「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

              75年前、南京が陥落した頃

2012-12-13 06:55:51 | Weblog
支那事変で南京が陥落したのは昭和12年12月13日である。75年前のことだが、いまでは南京攻略戦よりは”大虐殺”だけが独り歩きして戦闘は忘れかけてきている。当時子供だった僕でさえ、日本軍が苦闘のすえ勝利した日の喜びと感激を覚えている。南京攻略戦は支那事変のヤマ場であり、その去就は国民的関心事であった。亡父の当時の日記にも”南京城に肉薄”(6日)”蒋介石脱出”(7日)”南京城まだ落ちず”(8日)”南昌大空襲”(9日)”投降勧告に応ぜず、総攻撃、脇坂部隊光華門一番乗り、大日章旗翻る”(10日)と連日戦況が記されている。陥落が大本営から発表になった翌14日、東京では昼は旗行列、夜は提灯行列が盛大に催された。僕も旗行列に参加したことを覚えている。

南京攻略戦は大激戦であった。一番乗りを果たした脇坂部隊(福井県鯖江)だけでも257人が戦死、546人の負傷者が出ている。その激戦の模様は後日”脇坂部隊の歌”(中山正男作詞、小関祐而作曲)となり、陸海軍軍楽隊の礼式歌に指定されている。その最終章を紹介しよう。
              ♯ 負いて怯まぬ敵勢は 弾薬尽きて石を投ぐ
                城門死守の夜は明けて 世紀の朝の日章旗
                一番乗りの岸隊(脇坂部隊)の誉れと共にはためきぬ

敵味方あいまじえての戦闘だったが、今はこの戦いよりは、日本軍による”大虐殺”が中国側の一方的な喧伝により知られている。専門家の研究により、この”大虐殺”が虚妄であることは次第に明らかにされているが、僅か1か月の間に日本軍が20万人を殺し、2万人もの女性を強姦できるのだろうか。あまりにも馬鹿げている。お互いに国のために戦った兵士の名誉のためにも虚妄は撤回されるべきである。

      インド洋での”太平洋戦争”で戦った先輩の死

2012-12-12 06:52:57 | Weblog
昭和16年12月12日の亡父の日記の欄外に赤字で「今次対英米戦と支那事変を含めて大東亜戦争と呼ぶことになる」とある。当然だが僕らは戦時中「大東亜戦争」と呼び「太平洋戦争」などと言ったことはない。宣戦布告の大詔が下った12月8日を喚起するため、毎月8日は「大詔奉戴日」とし、学校や職場では国旗を掲揚し、君が代を歌う儀式があった。

その大東亜戦争をインド洋の孤島、アンダマン、ニコバルで戦って背中に貫通銃創を負った先輩のOさん(91)が昨日亡くなった旨ご遺族から通知があった。アンダマン、ニコバルはインド洋上にある孤島だが、作戦上の要衝で、Oさんは昭和17年3月、近衛歩兵4連隊の兵士として小舟に乗り、上陸作戦に参加したが、不幸にも敵の銃撃に会い海上に投げだされ負傷した。

戦後、僕はOさんの紹介で、近衛歩兵4連隊(近歩四)の戦友会にオブザーバーとして参加したが、戦友会にはOさんのほかにもシンガポール上陸作戦で右足を失ったKさんもいた。近歩四はマレー上陸作戦では近衛師団の一翼を担い、シンガポール上陸作戦にも参加、ついでアンダマン、ニコバル作戦にも従軍していた。

「大東亜戦争」という呼称は戦後いつの間にか、アメリカにならって「太平洋戦争」となってしまった。しかし、戦争はアンダマン、ニコバルだけでなく、緒戦時にはインド洋上での海軍空母から飛び立った戦闘機が、英国領であったセイロン(スリランカ)の首都コロンボを白昼空爆している。戦後変な風習で「大東亜戦争」というと、戦争を美化する特別な人間視されるが、事実関係だけでも「太平洋戦争」と呼ぶのは間違っていておかしい。

               選挙まで一週間切ったがー

2012-12-11 06:48:22 | Weblog
16日の総選挙まで一週間切ったが、外出機会の減った老人には一向に選挙への盛り上りが伝わってこない。たまに買い物に駅前商店街へ出かけても小さい駅前では立会い演説会もなく、候補者の名前を連呼する車が走ってゆくだけだ。自分の選挙区から誰が立候補しているのかさえ、はっきりわからない。昔は「選挙公報」が早く配達されたような気がするが、わが家にはまだ届かない。今年は前回に比べて事前投票率が低いと伝えられるが、選挙への関心が上滑りしているのではないだろうかー。

選挙活動はラジオ、テレビが中心なのであろうか。しかし、自分の選挙区の候補がいつ政見放送するのか判らない。たまたまスイッチを入れて当たればみるが、他の選挙区ならば消してしまう。何か事前にわかる方法はないのだろうかー。今のラジオ、テレビによる政見放送は昭和43年、当時参院議員だった青島幸男氏(故人)の佐藤栄作首相への提案で実施されたそうだが、それからすでに43年も経っている。選挙管理委員会も、そろそろ有権者に対する投票事前PRについて改善する時期にきているように思うのだが。

インターネットがこれだけ普及したのだから、ネットによる政見発表もあってもと思ったが、内容が改竄される恐れがあるので選挙施行法によって禁止されているという。「選挙公報」は、選挙施行法で投票2日前までに宅配されることになっているそうだが、事前投票をPRするなら、もっと早く有権者に配るべきではないだろうか。

今朝の「産経新聞」には”自公300議席超す勢い、民主激減80割れも”とFNNとの合同世論調査の結果が載っていた。僕個人は大歓迎の予想だが、逆の立場の人もいる。マスコミは「産経」に限らず軽軽と事前予想すべきではないと思うのだが。

               自由が丘の無人スタンド

2012-12-10 15:42:18 | Weblog

久しぶりに自由が丘(東京)の無人スタンドをのぞいた。農家の軒先の無人スタンドには季節の野菜が並んでいる。早速お目当ての大振りの小松菜100円、太めの大根200円、白蕪一束150円を買った。もっと買いたかったのだが、自転車の荷台に載りきれないのでやめた。本当はここで売っている柚子は、湯豆腐の添え物にすると美味しいのだが残念だ。東京でも幹線通りからちょっと入ると、まだ自然が残っていて、こんな無人スタンドがある。金一升、土一升の土地で出来た”高価”な野菜である。

              昔はあったお歳暮周りの習慣

2012-12-10 06:50:42 | Weblog
昨日の日曜日、年賀状の印刷が出来たとの知らせでスーパーへ受け取りに出かけたついでにお歳暮コーナーをのぞいてみた。公務員のボーナス前なのか、それとも選挙が影響しているのか売り場は閑散としていた。現役を引退して20余年、お歳暮にはすっかり縁がなくなってしまったが、売り場に並ぶサンプルを見るだけで、今の人たちに何が好まれているのか、その傾向が判り勉強になる。

お歳暮とうと今は、贈り物そのものを指すようだが、昔はお歳暮周りという言葉があるように、年の瀬にあたってその年お世話になった人に直接出向いてお礼を言い贈り物を差し出す習慣のことを言った。戦前昭和の10年代の頃、子供だった僕は暮れになると、母親に連れられてお歳暮周りした記憶がある。残念ながら贈り物の中身は覚えていないが、風呂敷包みだったから、そんなに大きなものでも重いものではなかったと思う。wikepediaによると、お歳暮周りは暮れの13日から20日まで、新年を迎えるにあたって、それに合うような品々を贈ったとある。

お歳暮もすっかり様変わりした。今はデパートやスーパーへ行き品物を選び注文すれば自動的に配達してくれる。クール便という便利な制度もあって生鮮食料品さえ贈ることができる。30年以上前の話だが、テレビ局(民間放送)に勤めていた頃、外部の関係者からお歳暮の頃になると色々贈り物があったが、だいたい画一的なものが多く、老妻の話では当時頂戴したタオルがまだ屋根裏にあるという。

お歳暮も昔のように個人的にお世話になった人へのお礼というより企業同士の暮れの習慣の色彩が強くなってきたのだろう。亡き母が空っ風に吹かれながら、暮れの東京の街を風呂敷包みを抱えながらお歳暮周りをした姿が何か懐かしく想い出された。こういったお歳暮周りとか新年の挨拶といった伝統的な習慣は今や日本の社会から消えてしまった。

             母校の攻玉社 開校150年

2012-12-09 07:19:17 | Weblog
母校の攻玉社が来年開校150年を迎える。その記念として昨日立派なカレンダーが届いた。母校は文久3年(1963年)蘭学者近藤真琴によって東京四谷に蘭学塾として開校された。校名のいわれは「他山之石 可以攻玉」(たざんのいし もってたまをみがくべし)からきている。攻玉社は明治の時代に入って芝の新銭座(今の芝浦)に移り海軍兵学校の予備校として知られるようになった。

僕は戦中の昭和18年4月旧制中学に入学、戦後の23年卒業しているが、当時の応援歌「大洋の水」の一節には”竹芝の浦に生ひしより、歴史は古き80年”とあったが、あれから70年経ち、今は”歴史は古き150年”と言い換えて歌っているのだろう。戦時中の事もあって、僕らは歴史の古いこともさることながら、先輩に軍神広瀬中佐や佐久間艇長をはじめ海軍の提督がキラ星のようにいることを誇りにしていた。

毎朝朝礼では校訓七か条の「尊王愛国」「恭譲敬愛」「清廉潔白」「至誠一貫」「質実剛健」「反省謝恩」「勤勉努力」をあまり意味も解らずに大声で唱えたりしたが、海軍予備校の伝統なのか、勤労動員中を除いて英語の時間はあった。学校によっては英語は敵語だとして禁止されていたようだが攻玉社では戦時向けの教科書だったがきちんとあった。

母校は今進学校として有名になっている。僕らの時代には陸軍幼年学校や士官学校、海軍兵学校に進学する者が多かったが、今は難関の国立大学や医大への進学率が高いようだ。文久3年といえば、幕末、近藤勇が新撰組の隊長になった年だ。150年の歴史の上にたって母校がますます発展することを祈る。

             泡沫(うたかた)の”アラブの春”

2012-12-08 06:40:40 | Weblog
2010年から11年にかけて中東地域を吹き荒れた反政府(民主化要求)運動”アラブの春”はどうなったのだろうか。エジプトでは30年に及ぶムバラク独裁政権が倒れ、選挙の結果イスラム原理主義主体のムスリム同胞団のモルシー政権が誕生した。これで春が到来して、政治も安定するかと思ったら1年もたたないのに、憲法改正をめぐるモルシー政権の強引な手法で、またもや国内は軍隊まで出る混乱ぶりだ。

依然としてシリアには”春”は訪れない。それどころか厳冬に逆戻りの情勢が続いている。アサド政権と反政府勢力との軍事衝突は国際機関の数重なる仲介にも拘らず解決の糸口はみられない。米国からの報道では、アサド大統領はサリンを装填した化学兵器の使用さえ検討しているという話さえある・もし、これが事実とすれば自ら破滅の道を歩むことになる。

”アラブの春”は泡沫(うたかた)だったのだろうか。手元に「アラブ人の気質と性格」(サニア.ハマディ著サイマル出版会1974年)という本があった。その中にこういう記述があった。「アラブの教育のない選挙民には複雑に分岐した政府の機能とサービスが理解できない。そのうえ選挙民と政府の間の相互理解と協力を図るべき政治家が民意を代表せず、その無責任が選挙民の無理解を生む原因となっている」

わが国も16日の投票にむけて選挙戦が真っ盛りである。アラブの政治家だけではない。日本の政治家も果たして民意を代表しているだろうか。その無責任さが選挙民の無理解を生む原因になってはいないだろうか。昨夕、東北から関東にかけて震度7.3の地震が襲った。何かこの強震は僕には日本人全体への覚醒への鐘のように思えてならない。

              大東亜戦争と”焚火(たきび)”

2012-12-07 06:51:13 | Weblog
毎年この時季になると不思議と”焚火”が想い出される。71年前の昭和16年12月8日、大東亜戦争が勃発した朝、僕は家の隣の空き地で焚火にあたっていた。まだ国民学校(小学校)5年の子供だったが、その朝のことをはっきりと覚えている。家のラジオから米英両国に対する宣戦布告のニュースが流れ、ついで陸海軍がハワイをはじめ各地で戦闘状態に入り、マレー半島の敵前上陸に成功した、と言う戦果が流れてきた。

当時の東京は区部でもまだ空き地が多く、早朝の出勤登校前、近所の人たちが集まって空き地で焚火で暖をとる習慣があった気がする。それだけ焚火は人々の日常の生活に身近なものだった。
                   ♯ たき火(作詞 巽聖歌 作曲 渡辺茂)
                垣根の垣根の曲り角 たき火だたき火だ 落ち葉たき
                暖ろうか暖ろうか 北風ぴゅうぴゅう吹いている
                山茶花 山茶花咲いている たき火だ焚火だ 落ち葉たき
                暖ろうか暖ろうか しもやけお手てがもうかゆい

この歌は戦争勃発の翌日の9日と10日にNHKラジオの「小国民の時間」の歌のコーナーで発表される予定になっていたが、突如軍部から”この非常時に何事だ”と横やりが入り中止された。あの時代が想い出される。この童謡が改めて世に出たのは戦後になってからとの事だが、戦争には関係なく戦前の東京の冬の様子がよく描かれている。戦前の東京の山の手の住宅地には垣根が多かったし、山茶花が咲くころには北風がぴゅうぴゅう吹いていた。そして”しもやけ”や”ひびわれ”の手をしている子供たちが多かった。

今、東京ではたき火は都環境条例によってダイオキシン類を発生させ、人の健康や生活に支障をきたすとの理由から禁止されているという。僕のような古い人間には、なにか季節の風物詩を奪われたようで寂しい。

           あるインドネシア残留日本兵の生き様

2012-12-06 06:39:57 | Weblog
年末に向かって恒例の書棚の整理をしていたら昔、知人から頂戴した「車の轍」というバンドン自動車第28連隊第3大隊の戦友会誌が出てきた。10数年前インドネシア旅行を共にしたOさんから頂いたものだ。懐かしく当時を思い起こしながらページをめくっていたら驚いた。”ある同年兵の消息”というOさんの原稿の中に、僕が先月訪ねたテマングン郊外の残留日本兵、宮崎富夫さん(故人)の事が書いてあるのだ。宮崎さんは数年前亡くなり、今は息子さんが雑貨店を営んでいるが、日本語ができず短い訪問だったので、何故、宮崎さんがこんな中部ジャワの小さな町に残ったのか聞き忘れていた。

Oさんは戦時中南方地域の軍政要員を育成する「拓南塾」を卒業後、スマラン政庁に勤務していたが、昭和19年現地召集を受け、前記バンドンの自動車連隊に入隊した。宮崎さんはその時の同年兵で終戦は第48師団の移動支援のため駐屯していたバリ島近くのスンバワ島で迎えた。宮崎さんは当時軍隊を離脱してジャワへの脱走を図ったが発見され、Oさんらと一緒に名古屋へ復員した。

Oさんの記事によれば、宮崎さんはその時、日本の土を踏んでも一向に喜ばず”僕はこれからどうすればよいのだ”と絶句していたという。Oさんは宮崎さんがジャワ島生まれで、お父さんの生まれ故郷の北海道には頼れる親戚、知人が一人もいないことを知って同情したのを覚えている。しかし、混乱の時代だったので援助もできずそのまま別れ別れになってしまっていた。

それから数十年の歳月が流れ、Oさんはジャカルタにできた残留日本兵の組織「福祉友の会」の名簿の中に宮崎さんの名前を発見した。そして、お互いに連絡をとって判ったことは、宮崎さんは日本に帰国したが生活が苦しく、在京の和蘭大使館経由でジャワへの再渡航を申請、当時日本に在住していたインドネシア人留学生と一緒に”帰国”したが、すぐ独立戦争に巻き込まれ各地を転戦し、最後にテマングンに居住したようだ。人と人とのつながりは不思議である。まさか僕は宮崎さんがOさんの戦友とは知らなかったし、残留日本兵の中に宮崎さんのような境遇の人がいたことも初めて知った。

                 イスラムとお酒

2012-12-05 06:20:55 | Weblog
昨夜、東京の帝国ホテルで催されたUAE(アラブ首長国連邦)独立41周年のパーティに招かれて出席した。50年前まだ独立前の同国を訪れ取材したのが機縁で毎年招待されている。イスラム国ではアルコール類はご法度なのだが、この国はお客に対するホスピタリティからか、ビールだけでなく強いウィスキーの水割りまで用意してくれている。飲んべいの僕にとっては嬉しい限りだ。

半世紀前、僕はバーレーン、ドバイ、カタール、イエメンなど湾岸諸国を3週間ほど取材したが、どこでも酒が手に入らなかった。料理はおいしかった記憶があるが、汗をかいてもビールも飲めず「セブン.アップ」で我慢した。が、4年前、同国のエミレーツ航空のアフメド会長の御好意で47年ぶりにドバイを訪れたが、今はホテルで外国人は自由にお酒は飲めるようになっていた。

飲んべいにとって、イスラムの国を旅行するにはそれなりの準備と覚悟が必要だ。先月インドネシアの中部ジャワを1週間旅行した。経験からビール以外は売っていないのを知っていたから、日本から紙パックの焼酎を用意していった。ホテルの部屋でルームサービスで食事をしながらチビリチビリ飲むつもりで、初日に少し飲み、その後きちんと栓をしたと思ったのだが、車で移動中の振動で栓が空き全部こぼれ出て衣類が焼酎漬けになってしまった。

UAEの人たちは経験なイスラム教徒だから、もちろんアルコール類は飲まない。パーテイ会場でも飲んでいる人はいなかった。自分に対しては厳しいが、外国人は別という考えなのだろう。それと昔からメッカへの入り口という地域性もあるのかもしれない。外国人に対するホスピタリテイの強い国民性のようにお見受けするが、どうなのだろうか。(写真は800人もの招待客で一杯の会場)