「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         年賀状を出す人が減ってきている

2012-12-22 07:15:09 | Weblog
加齢とともに毎年出す年賀状の数が減ってきている。現役の頃は仕事上の関係者を含めて200枚以上出していたが、年金生活20年になると、次第に減り今年は130枚ほどだ。年々、亡くなられる友人、知人が多くなる他、相手側から”今年限りで年賀を欠礼させてくれ”という願いが結構多い。

東京の文具メーカー、パイロットが年賀状について調査した結果が新聞に載っていたが、これによると僕ら年寄りだけでなく若い層も年賀状出す人が減少してきて来年年賀状を出す予定がの人は79.7%に過ぎないという。5人に1人は年賀状を出さないということだ。複数あげられたその理由のうち、最も多いのは「準備が面倒」が42%、ついで「相手側の住所が判らない」36.6%そして「メール.ソーシアル.メディアで代行する」が31.7%であった。

現役の時は仕事が忙しく「準備が面倒だ」なのはよくわかるが「相手側の住所が判らない」といのは僕ら年寄りには理解できない。僕は特に住所録は持たないが、毎年頂戴した年賀状で住所録の代行にしているから相手の住所が判らないことはない。しかし、今の若い世代は手紙や葉書を出す機会はほとんどなく、電子メールで交際しているようだから「住所が判らない」こともあるのだろう。

年賀状というと”お年玉つき”が今は定番だが、これも今の人にはあまり魅力なくなってきたのかもしれない。この制度が始まった戦後すぐの昭和20年代には、賞品のミシン、純毛服地、野球のグローブが魅力的だったが、現在のノートパソコン、海外旅行ではそれほど魅力的ではない。それより一番下の切手セットですらめったに当たらない。しかし、年賀の習慣がこんな理由から無くなるとすれば残念である。西欧のキリスト教国ではクリスマス.カードの習慣は続けられているし、イスラム国でも断食明けのお祝いカードの交換も続けられている。

             日本統治時代の”半島人”

2012-12-21 07:13:55 | Weblog
戦前双葉山全盛時代に突っ張りが得意だった大邱山(たいきゅざん)という人気力士がいた。岡山県出身なのだが、子供の時父親の仕事の関係で朝鮮半島の大邱(てぐ)にいたことから、これをしこ名にしていた。今回韓国の次期大統領に選ばれた朴槿恵(ぱくくね)が大邱出身だということを知り、大邱山の相撲ぶりが懐かしく、同時に僕の周囲にいた半島出身の人たちのことが想い出された。

僕が子供だった戦前昭和の頃、わが家の近くに朝鮮人一家が廃品回収の仕事をしていた。学校が違うので一緒に遊んだことはなかったが、女性たちがカラーフルな民族衣装をつけていたことを覚えている。旧制中学にも朝鮮人(当時半島人と呼ばれていた]のクラスメートがいたが、僕の記憶では、半島人だからといって差別はなかったし”いじめ”などしたことはなかった。李明博(いみょんばく)大統領一家も戦前、朝鮮半島から渡来し今の大阪市の平野区の牧場で働いていたそうだが、全国に半島出身者が散らばって住んでいた。

朴槿恵次期大統領の父、朴正煕元大統領は大邱近くの寒村の農家の出で貧しく、上級学校への授業料が支払えなかったが、学校の成績がよく授業料が無料の大邱師範学校に進学、そのあと自分の意思で満州の軍官学校に入り、そのあと昭和19年には東京の陸軍士官学校を卒業している。後年、朴正煕元大統領は当時をふりかえり、日本統治時代は、すべてが悪かったわけではない、と回想しているという(日韓禁断の歴史)。

朴槿恵次期大統領にとって、日韓関係の修正は重大な課題の一つだ。20日の記者会見で次期大統領は日本を名指しではなかったが”正しい歴史認識を持って和解と協力を拡大するよう努力する”と述べている。全くその通りである。自民党の安倍総裁は、額賀福志郎元財務相を特使として韓国に派遣するそうだが、未来志向にたって、こじれた両国関係の修復は重要である。そのためには正しい歴史認識が必要である。

          膀胱ガンと糖尿治療薬との因果関係

2012-12-20 07:10:27 | Weblog
昨日、国立医療センターで3か月に1度の内視鏡(膀胱鏡)の検査を受けたが再発はなかった。僕は過去に3度、膀胱ガンにかかり入院手術を受けている。最初は10年以上も前の2000年12月、次は3年前の2010年1月と6月の2回だ。以来,抗ガン剤を患部に注入、内視鏡の検査を受けているが幸い再発はない。

2010年の2回の再発について僕は医学については素人だが、糖尿治療薬「アクトス」の影響だと思っている。再発の前年、僕は血糖値が高くなり、医者の指示で「アクトス」の服用を始めた。その前の10年間は全く再発がなかったのに「アクトス」を飲み始めた途端にである。

2011年、僕はNHKのラジオで「アクトス」がフランスでは疫学検査から膀胱ガンに影響があることが判明、発売禁止になっていることを知った。フランスだけでなくドイツも米国も同じように禁止されていることを後で知った。かかりつけの近所の医者は、このことを知っていなかったので、相談したところ即刻中止してくれた。

ネットで調べると厚生労働省はその後、膀胱ガン治療中の患者に対して「アクトス」の投与を禁止し、使用上の注意を開業医に通達したようだが発売は中止していない。米国では「アクトス」服用をめぐって訴訟まで起きているそうだ。僕は毛頭そんな気持ちはないが、僕と同じようなケースが多いに違いない。製薬会社は、ただ儲けるだけでなく、きちんとした検査をした上で発売する社会的義務がある。


            「朝日」の国益損ねる”靖国”質問

2012-12-19 07:02:42 | Weblog
一昨日(17日)自民党が選挙で大勝した後を受けての安倍晋三総裁の記者会見をテレビで見たが、不愉快だったのは朝日新聞の記者が、質問に立って開口一番、首相に就任したら靖国神社を参拝するかと聞いてきたことだ。僕と一緒にテレビを見ていた老妻まで”またか”と顔をしかめた。朝日新聞は、過去において「従軍慰安婦」や「靖国」問題で誤報や偏向報道して国益を損ねてきた。それでも、まだ懲りないなのだろうかー。

もともと中国や韓国は日本の総理の靖国神社参拝について公式な批判はしてこなかった。戦後吉田茂首相に始まって中曽根康弘首相まで歴代の総理が58回も参拝していたのに、一度も公式的な批判はなかった。これが外交問題になったのは昭和60年8月7日、朝日新聞が”中国、日本的愛国心を問題視”という記事を書き、中国の反日感情を煽ってからの事だ。このため中曽根首相は、この年15日の終戦の日の靖国参拝を中止してしまった。

安倍総裁は朝日の記者の質問に対して直接回答を避け”国のため命を奉げた英霊への尊崇の念は、どこの国のリーダーでも当然だ。これは外交問題問題に発展する性格のものではない”と答えていた。安倍総裁は昨年、前回の総理時代、一回も靖国神社に参拝できなかったのは遺憾だ。今度総理に帰り咲けば参拝する意味の事を産経新聞記者に語っていた。朝日の記者はこれを問題視しようというあさましい魂胆なのだろう。

安倍総裁は今年春の靖国神社の大祭に参拝している。おそらく総理に就任しても8月15日の終戦念記念日の参拝は避け、春秋の例大祭に参拝することになろう。僕はそれでよいと思っている。安倍総裁が国の指導者として英霊への尊崇の念をもって参拝すれば十分である。他国がこれに対して文句をいったり批判する筋合いのものではない。

        「日本の未来の党」の未来と”小沢時代”の閉幕

2012-12-18 08:07:38 | Weblog
”卒原発”を掲げてにわかに旗揚げした「日本の未来の党」は、改選前の62議席から一挙に9議席に激減した。結党に際、ばたばたと乗り込んできた小沢一郎氏率いる「生活が第一」は見るも哀れである。小沢氏は辛うじて当選したものの金城湯池の岩手県でさえ比例代表で一人が当選しただけである。かって民主党の幹事長時代、一族郎党を引き連れて北京詣でをした小沢氏の権勢は何処へやらである。”小沢時代”の閉幕である。

「日本の未来の党」の当選した議員の顔ぶれを見て驚いた。多士済々といえば恰好はよいが、小沢一郎、亀井静香両氏とかっての自民党の重鎮から、社民党の政調会長だった阿部知子氏まで名を連ねている。一方、選挙前党の副代表だった山田正彦氏(元農林大臣)や「生活が第一」の山岡賢治代表代行や東祥三幹事長も落選している。小沢氏と一緒に民主党を抜けた、いわゆる”小沢ガールズ”や一年生議員は全滅だ。南関東比例区や東海比例区では「日本の未来」党の前職が10名も落選している。

「日本の未来の党」は未来はどうなのか?他人事ながら心配だ。政治の素人の僕がみても亀井静香氏と阿部知子氏ではあまりにも政策が違いすぎる。同じ地盤に立って政策調整ができるのだろうか?「日本の未来の党」の代表は嘉田由紀子滋賀県知事だが、選挙の敗北の責任をとって辞任する考えはないのだろうか?”一兵卒”宣言をしている小沢一郎氏は、これから何をしてゆく考えなのか。もう政界のトラブルメーカーでは困る。第一もうその力はない。政治家としての最後の着地点を誤ったのだろう。

          老人の怒りも一役買った民主党の惨敗

2012-12-17 08:08:12 | Weblog
「自公300の勢い」の事前の新聞各紙の予想通り、自公が320議席を獲得、地すべり的勝利を収めた。一方民主党は予想の80議席どころか60議席を割る惨敗だ。2009年の政権交代時のマニフェストをほとんど実施せず、経済政策、外交政策などすべての面で国民を裏切れば、当然の結果である。僕も昨日、反民主党の票を一票投じてきた。

投票日の昨日、東京は好天気に恵まれ絶好の投票日和であったが、新聞を見ると投票率は前回、前々回を下回り61.66 %にすぎない。80老の僕は午前9時すぎ、杖をつきつき約1キロの道を歩いて投票したが投票所はまばらで、自分が杖をついているせいか、やたらに同じような杖つき老人の姿だけが目についた。新聞には今回の民主党の敗北は、民主党への失望票だと書いていたが、僕の反民主党へ一票は”怒り”の一票である。

2009年の選挙のマニフェストの一つに民主党は「後期高齢者医療制度」の即時撤廃を掲げていた。選挙前だったが、当時の民主党の鳩山由紀夫幹事長は”おばあちゃんの原宿”の巣鴨で街頭演説して”この制度は現代版姥捨て山だ”撤廃を約束した。恐らく、この約束を信じ込み前回の選挙で民主党へ投票した年寄りも多かったはずである。ところが、3年余り経っても「後期高齢者医療制度」は、そのままである。それどころか社会制度改革の中で、老人への福祉への風は厳しい。

少子高齢化の中で現行の「後期高齢者医療制度」は、財政的な面からも撤廃が難しいことは当時でも素人の僕でさえ解っていた。それを”子供だまし”ならぬ”年寄りだまし”のマニフェストで老人をだましたのだ。一般の投票率は低かったが、年寄りの投票率は高かったのではないだろうか。老人の怒りが民主党の大敗北に一役買っていると僕は思っている。

           戦時中のインドネシアでの日本酒造り

2012-12-16 10:31:32 | Weblog
昨日「スッラウェシ研究会」主催の会合で、戦時中セレベス島で南部杜氏が日本酒造りをしていた話を聞いた。講師は映像企画演出家の松田健明さんで、膨大の資料から戦時中、岩手県石鳥谷町(現在花巻市)の杜氏5人がセレベス島で日本酒造りをしていたことを調べ上げた。銘柄は「南の光」(別名「うなばら」)といい、これを飲んだ人の手記もある。しかし、残念ながら70年の歳月の経過で、南部の杜氏たちがどんな身分で、だれの指示でセレベスに渡り、どこで醸造していたかなどの詳細についてはわかっていない。

昨日の会合には海軍民政府の軍属としてマカッサルで酒保(軍の食堂)関係の仕事をしていた粟竹章二さん(86)も出席して当時の貴重な体験を証言してくれたが、現地製の合成酒を飲んだことはあるが、お米から醸造した「南の光」は飲んだことはないし、杜氏がいたことも知らなかったという。粟竹さんは戦争末期の昭和19年にセレベスに渡り、当時若かったから「南の光」を飲まなかったのかもしれないが、食糧の流通部門にいた人だから不思議だ。でもいずれにしても70年も前の話だ。今となっては調べるのも難しい。

日本のインドネシアでの軍政は3年余にわたり、地上戦のなかったジャワ、スマトラは軍人間で「天国」と羨まれられていただけに、軍務の間をみて飲酒する機会も多かったようだ。10年ほど前、北スマトラのトバ湖の近くシドロ.ボロンという町に戦争中、第25軍直轄の「酒工場」の跡が残っており訪ねたことがあった。多分、マカッサルにも多分、よく調べれば「南の光」の酒蔵の跡もみつかるかもしれない。

先年、製紙関係者と一緒に戦時下日本の製紙会社がスマトラに建てた工場跡を訪ねたことがあったが、当時の煙突や礎石が残っていて感激したものだ。南部の杜氏とマカッサル、映像化するにはよいテーマである。

         あるインドネシア大好き元兵士の葬儀

2012-12-15 07:28:44 | Weblog
知り合いの埼玉県伝統工芸士(草加本染め浴衣)の押田勝次さんが92歳の天寿をまっとうして他界された。昨日僕は葬儀に列席したが、式場は各方面から贈られた生け花で飾られ、最後の別れを告げる人が後を絶たなかった。最近、葬儀は家族葬という形で簡素化されているが、出来るのなら、こういった盛大なご葬儀で故人をお送りしたいものだ。改めて生前の押田さんの暖かい人徳が偲ばれた。

式場の一角には故人の生前の写真が展示されていた。中央には押田さんの軍刀を手にした近衛歩兵四連隊(近歩四)時代の写真が飾れれていた。押田さんは戦時中、近歩の兵士としてスマトラ(インドネシア)に従軍、インド洋のアンダマン諸島の上陸作戦では、敵の銃弾が背中にあたり4か月の重傷を負った。しかし、その後もアチェのジャングルの中で敗戦まで防衛の軍務についた。

押田さんはインドネシアが大好きだった。戦後、何回もスマトラを中心にインドネシアを旅行している。式場の写真展示場にもその時の写真が沢山あった。僕は10数年前、インドネシアの軍政について調査していた時、押田さんと知り合った。ある時、押田さんに”なぜ、そんなにインドネシアが好きなのか”とぶしつけに尋ねたら”戦時中ジャングルの中で歯痛に苦しんでいた時、住民が一晩中看病してくれた心の温かさだ”ということだった。押田さんは戦後復員の際”ジャングルで使った”火打ち石”を記念として持ち帰った。

2000年頃、インドネシアから戦後同地に残留した旧日本兵の二世、三世が仕事を求めて大挙して来日したが、押田さんは、職のない彼らを親類の染工場に世話をし、親身になって世話をした。ご高齢のため、昨日の葬儀には苦労を共にした近歩四の戦友の参列者は一人もいなかったが、代わって僕は戦友の分を含めて合掌した。こうした先人たちの隠れた苦労も次の世代に伝えたいものだ。

               亡父と牧水そして沼津

2012-12-14 06:11:06 | Weblog
沼津市の若山牧水記念館から会報が届き、12月24日まで特別企画展「牧水と沼津」(千本松、富士山そして)が開かれている旨ご案内をいただいた。大正、昭和を代表する歌人、若山牧水は大正9年(1920年)から亡くなる昭和3年まで8年間、沼津に住み数々の歌を残している。実は僕の亡父も仕事で半年間だったが、沼津に住み牧水と酒を酌みかわした仲であった。

亡父は大正9年8月から翌10年2月まで東京の新聞社の通信員として沼津に居住した。その間、沼津に移り住んできた牧水と酒友だったようで、亡父の送別会の時の集合写真と共に牧水が扇子に自筆した歌「わが友を見送るけふの別れの酒いざいざ酌めな別れゆかぬと」が長らくわが家の家宝のように保存されていた。亡父は短い滞在だったが牧水と同じように沼津をこよなく愛した一人であった。残した雑文には”沼津は明るい町だった。人情も誠によく滞在半年間他郷にいるような気がしなかった”と書いている。

平成18年、僕は亡父がこれほど愛した沼津であり、恐らく牧水の歌も多分酒席での即興の歌だろうと思い、牧水研究の一助になればと牧水記念館に贈呈した。牧水記念館会報(38号)に”は、研究者の須永秀生さんが、これを紹介してくださっているが、当時牧水は赤貧だったらしく”居すくみて家内しづけし一銭の銭なくてけふ幾日経にけむ”ほどだった。

亡父が生前僕に語ったところによれば、牧水は駅弁で酒を飲むのが好きで、いつも記者クラブにきては皆と一緒に杯をかわしていたという。酒席としては、これが一番安上がりである。それでも”一銭の銭もなく幾日”の牧水にとっては負担だったに違いない。残念ながら亡父が牧水と何を語ったか残っていないのは残念だ。