「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

国立大学の国旗掲揚と国歌掲揚は当然

2015-06-20 05:53:24 | Weblog
少し旧聞になってしまったが、下村博文文科相が先日、国立大学学長会議の席上”国旗と国歌の取り扱いについて適切にご判断願いたい”と挨拶されたという。何故この時期に文科相が挨拶されたのか疑問はあるが。国立大学での入学式、卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱は当然なことだと思うが、早速学長の中には”大学の自治と自由に反する”と問題視する動きがあるとのことだ。調べたわけではないが、外国では、こんな例はあまりないのではないか。

今でこそ小中学校の入学式や卒業式での国旗掲揚や国歌斉唱は100パーセント実施され、当たり前のことになっているが、敗戦から昭和40年代ころまでは、進駐軍の占領政策で禁止されていた影響もあり、主権回復後もタブー視されてきた。その結果、当時の子供たちの中には国歌「君が代」を、大相撲の千秋楽で歌う歌と思っていたという話さえあった。昭和37年、僕はロンドンの ある劇場のお芝居のフィナーレに、観衆全員が立って英国国歌を斉唱したのを見て感激したのを覚えている。当時、わが国では国旗、国歌は社会から忘れられていた。

全国の国立大学86校のうち、今年3月の卒業式で国旗掲揚をしたはの74校あったが、国歌を斉唱したのは僅か14校にすぎなかった。国立大学での式次第の最終的権限は学長にあると思うが、いったいどうなっているのだろうか。やはり、国旗掲揚、国歌斉唱は大学の自治と自由に反すると思っている学長がいるのかもしれない。今の学長の平均年齢を60歳前後だとすると、まさにこの世代は、国旗、国歌が社会からないがしろにされていた時代に育った人たちだ。多分、その教育が影響しているのかもしれない。、

やっとパソコンが回復しました

2015-06-19 17:53:57 | Weblog
原則として毎日更新を続けてきた小ブログが4日前、原因不明で書けなくなった。PCの画面上の指示に従い動かしているうちに、いよいよ迷路に迷い込み結局、ブログのIDとパスワードを変更して、老人タイムス(「老人タイムス」ではなく)で再スタートした。この結果、毎日、”お好み”で小ブログをよんでおられる友人知人から、ブログの更新がないが、どうしたんだと電話が沢山かかってきた。多分、同じように不審に思われた方もいたに違いない。

悪いことは重なるものだ。新しい老人タイムスがスタートしたとたん、小ブログのPV{閲覧数)とIP(訪問者数)が激減、毎日これに一喜一憂している僕を落胆させたが、今度は、どうしたことかパソコン本体がダウンしてしまった。早速、老妻の助けを借りて、バスに乗り近くの修理店、PC.DEPOへ出かけて故障の原因を診断して貰い一日がかりで修理して貰った。ところが帰宅してPCを接続したところ、何故か動かない。そこで今日、再度、PC.DEPOへ行き相談したが原因が判らないという。僕の苦境に同情して専門家をわが家に派遣してくれた。そのおかげでPCはこのように可動することになったが、専門家は原因は何か判らないという。 そんな事ってあるのだろうか。

ぼくら老夫婦にとっては、久しぶりに外界に触れ、しかも聞きなれない技術用語のシャワーを浴びて頭の刺激になったが、心身共に疲れ果てた。何故か老体の身と古くなってきたPC器機とがオーバーラップされたような気持になったが、新しくタブレットを3年間無償で貸してもらえる契約をし直し、新しい世界に触れることにもなった。80歳―84歳でのインタ―ネット理解者は16。2%だそうだから、僕の”エリート”意識をくすぐってくれたことにもなった。

孫の「祖父母の日」接待と飲茶

2015-06-15 07:18:49 | Weblog
「父の日」より1週間早い昨日の日曜日、この4月学校を出て社会人になった男孫から夫婦二人で「祖父母の日」の接待に預かった。場所は東京で最近高級商業施設として売出し中の「ヱビス.ガーデン.プレス」の一角にある20階建のウエスティン.ホテルにある高級レストラン。家から比較的近くにありながら僕らには”高級すぎて”、これまで一度も行ったことがなかった。

ホテルが日本で一般に利用されるようになったのは1960年頃からで、それ以前は一部の金持ち階級しか利用しなかった。東京でもホテルは帝国ホテル、第一ホテル、日比谷国際ホテルなど数軒しかなかった。僕が初めてホテルに宿泊したのは62年初めての海外旅行で香港のミラマホテルで、今でもその時の感激は忘れられない。

ウエステインホテルの料理は飲茶形式の中華料理であった。飲茶は今でこそ一般にも知られるようになったが、僕が初めて飲茶に接したのは、やはり62年の香港滞在時、中国本土とを結ぶフェリー乗り場近くのレストランであった。当時、香港島は本土とはフェリーとしか結ばれておらず、朝早く埠頭近くで食べた飲茶に僕は「旅愁」を感じたのを覚えている。

「ヱビス.ガーデン.プレス」が登場する前の恵比寿といえば、ビール会社の工場があるだけで何もなかった。駅近くには戦後間もなく焼跡に建った「本庄劇場」というう映画館の建物があるだけであった。戦後70年、香港もそうだが、恵比寿も全く様変わりした。とにかく平成生まれの孫から、祖父母がご接待に預かるというのだから。

"老醜をさらす”長老政治家たちと日本記者クラブ

2015-06-14 04:34:59 | Weblog
日本老年学会の研究によると、日本の65載以上の高齢者の身体、知的機能、健康状態は個人差はあるが、10-20年前に比べ5-10歳は若返っているという。僕ら老人にとっては嬉しい話だが、果たして本当にそうだろうかー。

新聞に山崎拓自民党元副総裁(78)、亀井静香元金融担当相(78)、藤井裕久元財務相(82)、武村正義元官房長官(80)の4人が、日本記者クラブで話をし、安倍内閣の安全保障にからむ法案は憲法違反だとの反対声明を出した、とあった。これに先立って”談話”で有名な村山富市元総理(91)と河野洋平元衆院議長(78)の二人も同じ日本記者クラブで揃って同じような違憲談話を発表、安倍内閣に苦言を呈している。

亀井静香氏を除けば過去の政治家であり、中には”黄泉(よみ)”の国の政治家と錯覚する方もおられる。老年学会の研究のように健康で結構の話だが,同じ老人の僕からみれば、知的機能はどうなのか疑問である。功なり名を遂げ、国から勲章まで頂戴された方々に対して大変失礼だが”老醜をさらす”という言葉がある。「なまじ人目につくようなことをしたために、年をとって醜くなった姿や頑迷な考え方などを人前にさらし、恥をかく結果になる」(三省堂「慣用句ことわざ辞典」)

それにしても、こう続けざまに、”老醜”の過去の政治家たちを呼び、一方的な意見だけを述べさせる日本記者クラブとは何なのか。ネットには反日団体だとの批判もあるが、僕も何か勘違いをしている向きがあるのではないかと思う。

梅雨の晴れ間の庭木の剪(せん)定

2015-06-13 05:06:37 | Weblog
梅雨の晴れ間に昨日、目黒区のシルバー.センターから「植木屋」さん二人が、わが家の庭木の剪定に来てくれた。猫の額のような狭い庭だが、この時季僅かな木だが生い茂り鬱陶しい。僕が器用ならば自分でやればよいのだが、こういった庭仕事はからっきしダメである。老妻が片手間にしていたが、ついに手に負えず専門家にお願いすることにした。

僕の住む町は昭和15年、戦争のため中止された駒沢の”幻の五輪”の会場に近くその頃開発された。そのため都心の旧15区に比べて敷地が広く一区画50坪以上の家が多く庭木が植えられていた。しかし、70余年たった今、持ち主の代が変わり、財産相続の関係からか敷地が、幾つかに分割され、そのたびに庭木も切られていった。わが家もそうで、20年前新築したさい、母親が大事にしていた柿の木などが切られてしまった。

「植木屋」さんの手で、僅かばかりの「梅」と「きんもくせい」と「やぶ椿」が綺麗に剪定された。住宅街の開発はまだ進んでおり、今年の春、新築された隣家(アパート)には、ついに庭木は一本もない。代って門前には下草の花が植えられているだけだ。それでも可憐なものだ。蝶が舞いに来ている。全く、都会育ちで草木には関心のなかった僕だが、最近、興味が若干出てきた。多分、歳をとった証拠なのだろう。


朗報一つ。紛失したと思っていた「シルバーパス」の入った財布が見つかったと、バス会社から連絡があった。これで以前どおりバスに乗って駒沢公園にも散歩に行けるし、無料で通院できる。



衆院憲法審査会と”曲学阿世”の徒

2015-06-12 04:59:36 | Weblog
安全保障関連法案を巡る衆院憲法審査会は、本来の審議から離れて迷走しているみたいだ。テレビ中継がないので詳細は不明だが、新聞が伝えるところによれば、菅義偉官房長官がわが国の”合憲”学者数が200人と言ったのを100人と訂正したとか、これに対して民主党の辻元清美議員が”はっきりとした数字を示さなければ、法案を撤回せよ”と迫ったかどうかとか。まったく馬鹿げた論議だ。

審議が迷走してる原因の一つは、さきの審査会で参考人として呼んだ憲法学者三人が、自民.公明与党推薦の長谷部恭男氏(早稲田大学院教授)まで含めて三人が皆、審議中の法案は違憲だとの見解を示したことだ。民主党など野党は、ここを先途と廃案に向かって力づいてきた。

僕は一介の市井の徒だが、何故自民.公明与党が違憲説を唱える長谷部教授を推薦したのかー、また長谷部教授がこれを受諾したのか解からない。古い話だが昭和25年(1950年)、当時の吉田茂総理は、中ソ抜きの平和条約を主張する南原繁東大総長を”曲学阿世の徒”呼ばわりした。”曲学阿世”とは「真理を曲げ世間の人々の気になるような説を唱える人」(史記)(三省堂ことわざ辞典)

長谷部教授が”曲学阿世の徒”だかどうかは知らないが、自分が推薦を受けた背景を考えれば、国会で自分が”違憲説”唱えれば、どのように政治に影響してくるか判断できなかったのだろうか。彼を推薦した与党関係者が一番責任があるが、長谷部教授も軽率というか、言葉は悪いが”学者バカ”である。重箱のスミをつつくような論議は止め、わが国とっての安全保障が、どうあるべきかを真剣に議論して貰いたい。

老人の”足”の確保

2015-06-11 05:22:32 | Weblog
高齢者や”交通弱者”が車を運転しなくとも暮らせる社会を目指す平成27年版「交通政策白書」が閣議決定された。新聞報道によると、ここ10数年地方では採算性の悪い路面バスが廃止され、過疎地域に住む老人たちの「買い物」や「通院」を困らせる事態になっている。

僕も先日義弟の葬儀で長野市に2泊3日滞在しそれを実感した。長野市は過疎ではないが、昔に比べれば、バスの本数は減っており、旅行者が限られた時間で用事を済ませるにはタクシーを利用しなくてはならなかった。葬儀で老妻の実家に立ち寄ったが、義兄(86)は、すでに運転免許証を返上しており車もない。昔は頻繁にあった近くのバス路線は1時間に1本あるかないかである。折角の機会なので、旧友に再会したいと電話したところ、彼も家族に言われて免許を返上、車がなくて会えないという返事だ。

その点、僕の住む東京では公共交通網が発達している上、さらに有り難いのは70歳以上の老人には、年に1千円ほど払えば、都内のバスと都営地下鉄が“タダ”で乗車できる”シルバー.パス“が貰える。これはとかく出不精がちの老人のために大変役立っているが、先日、僕はこのパスをどこかで紛失してしまった。早速、再発行の手続気を取ったが10日間はかかるという。”無料”パスがあれば、時には遠出も楽しめたが、当分家に引篭りだ。

「交通政策白書」によると、将来、こういった”交通弱者”救済のためにLRT{次世代型路面電車)を建設する案があるという。結構な話だが、地方に住む老人たちにとっては当面の問題として、コミュニテイ.バスの増発を希望しているのではないだろうか。都会の老人は、地下鉄の各駅に下りのエスカレーターを設置して貰いたい。

社保庁の謝罪体質が変わらない日本年金機構

2015-06-10 05:43:18 | Weblog
ウィルスのサイバー攻撃を受けて個人情報が流出した125万人の年金受給者に対して日本年金機構から謝罪の文書が送付されたらしい。幸い、今のところ僕宛てには来ないところを見ると、僕の個人情報は外部にもれなかったようだが、125万人全員に謝罪文書を送ったのだろうか。かりに、そうだとしたら、その手間とおカネは大変である。5年前、”消えた年金”問題で解体した社会保険局当時も、何かというと”○○年金便”といった類の謝罪文書が僕の所に送られてきたのを想い出す。

日本年金機構が発足しした平成22年4月、立派な封筒に入った「厚生年金加入記録」が送られてきた。しかし、見ると僕がこれまで社会保険庁に対して指摘してきた誤載がそのままタイプアウトされたままだ。同じ年の7月13日の小ブログで、僕は”消えた年金消えたまま”というタイトルで日本年金機構を批判している。僕の「厚生年金加入記録」の誤載について再調査を依頼したところ届いた日本年金機構からの回答文書についてである。回答文書には”お返事が遅れたことをお詫びします”とあるだけで誤載についての回答はない。

僕が指摘している誤載は、昭和56年数か月勤務した出版社(倒産)の年金記録がなく、まったく勤務したことがない金融会社からの1か月の年金が記載である。そんなに古い話ではなく、調査すればすぐわかる話である。しかし、僕の全体の年金支給額からみれば影響はない。もう面倒くさいので、僕はそのまま放置しているが、どうも日本年機構と名前は変わっても社保庁の体質は変わっていないようだ。今回の”てぎわよい”謝罪文書の送付から、なんでも謝ればよいという社保庁時代の体質を見て取った。

様変わりした”ニコタマ”(二子玉川)の街

2015-06-09 04:37:33 | Weblog
最近”ニコタマ”の名で若い人の間で人気のある二子玉川(東京.世田谷)の町が再開発ですっかり様変わりした。昨日、老妻と集まりの会場の下見を兼ねて昼食を食べに行ったところ、駅の東側地区に高層のビルが完成、来月には本格的なホテルも進出するそうで、都心並みの景観に変容、人人で混雑していた。驚いたのは6,7階の飲食階で、どの店も順番待ちの混雑ぶり。午後1時すぎなのに店によっては長蛇の列を作っていた。ほとんどが女性客だが、これを見る限りアベノミクスの効果は確実に出てきた感じだ。

戦前二子玉川といえば、かって多摩川の砂利を都心に運んでいたという、路面電車の玉電が渋谷まで結ばれ、一方大井町から溝の口までの郊外電車が停車するだけの小さな駅で、僅かに日曜.祭日が遊園地や多摩川の河原の行楽客で賑わいをみせるだけ、名物の食べものは、河原に停めてある舟の上での鮎の塩焼きぐらいであった。

この二子玉川が本格的に開発されたのは、40年ほど前、玉電が地下鉄になり、大井町線が溝の口から神奈川県大和市の中央林間まで延長されて名前も田園都市線に変ってからだ。田園都市線の沿線には、新しい住宅地が各地に誕生、一挙に人口が増えた。戦争中、二子から近い多摩川の河川敷には、僕が通っていた中学校の農園があり、授業の合間を見てトウモロコシやカボチャを作っていた。その近くには、高さ50mの落下傘塔があり、銃後の青少年の落下傘降下の訓練の場であった。さらに、その近くには、昭和の初期来日した、初代ターザンのワイズミュラー(元五輪選手)が、泳いだ「玉川プール」が戦後すぐの時代まであったが、今は壊されてない。

当時を知る僕らにとっては、二子の様変わりは、全く驚きだ。が、今では見えなくなった富士山も、来月オープンするビルの最上階のホテルからは遠望できるそうである。一度機会があったら昔を忍ぶよすがに出かけてみたいと思っている。

キナバル山の遭難とアピ事件

2015-06-08 05:15:37 | Weblog
東南アジア最高峰の山キナバル山(ボルネオ.マレーシア)に登山中、M6.0の地震に遭遇、地滑りに巻き込まれて日本人一人が犠牲になった。キナバル山は4024Mの高峰だが、一泊ニ日で登山できるほど安全な山で、マレーシア観光局でもお薦めのコースの一つである。とくにキナバル山の山麓の町、コタ.キナバルは雄大な自然と伝統文化に恵まれ、日本から僅か5時間半で行ける。孫も昨年、一人旅を楽しんできた。

コタ.キナバルは、戦前、英国植民地時代には植民民地会社の社長の名前を取って、ジェセルトンと呼ばれていたが、昭和17年、日本軍が占領、軍政を敷いてから、もともとの原住民地名であったアピ(火)に変更した。当時の模様について報道班員であった堺誠一郎氏が同僚のカメラマンと一緒に二週間旅行した模様が「キナバルの民、北ボルネオ紀行」(中公文庫)に収められている。堺氏は旅行前、ピストルを準備、現地警察官に警備を依頼したほどだったが、全くその心配はなく安全な旅であった。

ところが、1年余月で情勢が一変し、18年10月10日の「双十節」(中華民国建国記念日)を期して、アピ在住の華僑が一斉に蜂起して、市内の日本軍関係の建物を襲い、郊外の農園では邦人50名が惨殺されている。この事件の頃から戦局も悪化し、現地日本軍の誤った作戦もあって、意味のない”死の行進”で、アピ周辺のジャングルで数千人もの日本軍兵士が亡くなっている。

「アピ事件」に関連し、当時現地では400人もの住民が逮捕され、処刑されたといわれており、今でもその慰霊祭が行われているが、堺誠一郎氏は戦後”「アピ事件」などを考えると、自分たちの呑気な旅行は、何か悪いしたことをしたかのような苦しさを覚える”と述懐している。一つの地名にも色々歴史が秘められているので紹介。