「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

戦犯容疑者の”ノスタルジア”旅行

2006-10-11 04:55:28 | Weblog
メダン(スマトラ)のインドネシア人の友人から現地の新聞「Analisa」が
届いた。一面に大きく「元日本兵N・I 氏のノスタルジア旅行」とある。
N・I氏は僕の20年以上にわたる畏友である。大正9年生れ、86歳。N・I氏夫
妻は先月2週間のインドネシア旅行から帰国した。

N・Y氏は近衛第2師団(第25軍)の大尉で終戦時北スマトラの連合軍民間
人抑留所の所長をしていた。当時の状況から彼は戦犯容疑者として即時逮
捕されメダンのスカムリヤ刑務所に入れられた。未決のまま1年収容されて
いたが、突如オランダ人抑留者たちの嘆願書によって釈放された。N.Y氏の
戦時中の抑留者への取扱いがやさしく人間的だったというのが嘆願書の理由
だった。N・Y氏は規則違反の一人を除いて抑留者を殴ったことがなかった。

N・Y氏は刑務所の1年を除いてほとんどメダンを知らない。ノスタルジアを感
じない。旅行の目的は郊外の日本人墓地参拝である。ここには彼の上司であっ
た田辺盛武・第25軍司令官ほか戦後の連合軍メダン法廷で刑死された25人の
慰霊碑がある。N・Y氏も間違えば同じ運命であったかもしれない。

(田辺盛武・中将遺書)
「あな嬉し慈光遍く身にあれば 仰ぐ彼岸は清くかかりけり」



介護のお世話か ,ラジオ体操か。

2006-10-10 07:11:15 | Weblog
「体育の日」が”ハッピー・マンディ”(10月第2月曜日)に変わってから
雨の日が多くなったが、昨日は見事な秋晴れだった。”晴れ”の特異日
といわれた”体育の日”の面目躍如の日であった。
この日も僕ら老夫婦は近くの早朝ラジオ体操に参加した。最高齢は元海
軍軍医だった91歳のお医者さん、参加者のほとんどが60歳を越えた老
人ばかり。みな年間費ひとり1千円を支払っての参加である。

区役所から介護保険の通知が届いた。夫婦二人で月14,360円、このほか国
民健保が同じく月13,600円、夫婦合わせて月27,900円である。夫婦とも幸い
介護保険のお世話になっていない。老妻にいたっては健康保険さえ使用して
いない。僕が高血圧で月1,500円ほど支払っているだけである。わずかな年
金をあてに生活している僕らにとってこの額は大きな負担である。

多分ラジオ体操参加者も僕らと同じだろう。介護保険のお世話になっている
人はいなそうだ。治療より予防である。年に1,000円支払えば介護保険料など
払う必要はない。健康な老人には保険料割引制度を設けてはどうか。しかし、
社会保障はおたがいの相互扶助で成り立っている。僕はすでにリタイヤーして
15年、多分支払った年金の元は"取り返し"している。黙って介護保険を支払っ
ている。

おめでとう 大岡山小学校 4年連続優勝

2006-10-09 06:04:32 | Weblog
隣の学区の大岡山小学校(東京)が全国学校音楽コンクール(NHK)で
合唱一位に選ばれた。平成15年以来これで連続4回目の優勝である。
"前人未到”の偉業である。本当におめでとう。

大岡山小学校は一学年3クラス,全校生徒数600人足らずという東京では
ごく平均的な学校だ。学区内のほとんどが住宅地だが校門前には環状7
号の国道が走っていて騒音がはげしい。けっして静かな環境とはいえない。
これが何か優勝と関係あるのだろうかー。

60年以上も昔だが、わが母校も昭和16年ー17年連続2年東京の吹
奏楽団コンクールで優勝した。戦争が激化しなければ、この記録はもっ
と延びたかもしれない。国民学校(小学校)の音楽が”ドレミ”ではなくて
”ハ二ホ”で教えていた時代であった。僕らの学校も町のまん中にあって
静かな環境の中ではなかった。

大岡山小学校もそうだが、生徒の努力もさることながら、やはり指導者の
力だと思う。わが母校の”ガマ先生”(口が大きくガマに似ていた 失礼)は
とにかく熱心だった。お蔭で僕らは曲りなりにも音符が読める。同世代に
しては珍しい。当時クラリオネットを吹いていた学友は、今でも六本木の
ライブハウスで活躍している。

毎年桜のころの同期会ではいつも”ガマ先生”が話題になり感謝している。

戦友会と仲良しコーラス

2006-10-08 05:41:40 | Weblog
昨夜インドネシア関係の集まりに出た。この種の会に出てからもう20年
近くになるが、まったくメンバーも雰囲気も一新された。かっては会場にイ
ンドネシアの国旗を挟んで日の丸と軍艦旗が飾られ、会の運営も軍隊調
だった。「友好団体」という名前でも実態は戦友会であった。

幾星霜、従軍世代も歳を重ね一番若い人でも80歳。当然のことだが昨夜
の会でもそれらしき人はわずか数人、指導権は戦後仕事でインドネシアへ
渡った”企業戦士”の手に移った。余興は現地で覚えた歌の数々の披露。
男性のコーラス、女性のコーラスとも見事だった。昔はいさましい軍歌を歌
っただけだったがー。

日イの経済関係がここに来て曲がり角に来ている。投資環境が東南アの
他国に比べて厳しく、労働力もかってに比べて魅力がなくなった。それに
何よりも日本人自身がこの国にそれほど愛情を持たなくなった。従軍
世代は戦争中インドネシア人とは"兄弟”だったという意識が強く、特別な
愛情を持っていた。ところが今の企業人にはそれがない。ソロバンだけで
儲からなければ撤退する。在留邦人の数は減ってきている。

駐日インドネシア大使がここ半年ほど不在のままだ。とっくにわが国からの
アグレマンは出ているのだが、いまだに赴任してこない。大使不在でも問題
がないのだから結構な話だが、再来年は両国の外交関係樹立50年,両国関係
は中国の巨大な傘の下、曲がり角にきていると思うのだがー。

警察官の規律のたるみと制服

2006-10-07 06:02:09 | Weblog
このところ警察官の不祥事が目につく。テレビ報道によると、昨年25件
だった警察官の飲酒運転が今年はすでに26件、なかには交通安全週
間中に交通取締担当の警察官が捕まっているケースもある。いったいど
うなっているのだろうかー。このほか窃盗、万引き、収賄などなど・・・。
彼らは法の番人なのである。同じ万引きでもNHKの放送局長の場合と
は違う。

警察官になにか規律のたるみがあるのではないか。そこで提案したい。
捜査とか特別勤務上必要でないかぎり、警察官は制服を着用したら
どうだろうかー。警察署のまえに私服で警棒を持っている警察官を見か
けるが何かしまらない。警察署の警備が目的ならきちんと制服を着用
すべきである。出来れば出退勤時にも制服を着たらどうかー。まさか制
服を着て飲酒運転はしないだろうし市民を殴ったりはすまい。

僕ら昭和一桁世代には制服アレルギーがある。戦争中の国防色の軍服
からくるものである。たしか自衛隊も初期の頃は街中でも制服を着ていた
記憶があるがいつか廃止された。昔、駆け出し記者のころ警察官には私
服(刑事)への憧れがあると聞いたことがある。今はそんなことはないだ
ろうがー。

問題は警察官の自覚である。私服では自覚がもてなければ、警察庁長
官以下全員制服を着用すべきである。




大東亜戦争下のロンボク島

2006-10-06 06:21:25 | Weblog
バリ島の東隣にあるロンボク島が最近観光地として脚光を浴びてきた。
バリに比べて自然が残っており料金も安いので、日本からも大勢ダイ
バーやサーファーたちが押しかけている。

きのう、そのロンボク島について未知の35歳の女性から手紙を貰った。
内容は大亜戦争下の同島での出来事である。(1)日本軍はどこに降り
たのか(2)なぜ住民を殺したのか(3)3年間の日本軍政は300年のオラ
ンダ統治よりひどかったのかー要旨、以上の三点だった。この女性は1年
間ジャカルタに滞在、ちょくちょくロンボクへ遊びに行ったことがあるという。


さっそく返事を書いた。(1)日本軍の落下傘部隊はロンボクには降りて
いない。降下したのはメナド、パレンバン、クーパンの3か所だけ。ロン
ボクへは昭和17年5月9日、東海岸のラブハン.ハジ付近から上陸、住民の
ササク族は日の丸を手に歓迎した。日本軍の隊長は「軍服ではなくタキシ
ードで来べきだった」と冗談を言っている(2)戦後のBC級裁判記録をみる
限りロンボク島では住民虐殺はない(3)残念ながら戦争の激化で海上が
封鎖されたため物資の運搬がストップ、住民に困窮生活を強いた。


戦後60年を経過すると、お互いに昔のことがわからなくなる。とくにイン
ドネシア人は噂や飛語が好きだ。ロンボクだけでなく、尾びれのついた
この種の話が多い。要注意。

ガンの告知を受けたら・・・・・

2006-10-05 07:22:01 | Weblog
僕は自分を”晴れ男”と思っている。何故か旅行したり、何かイベント
を企画すると、必ずその日は晴れるのである。科学的にはなんら根拠
のないことだが、老妻までが「あなたは”晴れ男”だから」という。僕も
いつか自分自身にそう言い聞かせている。

その”晴れ男”が6年前、膀胱ガンを言い渡され入院した。摘出された患
部は長さ1・5cmもあった。モニター写真でみると、まるでピンク色した
キャンデイのようにも見えた。手術の痛さの中でも、自分は患部さえ摘出
すれば治るのだと自身を暗示にかけた。”晴れ男”の性格は物事をいつも
前向きに好い方向へと考える。ガン即、死という考えはなかった。

一昨日、古い友人が電話で胃がんで入院すると言ってきた。声には元気が
なく、この世の別れのようであった。彼は僕が膀胱ガンで入院したことを
知らなかった。僕はつとめて明るい声で”ガンなって今や病気ではないよ”
と激励した。悩んだって治るわけではない。先日ラジオの深夜放送で”ス
トレスからガンになる”と聞いたばかりだった。

今から50年前の記録によると、米国の医師の90%は患者にガンを告知しな
かったという。それだけ当時はガンは不治の病であり死に至る病であった。
最近はどうだろうかー。僕の周囲にもガンを告知され、手術を受けた友人
知人がかなりいる。”病は気から”と昔からいわれてきた。ガンを告知されて
も深刻になることはない。”晴れ男”はそう信じている。

頑張れ、美しい国の子供たち

2006-10-04 06:18:01 | Weblog
天高くまではゆかなかったが、秋空の下、区立中学校連合体育大会が昨日
近くの駒沢競技場であった。中三の孫が出場するので、運動をかねて自転車
で応援に出かけた。今年で60回を数える大会会場は応援の生徒,”父兄”で
ほぼ満員だった。”父兄”といっても実際は、元気で綺麗なお母さんたちだっ
たが、僕もその中に混じって一人静かに応援した。

昭和20年10月いっぱい、中三だった僕らは、第一京浜国道脇の焼跡整理に動
員され、食糧難で腹ペコの身体で大きなシャベルをふるっていた。皆、痩せこ
けていた。これに対して昨日、トラックを走る当時の僕らと同年代の子供たちは
健康そのもの、元気にあふれていた。なにより体格がちがう。昭和一桁世代では
大きい1m72cmの僕より大きい子供を沢山見かけた。僕の孫もその一人だが。


僕らが焼跡整理に動員されていた頃、母親たちは僕らを食べさせるため一生懸命
であった。当時の日記をみると、僕の母親は週に二度も手製のリュックをかつぎ
買出しに出かけていた。一方、昨日スタンドで子供たちに応援を送っていたお母
さんたちは身体こそ当時の母親に較べてスリムだが、それは食糧難によるもので
はない。大会を運営する先生方、これを手伝う生徒たちも一生懸命。スタンドの
応援も個性にあふれ、愛校心にあふれていた。
僕は美しい国の将来を見た。頑張れ子供たち!









学校給食 身勝手は許されない

2006-10-03 06:00:59 | Weblog
産経新聞によると、家計にゆとりがあるのに給食費を払わない保護者が
増えているという。僕はこれを読んで一瞬、給食費を払えなくなった貧困
家庭が増えてきた、貧富の格差がこんなところにも現れてきたのかと錯
覚した。ところが、そうではないのである。

僕らが育った戦前には学校給食などなかった。弁当を持って登校したが、
クラスの二割は持参せず昼休みに子供言葉で”食べ”といって家に食べ
に帰った。僕らの区域には三業地(芸者街)があり、夜の商売の家庭が
多かったせいかもしれない。なんとなく”食べ”の級友たちの顔は皆と一
緒に弁当が食べられず寂しそうだった。

戦後の学校給食のお蔭だろう。日本の子供たちの栄養状態は改善され、
体格は急速によくなった。戦前はクラスに一人や二人栄養不良からか
いつも鼻から”青っ洟”をたらしたり、手足にデキもののある子供がいた
ものだ。いまのように全員"お利口さん”顔、健康優良児ではなかった。

余裕があるのに何故給食費を払わないのか、僕にはわからない。本当に
困っている保護者には公費で負担すべきだが、そうではない身勝手な保
護者には”強権”を発動してでも取り上げるべきである。なにより子供
が可哀そうだ。むかし教室で弁当を共に出来なかった級友たちの顔が目に
浮かぶ。給食制度は日本の誇る財産である。身勝手は許されない。

近くてまだまだ遠い 韓国

2006-10-02 06:22:56 | Weblog
まだ僕は韓国とアメリカは行ったことがない。特に理由はない。韓国の場
合は近いし、何時でも行けるぐらいがしいて言えば理由だ。子供の時から
近所に半島人(当時そう呼ばれていた)は住んでいたし、中学、大學にも
学友がいた。だからこの国については関心があり、30年ほど前、本格的に
勉強したいと思いハングルのテキストを買ったが三日坊主で終った。

おととい、友人の主宰する団体から呉善花・拓大教授の講演会の案内状が
届いたので出席した。彼女は韓国生れ日本籍の学者で「攘夷の韓国 開国
日本」など多数の"日本びいき”の著書があり、韓国では”新・親日派」として
テレビなどで非難されているそうだ。僕はこのことを講演会にきて初めて知った
が演題の「朝鮮半島からみた母系文化社会の日本」はなかなか面白かった。
”かかあ天下”に”亭主関白”の喩えを引用して日本の家庭は韓国に較べて
妻の地位が夫より高いと聴衆をくすぐった。

僕が韓国をまだまだ遠い国と感じたのは,講演後の質疑で聴衆の一人が韓国
MBC・テレビが今年の光復節(独立記念日)の際放送した呉善花・教授批判
特番について質問、これに対しての彼女の答えであった。MBCの取材クルーが
無断で大學構内にまで入り込み、彼女を隠し撮りしたという。事実とすれば
忌々しき問題である。1960年代の大學紛争を想い出す。警官の学内侵入が
あの紛争の引き金になった。大學当局はこのことを知っているのだろうか。
韓流ブームで日韓親善は歓迎されているが、このような反面もある。まだまだ
遠い国である。