった。そろそろボケの始まり
かなと調べたら、なんのことはない、同じだった。行政の”言葉狩り”で
痴呆を認知に言い換えたにすぎない。いま一つ言葉の意味は解らないが、
痴呆りは認知のほうが老人への耳ざわりはよい。

きのうのテレビで「認知症の本人会議」が近く開かれると報じていた。
認知症の患者が会議を持つのなら解るが、痴呆症の患者だけの会議となる
と、果たして大丈夫なのか心配になる。言葉とはおかしなものだ。

認知症患者は現在全国で120万人おり、将来は240万に増え、80歳以上
の老人の9人に1人は認知患者になるという。あと数年で僕もこの年齢域に
入る。せいぜいボケ防止に好いというブログ書きに専念しよう。

むかし子供だった頃、母方の祖母が認知症だった。悪だった従弟が祖母を
だまし、お祭りの小遣いを何回もせしめていた。しかし当時祖母は大家族
に暖かく見守られ幸せだった。徘徊してもすぐに発見され保護された。

テレビの報道では若年性の認知症患者が増えているという。病気のことは
よく解らないが、どうも昔の痴呆症と今の認知症とは違うのではないのかー。
複雑な周囲の環境に影響された現代病に思えてならないがー。


コンビニ弁当とサラリーマンの昼食

2006-10-19 05:58:08 | Weblog
家の近くに「○○食堂」という昔ながらの名の店がある。これまで入った
ことがなかったが、先日名古屋から訪ねてきた友人の紹介で一緒に昼飯
を食べた。友人の大學時代の学友が経営している店だという。本通りから
ちょっと入った場所にありながら,店はお客で一杯だった。

「○○食堂」という名前だが店内は若者風の雰囲気で清潔、横文字の店
名にしてもおかしくはない。驚いたのはメニューの多さ。壁にその名がず
らりと張られている。定番の肉ジャガ、キンキラごぼう、里芋の煮物、目玉
焼、オムレツ、季節の焼き魚、煮魚、野菜サラダなどなど、その種類は50
いくつ。果たしてお客の注文に応じられるのかと心配するぐらいだ。

ファースト・フード店やコンビニ弁当に押されて都心のサラリーマンの昼食
は様変わりしてきた。昼食時、弁当をビニール袋に入れて職場に急ぐサラ
リーマンの姿は都会の風物詩化してきた。都心では狭い店が多く、高いので
take outの弁当を買い、ゆっくりと職場で食べるのだろう。

栄養だとかカロリーなどいう資格のない僕だが、take outの弁当はみるから
に油こく栄養的に片寄りがあるみたいだ。もし都心にも「○○食堂」的な店
があれば、流行ることは確実だ。家の近くの「○○食堂」は50代の主人と
84歳のお母さん二人で店をやっている。調理は主人がしているが、アイデ
ィは”お袋の味。一品一品とれば栄養的にも片寄りがない。値段もリーゾナ
ブルであった。

「ヨイトマケの歌」と「新聞少年」

2006-10-18 06:14:53 | Weblog
昨夜NHKの歌番組「愛と絆 家族を思う」の中で”よいとまけの歌”と
”新聞少年”を放送した。二つとも日本が貧しかった頃の歌である。
なぜ貧しさが”愛と絆”なのかいま一つ判らないが、多分NHKの若い編
成マンは、貧しかった頃には家族に愛の絆があったが、今は豊かな時
代なのにそれがなくなったことを訴えたかったのだろう。

# 父ちゃんのためなら エンヤコラ
  母ちゃんのためなら エンヤコラ
  もう一つおまけに  エンヤコラ (三輪明宏 作詞作曲)
のよいとまけの掛け声で始まるこの歌は戦前戦後の日本が貧しさを
見事に歌い上げている。僕が子供だった昭和10年代、東京の町の
あちこちで、かすりのもんぺをはいたおばちゃんが,地ならしの丸太の
まわりに輪となって、この掛け声をかけて綱を引いていた。 

昭和20年代、30年台の「新聞少年」には、同じ貧しさでも僕には
多少”ゆとり”が感じられる。これに対して”よいとまけ”には切実
な貧困への悲しみがある。九州の石炭博物館で見た半裸に近い姿の
女性採炭夫を描いた絵はすさまじい。北海道の苫小牧に”よいとまけ”
というお菓子がある。戦前製紙工場の木場で働いていた”よいとまけ”
からネーミングしたものだという。お菓子の名前になるほど昔は貧困
は当たり前だったのである。百年前の日本の姿である。その時代にも
貧しさからくる色々な問題はあったはづである。しかし、NHKが訴え
たかった家族の絆は今より強かったのは確かだ。

変な従軍世代の老害 たれ流し

2006-10-17 06:10:00 | Weblog
昨夕、ニューギニア関係のある会合に出た。まだ現地に残る遺骨収集に
献身しているNPOである。僕は請われて9月28日のブログで書いた厚労省
の慰霊碑問題に対する無知無礼な態度を中心に10分ほど話をした。この
NPOの支持者の中に特定の政党支持の方々がいるのをあらかじめ知ってい
たので、極力政治問題にはふれなかった。

案の定、僕のあとに発言した83歳の元軍人(自称船舶士官学校教官)で
戦後高校の教員をしていた男は、天皇の戦争責任から始まって、自分の関係
している毒ガス部隊の裁判の話、フィリッピンの”従軍慰安婦”問題、はて
はキューバの共産主義礼賛などなど、ニューギニアにも遺骨収集にも関係の
ない話をとうとうと始めた。まさに老害である。僕は中座して帰った。

かって僕が知り合った高教組の幹部だった男もそうである。この男と同様、
自分が最大の戦争被害者だと思っている。この世代は”従軍慰安婦”なる
言葉があの時代にはなかったことを知っているくせにわざわざ、これを使用
して日本軍を必要以上に悪者にする。高教組の幹部氏は夜間高校の教師
時代、朝鮮人民共和国礼賛を生徒に話をしていた、と自分でいっていが、10年
ほど前,自身、北朝鮮を訪れ初めて現実を知ったようである。

僕自身も70代の後半に入り、そろそろ老害を感じることがある。いわんや
80代の超老人は、己を知り老害をたれながすべきではない。このような
教師が日本の教育を破壊してきたのだ。

幾山河 御殿場線の旅

2006-10-16 18:50:16 | Weblog
きのう僕らは国府津からわざわざ御殿場線経由で沼津へ行った。85年前の
両親の沼津での生活を追想,追体験したかったからだ。丹那トンネルが出来
るまで東海道線はこのルートを走っていた。発想はよかった。山北駅をすぎ
ると日本一の富士の秀峰が目の前に迫ってきた。これまで見たこともない立
派な大きい富士だった。

若山牧水の歌碑祭・芝酒盛りは、この富士を借景に千本浜の松原で催された。
牧水を偲ぶ市民たちの舞踊、詩吟、コーラス、市内中学校の優秀表彰のあと
亡父の遺品、牧水直筆の扇子(15日ブログ)が僕ら夫婦から牧水博物館の
林茂樹理事長に贈呈された。

芝酒盛りは変わった趣向である。松林の中に筵を敷き、集まった市民たちが
地酒を飲み交わす。酒を愛好した牧水ならではの祭りである。僕らもこの輪
に加わり,焼鳥、おでんを食べながら85年前の牧水と亡父との交遊を偲んだ。
よく晴れた秋空、秋というより夏を思わせる日和だった。

歌碑は牧水の体型みたいな大きな自然石で幾山河の歌が刻まれていた。
# 幾山河こえさりゆかば寂しさの
  はてなむ国ぞけふも旅ゆく。
良き時代の良き歌人が良き地で詠んだ歌である。

牧水の亡父への別離の歌を記念館に寄贈

2006-10-15 06:05:18 | Weblog
# わが友を見送るけふのわかれの空を
  いざ酌めな別かれゆかぬと

上の歌は大正10年、亡父が勤めていた新聞社の沼津通信部から東京
本社へ転勤のとき、その送別会の席上、若山牧水が父に贈ってくれた
ものだ。白地の扇子に達筆な筆で書かれている。先日父の遺品を整理
して見つけたものだ。

きょう沼津の牧水ゆかりの千本浜で「碑前祭」が催されるが、僕ら夫婦
もこれに出席、この扇子と送別会のさい撮った父と牧水が一緒の集合
写真を牧水記念館に贈呈する。85年ぶりの”故郷”帰りである。

亡父は大正9年8月31日の天長節から翌10年2月11日の紀元節まで
沼津にいた。たった6か月の勤務だったが、残されたものによると
父はこよなく沼津を愛し仕事も充実していたようだ。残念ながら直接
牧水との交遊については記されていない。が、生前父は僕に「牧水は
駅弁で酒を呑むのが好きだった」と語っていた。父がどんな席で駅弁
を肴に酒を呑み何を語ったのだろうかー。

父は当時37歳、晩婚だったためまだ子供はなく玉突屋(ビリヤード)
の二階に母と妻(つまり僕の祖母と母)と下宿していた。牧水は父より
一歳下の36歳。二人は早稲田大学の同窓だったから多分、酒席では
学生だったころの話も出たことだろう。

いずれにせ牧水が父に贈ってくれた扇子は、父が愛した沼津のしかも
牧水記念館に収めることが出来幸せである。

日ハム・ファイターズの優勝と道経済の破綻

2006-10-14 06:06:37 | Weblog
北海道日本ハム・ファイターズが札幌に拠点を移して3年目で優勝した。
日ハムとしては1981年以来25年目のパ・リーグ優勝だそうだ。北海道未
来総研の推定では、この優勝で205億円の効果を道経済にもたらした。
これは「雪まつり」や「YOSAKOIそうらん祭り」なみだという。

北海道の経済は、このところ夕張市の財政破綻で象徴されるように暗い。
もう何年もこのような状態が続いている。遠くは苫東開発の見込み違い、
「世界食の祭典」の失敗、拓銀の思わぬ破産、雪印の食中毒事件などな
ど・・・。悪化に歯止めが停まらない。
経済指標がこれを裏づけている。道の総人口は昭和60年以来ほとんど横
ばい、平成10年をピークに減少し始めてきた。道民所得も前年所得を下ま
わり、道民総生産もマイナス成長、失業率も本州に比べて高い。

僕は昭和45年からあしかけ10年、札幌の民間会社に勤務した。札幌五輪
で町が大きく変わった頃である。地下鉄ができ、地下街が生れ,すすきの
の繁華街が大繁盛していた当時だ。この時ですら北海道経済の構造的な
欠陥は識者によって指摘されていた。その欠陥は今でも同じである。公
的需要への依存度が強すぎるのである。開拓使時代からの伝統なのであろ
うかー。気候を含む地理的条件が悪いというが、ヨーロッパと諸条件はさ
してかわらない。

お祭りもよいが,もっと北の大地に根を張った政策と道民意識”島国の中
の島国根性”の改革が必要とみるがー。



鉄道九師団は残酷ではなかった

2006-10-13 07:33:55 | Weblog
映画「戦場にかける橋」で”悪名”高い鉄道第九師団の兵隊だったM氏か
ら久しぶりに手紙を頂いた。鉄道第九師団は泰麺鉄道建設に際し連合
軍捕虜や現地人数万人を残酷に扱い死に至らせしめた部隊として映画では
描かれている。これに対してM氏らは終始、自分たちは残酷ではなかった
と訴え続けている。

「私共の大隊(500人)の戦友会も数年前に解散,聯隊(2,500人)の
戦友会に入れて頂き、毎年靖国神社に参拝して参りましたが、その戦
友会も今年は31名、しかも純粋鉄道員は私を含めて15名、残りは聯
隊長のお孫さんやビルマの病院の看護婦さんでした」

ことし米寿のM氏の文面には寂しさが滲んでいる。僕は泰麺鉄道の現場
は知らないが、M氏らが二度のご奉公をしたスマトラ横断鉄道の南瞑の
ジャングルは何度か行っている。泰麺現場はもっと劣悪な環境であった
という。捕虜たちの大半は食糧不足からマラリアやコレラなどの伝染病
で倒れ亡くなっていった。意識的に日本兵が彼らを残虐に取り扱ったわけ
ではない。

戦争とは非常なものだ。戦後の連合軍軍事裁判で泰麺鉄道関係者だけで
35名が刑死されている。M氏の手紙は続く。
「小生の入隊時の教官が戦後戦犯となり捕虜虐待のカドで絞首刑になった
ものですから、彼の無念を思い愚直にも毎年靖国社前に頭を垂れて冥福を
祈っています」



海の駅 道の駅

2006-10-12 06:11:30 | Weblog
町内会の親睦旅行できのう房総へ日帰り旅行に行った。バスで東京湾
横断道路を通り、千葉県内の有料道路を乗り継いでホテルで温泉に入
りグルメ料理を食べて帰るーという忙しい旅だった。参加者の大半は主に
老人ばかり35人、町の多少の補助もあって一人¥5,000の参加費。自分
の家の近くから行けるのでいつも好評だ。

朝7時の出発だったので渋滞もなく1時間足らずで「海ほたる」に着い
てしまった。平日で朝早いこともあって駐車場はガラガラ。展望台から
の眺めは最高だった。来年で10年を迎えるという横断道路はたしかに京
葉間の交通を便利にした。が、料金が高いので利用者が少なく、経済効
果はいま一つだと聞く。夕刻、トイレ休憩で再び「海ほたる」へ立ち寄った
が土産店は閑古鳥が鳴いていた。

恥ずかしながら、今回の旅で初めて僕は「道の駅」の存在をを知った。
全国にすでに840か所もあるというのに。地域社会の活性化とドラ
イバーの休養、安全運転のために国土交通省の肝いりで設置された施
設だという。参加の奥さんたちの希望で帰途「道の駅」で買物をした。
僕もカボチャ、大根のうろ抜き,人参、ジャガイモ、枝豆を買った。 
〆て¥810。どれも現地でとれた新鮮なものばかり。もちろん老妻からは
最高のお土産だと誉められた。