「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

内閣改造 安倍総理の風を読む力

2017-07-21 06:21:43 | 2012・1・1
支持率急落を受けての内閣改造が8月上旬に行なわれるらしいが、早くもマスコミは、その話題で賑わっている。ネットで朝日新聞デジタルの報道を読んだら、安倍総理が19日の夜、麻生副総理らと会食したさい、何故か15年も前、小泉政権時代、国民的人気のあった田中真知子外相を更迭したため、内閣支持率が72%から34%に急落した話が話題になった、と書いてあった。

安倍総理が何故、田中真知子さんの古い話を持ち出したのか解らないが、頭のどこかには稲田朋美防衛大臣をめぐるPKO日報隠ぺい問題を初め幾つかの不安定な国会答弁があったのは間違いない。閣僚を任命した総理として責任はある。任命権者としての自分の責任を回避するため、稲田更迭は田中真知子さんのケースとは異なる、と言いたかったのかもしれない。

産經新聞の記事(21日首都圏版1面)によれば、稲田大臣の”奇抜な服装での外遊”が制服組に不信感が出てきているという。こんなことまで新聞が報じるようになれば、多分内閣改造での稲田大臣の解任は間違いないだろう。でも、稲田氏の更迭だけで、安倍内閣の人気が上がるとは思えない。先日の都議会議員選挙で大敗を喫した”戦犯”の一人、石原伸晃経済再建相が総理の隣に座っているのは僕には理解に苦しむ。都議会議員選挙支援演説で”おヤジ(石原慎太郎氏)をいじめるな”と訴えたそうだが、大方の都民は自民党の敗因は、石原慎太郎親子の”年増の厚化粧”発言だと思っている。

15年も前の、国民が忘れかけていた話題を、いくら個人的な会食とはいえ話題にするとは、さすがの安倍総理の風を読む力も弱まわってきたのかもしれない。

夏休みの短縮化の是非

2017-07-20 05:58:34 | 2012・1・1
東京首都圏は昨日梅雨が明け、いよいよ夏本番だが、今年はカラ梅雨気味で真夏日が多かったせいか、老人にはこれから夏本番だと思うと”やれやれ”という気持ちだ。暑さには強いと自負していたのだが、やはり歳には勝てない。

戦前、東京の小学校では7月21日から8月31日までが夏休み(夏期休業)であった。80年前(昭和12年)の通信表をみると「学校歴」にはっきりと書いてある。今はどうなのか知らないが、この時代に育った僕らにとって7月21日は、胸がワクワクした想い出の日だ。夏休みは地方によって違い、40年前、子供たちがお世話になった札幌では、始まりが7月25日で終わりが8月15日と短かったが、そレなりに楽しい想い出があるようである。

孫も成長して最近の教育事情にはうといが、先日の新聞に静岡県吉田町で来年度から、夏休みの期間を24日から16日間に短縮する町独自の案を実施する予定だと出ていた。年間を通じての授業日数を210日から220日に増やす全体の教育改革の一環のようだが、改革の狙いの一つは教員の多忙化の解消だという。

戦前に教育を受けた僕らは、地域によって季節の違いからくる夏休み、冬休みの期間差は理解できるが、町が独自に「学校歴」を作成して、休みを短縮するのには、今一つ理解できない。戦前のように国家主義に基づいて画一的な教育をせよ、とまではいわないが、町ごとに「学校歴」が違うのは。国の教育行政にも影響してくるのでは。ちなみに、吉田町は人口3万人足らずだが、東名高速ICに近く企業誘致が盛んで、財政的には地方交付税不可布の町である。

聖路加病院の日野原先生の死に想う 明治ははるか雲の上に

2017-07-19 06:06:24 | 2012・1・1
”生涯現役”の医師、国際聖路加病院の日野原重明先生が105歳で亡くなられた。明治44年(1911年)9月生まれだから正式には104歳10か月だが、人間ここまで健康寿命をまっとう出来るのは幸せな限りだ。先生の細かい年齢にこだわったのは、考えてみると周囲に明治生まれの方がだんだん少なくなってきたからだ、総務省の平成23年の推定によると、明治生まれは7万6千人おられたが、それから6年、高齢者の年間死亡者を考えれば、現在は1万人をきっているのではないだろうか。書類にある誕生日の略M,T,S,HのMが無用になる日も近い。

”降る雪や明治は遠くなりにけり”-は俳人の中村草田男が明治時代卒業した東京の小学校を再訪したさい詠んだ句だが、調べてみると、その時からすでに86年経っている。光陰矢の如しというが、来年は明治150年だという、つい先日、明治100年(昭和43年)を祝ったばかりと思っていたが、あっという間の50年である。

平成生まれの若い世代にとっては、はるか雲の上の時代になりつつあるが、戦前、明治天皇の誕生日11月3日の「明治節」に”亜細亜の東、日出ずるところ、聖の君の現われまして”を歌った僕ら世代には、明治の御世に生まれた先人たちが少なくなってきたのは寂しい。来年の明治150年記念事業の一環として「明治節」の復活を提案したい。同時に明治生まれの方々に、明治、大正、昭和、平成四代を生きられた記念品を贈呈してはどうだろうか。

オツムの毛が薄いお方の受難時代

2017-07-18 05:54:00 | 2012・1・1
豊田真由子衆院議員の秘書に対する暴言「このハゲーー!」がYou Tubeで流れ、テレビでも繰り返し流れている影響か、最近、幼稚園に通う子供まで、この言葉を面白おかしく使っているとネットにあった。何か作り話みたいでもあるが、早くも今年の流行語候補の一つだ。オツムの毛が薄いお方の受難時代である。

昔から禿げ頭やデブは蔑視言葉の一つであった。戦前昭和の時代、僕ら子供の間で”デブデブ百貫(約375キロ)デブ”で始まるしりとり歌があり、その最後は”電気は光る、光るは親父のハゲ頭”とあった。僕の長男が幼かったころ、祖父の頭をどこで覚えてきたのか”ハゲ叩いてカンでみよ新タクアンの匂いがする”とふざけていたのを想い出す。旧友の中に丸い傷跡のハゲがあるのを見て”五厘”ハゲと鹹かった。五輪とは大正から昭和の初期に流通していた銅貨である。

一方,ハゲ頭は何故か親しみやすい人物の代名詞でもあった。戦中から戦後のエノケン、ロッパとならんんで三大喜劇王と言われた柳家金語楼はハゲ頭を売り物にしていたし、昭和30年代、テレビの舞台中継で人気のあった大宮デン助は、わざわざハゲ頭のカツラをかぶっていた。ハゲ頭の人物が何か愛嬌のある親しみやすい人物だったのだ。

豊田議員のあの暴言を聞くと、とても選良の先生の声ではない。一流の大学を卒業されているようだが、もしかすると、一流大学で教わったのかもしれないが、テレビ局もいい加減、あの声を流すのをやめてほしいものだ。

「海の日」に松原保存運動を!

2017-07-17 07:26:05 | 2012・1・1
”海の恩恵に感謝、海洋国日本の繁栄を願って平成8年、国民の祝日になった「海の日」だが、国民の間で何故かなじまない。固定していた7月21日から”ハッピー.マンデイ”制の適用を受け、7月の第3月曜日になってから、ますますなんの祝日だかわからなくなってきた。この日に何か記念行事や祝典があるわけでもない。

海といえば、日本人の心のどこかに「松原」が浮かぶ。代表的な「海」を歌った童謡「われは海の子」「海」の二つにも「松原」が歌いこまれている。
♯ 「われは海の子}(明治43年 作詞 宮原晃一郎 小学唱歌)
  われは海の子白波の騒ぐ磯辺の松原に煙たなびく苫屋(とまや)こそわが懐かしき住家なり
♯ 「海」(大正12年 作詞作曲者不明)
  松原遠く消えるところ白帆の影は浮かぶ 干し網高く鴎は低く波に飛ぶ ああ昼の海昼の海

この松原の象徴的な存在、三保の松原(静岡県)と虹の松原(佐賀県)が絶滅の危機にあるという。とくに世界の文化遺産に富士山とともに指定されている三保の松原は1960年代から始まった安倍川の砂利採掘や砂防ダムなどの影響で海岸浸食が始まり、巨額な費用を投じて伝説、羽衣の松などが保存されている。富士山を背景にした松原がなくなったら世界遺産としての価値はどうなるのだろうか。

”奇跡の一本松”で知られる陸前高田市の海岸には德川時代から300年の歴史をかけて7万本の松が植えられてあったが、6年前の東日本大震災の津波でほとんど絶滅した。一本松の保存はマスコミの話題になるが、震災後の植林事業はどうなっているのだろうか。あまり意味のない「海の日」の休日に、全国運動として松原保存運動を提案したい。

防空壕避難世代と弾道ミサイル演習

2017-07-16 05:35:44 | 2012・1・1
富山県高岡市の小学校の学童が弾道弾ミサイルの飛来に備えて避難訓練している写真が産経新聞の社会面に載っていた。政府(内閣府官房国民保護センター)が地方自治体とが共同で実施している「弾道ミサイル落下時の行動」計画の一環だが、戦時中、空襲を体験し防空壕に避難した僕ら昭和1ケタ世代にとっては、なんとも言いようがない気持ちだ。

高岡の子供たちが両手で首を抑え蹲っている写真を見て、僕は75年前の昭和17年4月18日のド―リットルによる本土初爆撃直後の事が想い浮かんできた。ドーリットル隊長率いる太平洋上の空母から飛来したB-25爆撃機16機が本土に飛来し、東京、横浜、名古屋、大阪などの主要都市を爆撃、機銃掃射で87人が犠牲になっている。東京では葛飾の国民学校生徒が弾を受け死亡している。

当時、僕は国民学校6年生だったが、この空襲直後から本格的な防空演習が始まった。教室の窓ガラスに目張りし、教室内には机と椅子がうず高く積まれ、警報発令と同時に僕らはその下に避難した。昭和17年4月と言えば、銃後では緒戦の勝利で酔っていた頃で、敵機の襲来は想定外。町会の婦人会による防空演習、バケツリレーもはじまっていなかった。B-29による本土爆撃が本格化したのは19年11月だが、緒戦の頃、政府が力をいれた防空演習がほとんど役に立たないことを国民は知った。

弾道ミサイルについての知識がないが、正直言って政府が推奨する落下時の行動で、身の安全が図れるとは思えない。しかし、今や戦争を知らない世代が大半である、戦争の怖さを実際に知らないと同時に、国防についての意識もない。その意味で政府の「弾道ミサイル落下時の行動」は、国民の国防意識の喚起には役立つのではないだろか。

小池都政のアウフへーブンは”大向こう受け”の事業

2017-07-15 05:47:16 | 2012・1・1
先日の東京都議会議員選挙での小池百合子知事率いる「都民ファースの会」の大勝を受けて、その知事の言うヘーゲル弁証法哲学の”アウフへーブン”(止揚)はどうなったのか。昨日、知事の定例記者会見を東京のローカルテレビ局の中継で頭の30分だけ視聴したが、例によって例の如く横文字用語が多く理解に苦しんだが、どうやら知事の”アウフヘーブン”は”大向う受け”の事業の展開にあるようだ。

知事は2020年の東京五輪パラリンピックのキックオフ事業として都内の職場でラジオ体操を始めるよう提案した。会見場のスライドにはいろんな職場の”ゆるキャラ”のラジオ体操姿が紹介された。五輪を盛り上げるため、午後2時55分から5分間、各職場でいっせいに仕事をやめてラジオ体操をしようというものだ。1964年の東京五輪の際も僕が勤めていた新聞社でも午前と午後の二回、社内にラジオ体操の音楽が流れたが、なが続きしなかったのを想い出した。

もう一つのキックオフ事業は”花の都”プロジェクトだ。葛飾、台東を手始めに地元の商店街の協力で街をハンギングフラワーで飾り、水やりのフラワー.サポーターを募集しようというものだ。趣旨は結構だが、問題の豊洲.築地市場問題は、依然として計画だけで先が見えない。知事が豊洲移転の目玉としている「千客万来」施設は、早くも”砂上の楼閣”だという声がある。”ゆるキャラ”を集めてラジオ体操をするのもよいが、もっと足が地に着いた施策をお願いしたい。キックオフ事業として、手始めに都内の公衆便所から和式便器の一掃を提案したい。臭いものに蓋をしてはならないという譬えもある。

東京のお盆 ”酷暑残る玄関先迎え火もなく宅急便 ”

2017-07-14 05:33:53 | 2012・1・1
今、東京や横浜の戦前からの市街地はお盆の最中である。明治3年、旧暦(太陰暦)から新歴(太陽暦)に切り替わった際、東京、横浜、函館などの一部地域は、旧暦7月15日の盂蘭盆会(お盆)を、そのまま新暦7月15日で催すようになった。はっきりした理由は知らないが、多分これらの地には外国人居留地があったからかもしれない。

昨日13日は、その新暦によるお盆の入りだったが、わが家では、酷暑を気遣って僕ら夫婦に代わって娘が浅草の菩提寺に墓参に出かけてくれた。、しかし僕の記憶にある、戦前昭和のお盆の行事風景はなかった。あの時代、東京でもお盆の入りには、どこの家でも初物のキューリとナスで精霊馬と精霊牛を作り、玄関先でおガラ(麻の皮)を焚き、ご先祖の霊が迷わぬよう仏前に盆提灯を飾ったものだ。

盂蘭盆会はインドの仏教の教えと中国古来の「中元節」とが混じって日本に伝えられたようだが、わが国ではあまり、お盆とは関係なく「お中元」の贈り物が先行している感じである。しかし、わが家はすでに年金生活に入って四分の一世紀、社会との接点が少なくなり「お中元」も届かなくなった。人生はそれでよいのである。、

明日のブログの題材を考えながら、パソコンの前に座っていったら玄関の来客を告げるチャイムが鳴った。そこで作ったこともない一句。「残暑残る玄関先迎え火もなく宅急便」88歳の義兄の病気見舞いに送った、そのお返しの信州からの長寿の蕎麦のセットであった。

鶴竜の欠場 看板倒れの四横綱制

2017-07-13 05:47:49 | 2012・1・1
大相撲には”荒れる〇〇場所”という言葉があるそうだが、今、開催中の名古屋場所はひどすぎる。初日には二横綱、三大関に土がつき、先が思いやられてたが、案の定、横綱の一人、鶴竜が四日目にして早くもケガを理由に欠場を申し出た。前から漠然と四横綱制度は、看板にいつわりありと思っていたが、案の定、鶴竜の度重なる欠場を機会に調べてみたら、その通りであった。

四横綱制度は戦前からもあったが、昭和33年、今の年六場所になってから50年の記録を調べてみたら驚いた。四横綱が千秋楽までそろって土俵を務めた場所は六場所しかなく、四人が十勝以上あげたのは、昭和40年9月場所(大鵬、柏戸、栃ノ海、佐田の海}ほか四場所しかない。だから、鶴竜が今年になって連続二回、四場所のうち三場所も欠場してもそう珍しくはない。

横綱、稀勢の里も序盤ですでに二敗している。テレビの解説者によると、先々場所、優勝した際痛めた肩が完治していないらしく心配だといっていた。素人の僕の目にもそう映る。横綱としての責任感から土俵に上がっているのかもしれないが痛ましくもある。。大相撲の横綱規定には大関のように、年二場所負けこせば降格になるという規定がないのだから、完治まで休めばよい気もする。

戦前の年二場所時代は、力士はケガをしても完治する時間があったら、六場所ではあっというまに降格してしまう。横綱は降格の規定がないから、鶴竜のように欠場をくりかえしている。横綱としての相撲をみせるには、それが正しいのかもしれないが、やはり他の力士同様の扱いにすべきである。それには、かっての公傷制度を復活、充実が前提条件であるが。

(変な予想が当たってしまい。稀勢の里は5日目、3敗してしまった。)


戦後初の復活中等野球大会予選でコールド負けした時代

2017-07-12 05:36:37 | 2012・1・1
7月のこの時季になると、全国各地は高校野球地区予選が花盛り。遠く離れていても母校の試合結果が気になるものだ。数年前までは80歳半ばを過ぎても旧友誘い合って応援に駆けつけたが、今年はこの酷暑、熱中症にかかってはという気遣いから中止していたが、同学の従弟から試合会場からケータイで2対2の熱戦だと連絡があった。そのあと、旧友二人からも”残念!6対2で惜敗でした”とメールで知らせが入った。

僕は71年前の昭和21年夏の戦後復活第一回の全国中等野球大会東京予選一回戦の東京高師付属中学との試合をまだ覚えている、高師付属中は東京大会で優勝、全国大会でも全国制覇した浪華商業に準々決勝で敗れている強豪だったが、わが母校、攻玉社は高師付属中に7回コールド負けながら、相手からも6点も取った。試合会場は文京区大塚の高師の運動場で、観覧席もなくグランドは芝生などなく砂利まじりであった。母校は20年5月の空襲で焼失、ユニフォームなどなく、選手の中には地下足袋、キャッチャーも剣道のお面をかぶっていた。

昭和21年の亡父の日記の7月補遺。「苛烈だった食糧危機もアメリカの厚意による小麦粉と缶詰でどうやら切り抜けえた。実際、この月、われわれが口にした三度三度の食事はことごとく、アメリカの御救い米であった。もし、アメリカから何もくれなかったら、私たちは餓死を免れなかったあもしれない」子供だったので、僕には当時そんな危機感はなかったが、大変な時代だったのだ。そんな中での野球の試合、応援ー青春時代の1ページであり忘れられない。