「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「昭和史を味わう」 NHKの間違った選曲

2015-06-07 05:25:44 | Weblog
今朝(7日)4時からのNHK「深夜便」”昭和史を味あう」再放送の後半部分をたまたま耳にしたところ、昭和史研究家の保坂正康氏が、大平洋戦末期の話の中で、東條英機首相の戦陣訓から彼の精神論を強く批判していた。そのあとでNHKが当時の国民歌謡として「ジャワのマンゴ売り」「南の花嫁さん」「南から」の三曲を紹介していた。いずれも17年(1942年)から18年初期の歌で、少年だった僕は地図の上で占領地を赤く塗りつぶし、勝利を喜び歌ったものだ。

しかし、保坂氏のこの日の話からすれば、このNHKの選曲は誤っている。保坂氏はサイパン陥落以後の東條内閣の政策批判や当時の世相の話をしており果たして「ジャワのマンゴ売り」で象徴されるような緒戦の勝利の甘い歌は適していいるだろうか。保坂氏のこの日の話からすれば、当時、大政翼賛会が選曲した”出せ一億の底力の「進め火の玉」や海軍の軍隊勤務を歌った「月月火水木金金」あるいは敗戦近くに歌われた”出てこいミニッ、マカッサー、出てくりゃ地獄へ逆落とし”(比島決戦の歌)の方が適していると思う。

ちょうど70年前の昭和20年6月8日の亡父の日記帳に”息子、勤労報国のため、勇んで千葉県柏町に進発する”とある。忘れもしない僕はこの日上野の西郷さんの銅像の前に集合、常磐線に乗って柏に向かい、東武野田線に乗り換えて「運河駅」の利根川運河の浚渫現場に向かった。沖縄戦は敗北に向かい、次は本土上陸だといわれて時代である。中学3年ながら死を覚悟して連日モッコ担ぎの重労働に耐えた。

記憶はあまり定かではないが、その頃、すでに東條首相に対する批判は国民の間で出ていたが、亡父の日記のようにほとんどの国民は”報国”の念に燃えていたのではないか。戦争の僅かな体験者だが、”昭和を味あう”という気持ちにはとてもなれない。いわんや、なんらかの誤った意志が働いた歌の選曲に怒りさえ感じる。

75歳でよその地へ移住せよ、といわれても

2015-06-06 06:10:20 | Weblog
東京圏(埼玉、千葉、東京、神奈川の4都県)の75歳以上の高齢者が今後10年間に急増し深刻な医療介護サービス危機に陥るとして、この圏内の高齢者を地方に移住すべきだという提言が政府の有識者による「日本創成会議」から出された。そして、その移住先として41か所が公表された。僕はこれを見て、高齢者の心理を無視した、それこそ現代版の”姥(うば)捨て山”ではないかと思った。

歳を重ねると、だれでも残念ながら心身ともに弱ってくる。昔、家族制度が確立していた時代には”順送り”に子供が親が最後まで看取ったものであった。今でも高齢者の大半は、心の中ではそれを望んでいる。政府が進めている老人介護政策も根底は在宅介護である。しかし、現実には出来なくて、介護施設への入居希望者が多く、東京圏には待機老人が数万人単位でいるという。

しかし、待機老人は正直言って、いかに介護施設が充実しているからといって、長年住み慣れた地から離れ、あるいは家族とも別れて、よその地に移住するだろうか。「日本創成会議」があげた41か所の移住先をみると、そのほとんどが、北海道、東北の豪雪地帯や首都圏から離れた九州や沖縄である。誰が、移住先を決めるか不明だが、行政が一方的に割り当てるのなら、まさに”姥捨て山”である、

千葉県南房総市に家族と一緒に住み、地元で福祉介護サービスを受けている101歳の先輩から近況を伝える手紙とともに元気な写真が送られてきた。同じ千葉県内でも、幸せなこのようなケースもある。地方の創成も老人福祉も、今、日本が直面している国家的大問題である。しかし、安易にこれを結び付けて解決を図かろうというのは、如何なるものだろうかー。

恩讐を超えた日比友好

2015-06-05 05:39:39 | Weblog
国賓として来日したフィリピンのベニクノ.アキノ(三世)大統領歓迎晩さん会の席上、天皇陛下が乾杯に先立ち、先の戦争で同国で多くの犠牲者が出たことに触れ、深い痛恨の心と共に、長く忘れてはならない、と挨拶された。フィリピンでは戦争末期の昭和19年から20年にかけて、米軍の再上陸作戦によって、日本軍は大戦史上、最大の34万人の戦死者を出し、一方この戦闘に巻き込まれ10万人もの民間人が犠牲になっている。

千葉県銚子市の太平洋を見下ろす”地球が丸く見える”公園の展望台の一角に「日比友好の碑」が建っている。昭和33年4月、当時の岸信介総理とガルシア大統領が碑文を記し、作家の尾崎士郎氏が”ここに、われらが恩讐を絶する日比両国の戦友百数万人の霊を慰める記念碑を建てる”との撰文があり,炎型したモニュメントには「雲へだつ ふたつの国の同胞の 慨き乗り越え かたく結ばれ心とこころ 友愛の浄火 仄々と永劫不滅 ああ燃えに燃えろ」と書かれた日比友愛の歌が刻まれている。

ベニクノ.アキノ家は、マニラ郊外のタルラック州の出身で、戦時中、近くのマバラカットには神風特攻隊の基地があり、現大統領の厳父(二世)は少年時代、特攻隊員を知己があり、戦後、この地に特攻隊員の慰霊碑が現地の人によって建てられたが、火山の爆発により埋没してしまった。しかし、今でも毎年、関係者によって慰霊祭が行われていると聞く。 

広島、長崎に原爆が落とされから70年、米国の大統領は一度も被爆地を訪れたことがない。東京、大阪、名古屋、横浜など大都会では空襲によって無辜の市民が十数万にも亡くなっているが、謝罪の言葉を聞いたこともない。 アジア人とヨーロッパ人との心の違いなのだろうか。   

"漏れた年金”を政局の具にするな

2015-06-04 05:24:15 | Weblog
日本年金機構がウィルスによる不正アクセスを受け、年金の個人情報約125万件が外部流出したという。細かいことは、僕には解らないが「標的型攻撃」といって、政治家や大手企業を狙ったもので、直接、僕ら市井の人間の年金を標的にしたものではなく、いわんや、これによって、年金が奪われるわけではないが、日本年金機構には、一日で15万8千人もの人から問合せがあったという。いかに、国民の年金問題についての関心の強さがうかがえる。

年金問題というと、8年前の第一次安倍内閣(2007年)の時の”宙に浮いた5000万人”を想い出す。きしくも、あの内閣当時の内閣官房長官、塩崎恭久氏が、まわりまわって、日本年金機構の監督官庁の厚生労働大臣である。早くも民主党では、塩崎大臣の監督責任を国会で問う姿勢に出ている。高木義明国会対策委員長は”消えた年金”ではなく”漏れた年金”問題だとして、徹底的に追及する構えをみせている。折りしも国会にはマイナンバー法改正や派遣法改正法案など重要法案が目白押しである。

〝宙に浮いた5000万人”問題の結末はどうだったのかー。問題を起こした厚労省の外局、社会保険局は解体し、民間の日本年金機構に変っだけた。僕個人の”消えた年金”は、何回か問合せしたが、要領が得られず、結局”宙に浮いた”ままになっている。5000万人といっても、ほとんどの人が僕と同じようなウヤムヤの状態か、あるいは実態のない数字かもしれない。

国会中継で、あの”ミスター年金”氏が,渋っつら顔して”漏れた年金”問題を「政局」にして質問する姿を想像しただけでもイヤになる。日本年金機構がなぜ、今回のような問題を起こしたのか徹底的に追及すべきだが、これを「政局」にして、政治が停滞することを国民は望んでいない。

70歳は男の新厄年(やくどし)か

2015-06-03 04:55:18 | Weblog
自民党の町村信孝前衆院議長が逝去された。まだ”古希”の70歳である。日本人の寿命が50歳だった時代には、70歳は”古希”だったかもしれないが、超高齢化時代の今ではまだ早すぎる死である。町村氏の死を伝える同じ日の新聞に、”あなたのブルース”でヒットした歌手の矢吹健さんが今年1月他界していた、と報じていた。矢吹さんは町村さんより一つ若い69歳である。

昔から日本人の男の厄年、数え年の25歳、42歳、60歳とされ、このうち42歳が大厄であり、60歳の還暦のあとは厄年はなかった。僕も42歳の時、急性肺炎で入院した経験がある。しかし、この厄年も日本人の長寿化と共に変化してきた。古い日記を調べると、僕は古希の70歳の年、膀胱がンで1か月入院し、血糖値を下げるため、医師の診断で半年、食事制限して体重を10㌔落とした。

昔の友人も70歳前後で亡くなっている者が多い。日本人の男性は”古希”前後が身体の変調期なのであろうか。人生50年の時代は還暦を過ぎると厄年はなかったが、今は改めて70歳を新しく厄年にして神仏に祈祷する時代になったのであろうか。

今、70歳の古希の世代は考えると、終戦直後の一番食糧難の時代に乳幼時を送っている。母乳も十分になかった時代である。その影響があるのであろうか。戦後70年、けじめの年といっても、平均寿命が80歳近くである。70歳では、やはり早逝と言わざるをえない。合掌



老人は”醜悪なクレーマー”か

2015-06-02 05:32:19 | Weblog
産経新聞のコラム「鈍機翁のため息」(6月Ⅰ日付け首都圏版)の中で、老人のコンビニでの傲慢な態度を扱った動画”醜悪なクレーマー”がインターネットの掲示板サイトで話題になっている、と紹介していた。その書き込みの大半は”老害死ね”といった若者からの老人批判だという。コラムの見出しには”若者の憎惡が限界点に”とあった。

クレーマーとは苦情を意味する和製英語クレーム(claime)から来ていて苦情を言う人を指すものらしい。申し訳ないが、僕のPC技術ではこの掲示板サイトを見ることができなかったが、だいたいなところ、老人の”傲慢な醜悪な”言動が、どんなものだかは想像はつく。超高齢化時代、一概に老人といっても定年を終えたばかりの60歳代から、もう片足、がん箱に突っ込んだような僕みたいな者まで幅広い。

馬齢を重ねるとともにハラが立つことが多くなるものだ。しかし、精神衛生に悪いので出来るだけ、世の中にクレームはつけないようにしているが戦前”長幼序あり”の教育を受けた僕ら後期高齢者にとって、時には腹に据えかねないこともある。先日も杖をつきながら、バスに乗ったが、小学生の女の子を連れた若い女性が優先席を二人で占拠している。さすがに、僕を見て母親は席を譲ったが、子供はそのまま。同伴の老妻には譲ろうとはしない。よせばよいに僕は、孫を諭すように”この席はお年寄りが優先なのよ”と言ってしまった。

若者の老人批判の背景には、”裕福な”老人との間の世代間格差があるという。確かに一部の老人は働かずに,自分たちの給料より多い年金を貰っているように若者の目には映るかもしれない。しかし、僕ら世代の老人たちは、戦後、苦しい安月給の生活の中から、当時としては高額な年金を拠金してきた。数多い老人の中には”醜悪なクレーマー”もいるかもしれないが、これをもって、若者の憎悪が限界点に来た、とするのは、マスコミの行き過ぎだ。

保坂正康氏の偏狭な「大東亜戦争」観

2015-06-01 07:04:23 | Weblog
昨夜NHKラジオの第二の文化講演会で、昭和史研究家、保坂正康氏の「昭和史から学ぶ」を聞いた。保坂氏は講演では終始「太平洋戦争」という呼称を使用していた。「太平洋戦争」という呼び方は、戦後GHQの占領政策の一環として、なかば強制的に日本国内で使用されたものだが、すでに日本の社会では定着している。だから、僕は保坂氏が、これを使うからケシカランと腹を立てるほど偏狭ではない。

可笑しいのは「大東亜戦争」について”古い人が使うのは構わないが、若い人が使用するのは問題だ”といった意味の発言していた。”古い人”に属する僕だが、これは昭和史研究家としてはおかしいと思う。あえて「釈迦に説法」だが「大東亜戦争」という呼称は昭和16年12月12日、東條内閣が閣議決定したもので”支那事変を含む今次戦争”の正式呼称である。

これに対して「太平洋戦争」は、米国からみた戦域による呼称である。その戦域は米国西海岸からアラスカ、オーストラリアまでの太平洋の広い戦域だが「大東亜戦争」は、中国大陸からインド亜大陸、インド洋のアフリカ東海岸にまでに及んでいる。事実、インド洋のべンガル湾のアンダマン諸島には、海軍第12根拠地隊が敗戦まで、ここに陣地を置いていたし、緒戦にはセイロン(スリランカ)のコロンボまで空爆している。

”古い人”の僕から言わせれば、一般人向けの文化講演会といえども「大東亜戦争」という呼び方は内閣で閣議決定された正式呼称だが、戦後の連合軍の占領政策の結果、「太平洋戦争」の呼び方が、わが国では一般化されてきた経緯についても触れるべきである。歴史に忠実な”若い”研究家が「大東亜戦争」を語ってはいけない、というのは偏狭である。