「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

陛下の御真影奉安殿も展示の「唐沢(富太郎)博物館」の貴重な資料

2017-08-21 05:53:33 | 2012・1・1
江戸時代の寺小屋から明治維新後現代にいたる日本の教育に関する教材、教科書など7000点を一堂に展示する「唐沢博物館」が産経新聞(8月20日付け首都圏版25面)に紹介されていた。「唐沢博物館」は、東京の練馬区豊玉北にある私立図書館で、東京教育大学などの教授だった唐沢富太郎氏(1911-2005)が、生前私財を投じて全国から集めた資料を先生の没後、三女のるり子さんが自宅を改造して博物館にしたもの。展示物の中には、僕ら戦前教育を受けた世代には忘れられない、各学校にあった天皇陛下の御真影(お写真)を収蔵していた奉安殿の白木造りの実物もある。

昭和43年12月、父の没後、遺品整理をしていた時、僕は唐沢教授が、教育資料を集めておられるのを週刊誌で知り、父が生前、僕ら二人姉弟の小学校時代の成績や絵などを各学年学期ごとに整理して製本していた十数冊を先生の練馬のお宅へ車で届けたことがある。先生は貴重な資料だと大変喜ばれたが、その後先生から、隣家の火事の貰い火で、資料が焼失してしまったかもしれないとお詫びの連絡を受けた。その後、僕は自分の転勤転職などもあって、このことはすっかり忘れてしまっていたが、産経の記事を見て、もしかすると僕らの成績の本が一冊でも焼け残っているかもしれないと電話してみた。

奇跡である。館長のるり子さんは、電話口で、きちんと僕ら姉弟の成績本をご存知であり、類焼から免れたと明言された。半ば僕はあきらめていただけに喜びは一入だ。亡父の僕ら姉弟に対する愛情の力かもしれない。「唐沢博物館」については、ホームページで事前に調べられる。僕も近々訪れ、半世紀ぶりに、自分の成績本と対面したいと思っている。ぜひ「唐沢博物館」への来館をお勧めする.

「東京.戦後ゼロ年1945年―46年」庶民の生活

2017-08-20 05:51:57 | 2012・1・1
”もはや戦後ではない”というのは昭和31年(1956年)の経済企画庁の「経済白書」に出てくる言葉で、当時の流行語となった。しかし、一般庶民の「戦後」のとらえ方は人によって違う。NHKのスぺシアル番組「東京.戦後ゼロ年1945-46年」の予告を見たが、僕にとっては、やはり「戦後」は、このゼロ年である。

亡父が昭和21年8月15日に書いた「敗戦一周年」という随筆があるが、この「戦後ゼロ年」の庶民の生活をうまくまとめているので紹介したい。父の目から見た、この一年間で一番変わったのは日本の軍隊がなくなったことだ。「カーキ色の軍服に長短剣をガチャつかせ、都大路を闊歩していた陸海将兵に代わって、今や進駐軍の兵士が銀座の通りをジープで恰好よく乗り回し、空襲のB-29爆撃機ではなくて輸送機が空からDDT{殺虫剤)をまいているご時世だ」。

「空襲で一面焼け野原になった町にはトタン屋根のバラックが建ち始め、上野、新宿、新橋の駅前には青空の闇市が出現、予科練くずれの若者でにぎわい、一人前千円から何百円と言われる高級料理店もある」「日常物価の値上がりは天井知らずで、湯銭(公衆浴場料金)が20銭から一挙に50銭に値上がり、5銭の葉書が15銭、氷水が一杯3円から5円、カボチャが一つ20円から30円、と、まったく戦慄的な値上がりだ」「食糧事情もだいぶ好転してきたが、連合国司令部の好意によるもので、小麦粉と缶詰によるもので、主食のコメの欠配、遅配で三食トーモロコシの粉だけの日もまだある」

「3月の”旧円封鎖”措置制度で1か月500円生活となったが、依然としてインフレは収まらず庶民の生活は苦しくなる一方、「思想政治の面からは、超国家主義的愛国主義者は公職追放され、民主主義を標榜する新しい顔ぶれになったが、食料危機に便乗した共産党などの不逞の輩も出てきた」

当時僕は旧制中学3年から4年だったが、敗戦で勤労動員から解放された後の「戦後」の、10月一杯、都内の焼跡整理に動員され授業がなかった。その後も食糧難で授業は午前中だけ、教科書もなく、先生が黒板に書く、板書の授業だったが、それでも戦争が終わった喜びの「戦後」を実感していた。

地域の無料「特定健康診査」の有り難さ

2017-08-19 05:47:15 | 2012・1・1
東京は8月に入って連日雨の日が続いているが、昨日その合間を縫って近くの病院で「特定健康検査」を受けてきた。難しい名前の検査だが、住民が住んでいる地域で受診できる無料の健康診断である。対象者は40歳以上の国民健康加入者と後期高齢者医療保険制度の加入者である。検診内容は血圧測定、心電図、胸のレントゲン検査など基本的なチェック。これとは別に希望者には、大腸ガンなどと特定のガンの検診も実施してくれる。

勤めていた現役時代には、年一回の会社の健康診断を”多忙”にかこつけて逃げまわっていたものだが、退職して国民健保に切り替わってから20年ほどは毎年、僕はこの地域のメディカル.チェックは受けることにしている。加齢と共に、自分の健康についての関心が強まってきたのも理由だが、お蔭で僕はこの検査で大腸ガンが発見され、初期(ステージⅡ)の段階で手術出来、大事に成らずに済んだ。

わが国の公的医療保険制度は世界でも冠たるものではないかと思う。国の財政赤字の原因になっているが、世界でもこれだけ恵まれた制度はないのではなかろうか。海外居住の日本人で早逝する人が多い。大企業の人は別として、公的医療保険の特典外の人は、どうしても日常的に医療機関を利用する機会が少ない。このため、退職後海外へ第二の人生を求めて移住した人たちの中には、後期高齢者になると、日本へ逆戻りする人が多いと聞く。

世界一長寿国の誇りにかけても、この公的医療保険制度を維持して貰いたいものだ。




曾野綾子さんの「年頃病」

2017-08-18 05:40:03 | 2012・1・1
作家の曾野綾子さんが産經新聞のコラム「透明な歳月の光」(8月16日首都圏版)の中で”最近深い疲労でろくろく動けなくなった。(中略)昨日今日の疲れではない。80年以上の疲れの溜めこみだ”と嘆かれていた。曾野さんは昭和6年生まれで85歳、僕より1学年下だが、この2月には、御主人の三浦朱門さんを亡くされて、その心労もおありなのだろう。ご同情申し上げる。

曾野さんは、この”病気”を「年頃病」と呼ばれているが、僕も最近めっきり身体のあちこちが痛んできた。もともと夏痩せしない強健な身体を誇っていたのだが、今年は天候不順もあってか、昼間テレビで高校野球を見ていても、昔のように熱中できず、コックリコックリすることが多くなった。そして、この長雨で外出できず、会話も老妻と家族だけに限られてきた。

こんな「年頃病」の中で、同じ年頃の方のエッセーを読むのは嬉しい。同年齢の世代が考え方、感じ方がわかるからだ。若い世代から見れば”年寄りの”繰り言”に思えるかもしれないが、やはり、80年、90年(100年)のこれまで、その人の歩んできた人生の重みを感じる。

同じ作家の先輩、佐藤愛子さんの「九十歳なにがめでたい」がベストセラーだそうである。残念ながら「年頃病」にかこつけて、まだ読んでいないが、ぜひ読んでみたい。90歳まで僕は数年あるが、80歳代と90歳代とでは、考え方,感じ方も変わってくるものだろうか。いずれにせよ「年頃病」になっても健康寿命は保持したいものである。

国防色が消えた 敗戦直後の庶民生活 

2017-08-17 06:21:43 | 2012・1・1
72年前、戦争に負け僕が軍需工場からの動員を解除され、学校に登校したのは8月26日であった。その間、何をしていたのか、はっきり覚えていないが、疎開していた小学校時代の友人を訪ねて、南多摩郡南村(現在の町田市)へ泊まりがけで遊びに出かけたのを覚えている。子供ながらに解放され嬉しかったのだ。

鈴木貫太郎.挙国一致内閣に代わって東久爾内閣が成立したのは終戦2日後の8月17日であった。その2日後の19日、日曜日であったが、天皇陛下は東久爾総理を呼び、閣議の後、燈火管制を廃止し”街を明るくし、娯楽を復活せよ”と発表した。戦争中は敵の空襲に備えて家々の電気は管制され、真っ暗の夜が続いていた。その日の父の日記には、政府の発表を待たず、庶民は”防空頭巾と巻ゲートルから解放され、街行く人の服装からも国防色が減りつつある”と記している。

8月22日には戦争で中止されていた気象情報(天気予報)が3年8か月ぶりに復活した。といっても、当時は電力不足から停電が多く、ラジオからの情報は得られなかったが、進駐軍の先発隊が台風の到来で2日遅くなったという情報は得られた。この年の9月はじめ戦後最大の台風の一つ、枕崎台風が襲来したが、気象情報がなければ、もっと被害が大きかったかも知れない。

学徒動員で僕らが登校したのは8か月ぶりだったが、5月23日の空襲で校舎はコンクリートの本校舎を除き全焼、その本校舎も窓ガラスは破れ、床板は抜けていた。焼け出された一家が、片隅で風雨をしのいでいた。180人いた級友も疎開などで100人に減っていたが、とにかく、工場へ行かず教室で学べる喜びは大きかった。戦闘帽型の学帽はすぐかぶらなくなったが、カーキ色の制服はものがなくそのままだったが。

政府建立海外慰霊碑での追悼式典は

2017-08-16 06:10:00 | 2012・1・1
昨日、終戦の日、政府主催の全国戦没者追悼式典が天皇.皇后両陛下ご臨席で東京の武道館で催された。僕もNHKのテレビ中継を見ながら亡くなられた310万人の英霊に対して、テレビの前で1分間、黙祷を奉げた。全国各地で、同じような追悼式典が催されたが、海外にある政府建立の慰霊碑では、どうだったのであろうか。

日本遺族会のHPによると、政府が建立した海外の慰霊碑などの施設は次の10か所ある(順不同 場所、建立年、戦没者数)①マレーシア ボルネオ.ラブアン島 1982年 12,000人)②東太平洋 マーシャル群島 1984年 23,700人③比島 ルソン島カリラヤ973年 約50万人)④ 中部太平洋 サイパン島マッピ 旧日本兵43、000人民間人12,000人)⑤南大平洋 パプアニューギニア.ニューブリテン島 1980年 127,600人)⑥ニューギニア ウェワク 1989年 127600人⑦ビルマ ミャンマー.ヤンゴン 162,500人)⑧日本人戦没者 ロシア.ハバロフスク 1995年 52,790人)⑨樺太千島 ロシア.サハリン 1996年 8,800人)⑩日本人戦没者 モンゴル.ウランバートル 2001年 1700人)(このほか沖縄の糸満市と硫黄島にも慰霊碑がある)

昨年、天皇皇后両陛下が慰霊の旅に訪れたフィリピンのカリラヤ慰霊碑では毎年8月15日、マニラの日本大使館主催で戦没者慰霊碑がが行われているが、激戦地の一つであったインドネシア(西部ニューギニア)では、82、600人の戦没者を出しながら、政府建立の慰霊碑は一つもない。したがって追悼慰霊祭も行われていない。ロシア領の二つの慰霊施設でも追悼式典が催されたのであろうか。寡聞にして知らないが、靖国神社に玉串を奉納する以前の問題である。昭和31年に政府の遺骨収集船が訪れた際、インドネシアのビアク島など4か所に建てた慰霊碑(仮設)の所在はどうなっているのか厚労省はご存知なのであろうか。

札幌から届いた取りたてのインゲン 終戦記念日

2017-08-15 06:06:45 | 2012・1・1

小ブログを通じて知り合った札幌在住の「頑固親父」さんから郵便局のLP(レター.パック)に入った取りたてのインゲンが贈られてきた。僕がその昔、札幌に住んでいたのをブログで知り、季節折々の野菜をお送り頂いている。頂戴したインゲンは東京のスーパーでは見られないほど新鮮でみずみずしい。それに嬉しいのは、インゲンには自家製の鰹節とレシピまで添えらえてあった。その暖かい心遣いが嬉しい。

今日は72回目の終戦記念日である。昭和20年8月15日正午、母親と一緒に自宅庭先の、小さな防空壕で天皇陛下の「玉音」放送を聞いたのが昨日のようだ。僕は中学3年生、軍需工場へ動員されていたが、たまたま工場が電力不足から電休日だったので、警戒警報下、壕にラジオを持ち込み聞いた。僕が”玉音”を聞いて第一に思ったのは、明日から工場へ行かずに済むという単純な喜びであった。

母親は当時50歳前後だったが、今思うと大変だった。1年前の19年5月、一人娘(僕の姉)を21歳の若さで肺結核で亡くし、その心痛の中で,食糧難のなかで一家の生活を切り盛りをしていた。週に一回は家から電車に乗って、元住吉(川崎市)まで野菜の買い出しに出かけていた。野菜といっても、カボチャとかサツマイモといった、腹が一杯にするものが多かった。政府の方針で葉類の野菜はあまり生産させなかったのであろうか。当時、動員先の軍需工場脇の多摩川の土手から野アザミを摘んできて食べた記憶もある。

今は平和な有り難い時代である。取りたてのインゲンが札幌から飛行機で運ばれ、その日のうちに食卓に上がるのである。終戦の日、モンペ姿で買い出しにかけずり回った亡き母親を想い出し改めて感謝する次第である。





僕の従兄も「徴用工」だったあの時代 誰もがが痩せ細っていた

2017-08-14 05:52:48 | 2012・1・1
戦時中強制されたとする「徴用工」の像がソウルと仁川に設置され、その開幕式があった。おりしも韓国では、「徴用工」として「軍艦島」(長崎県)へ強制的に連行された坑夫たちが過酷な労働に耐えかねて島から逃亡をはかる作り話の映画が話題になっているという。言葉は悪いが、韓国は「慰安婦」に味をしめて、今度は「徴用工」でわが国から”カネをせしめる”つもりなのだろうか。

敗戦時、中学3年だった僕らの世代にとって「徴用工」は日常、聞きなれた言葉であった。国民総動員下、昭和18年の国民徴用令改正によって戦争遂行上不要な仕事についている男子12歳から60歳未満、女子40歳未満の本土の日本人はすべて「徴用工」として徴用された。明治30年代生まれ、当時40歳代の僕の従兄も、呉服屋の店を閉じ、家族から離れて横浜の造船所へ徴用された。

朝鮮半島の日本人は当初、この徴用令の適用外だったが、戦争の激化により19年7月適用されるようになった。当時、僕が学徒動員されていた多摩川べりの軍需工場にも朝鮮から来た徴用工が大勢働いていた。彼らは木造2階建の寮に住み、僕らと同じように朝8時半から仕事を始め、同じように昼食を食べていた。

仁川の徴用工像を新聞の写真を見て、徴用工が過酷な労働を強いられ、食べ物も与えられなかったかのように”骨皮”の様相に造られていた。しかし、あの時代は肥った国民はいなかった。亡父は戦前18貫(約70キロ)あった体重が12貫まで落ちていた。半島からきた徴用工だけが虐待されたわけではない。

神奈川県大和市の旧高座海軍工廠にも、戦争中同じように台湾から少年工8400人が動員され働いていたが、戦後彼らは当時の日本の暖かい対応に感謝して「台湾亭」という記念の建物を作り、公園として大和市に寄贈している。少年工の中には米軍の機銃掃射で命を失った者もいた。同じ日本の統治下にあった台湾と朝鮮とはなぜこのように違うのだろうか。

「1942年のプレイボール」 8人も戦死してる「中京明石」の選手たち

2017-08-13 05:52:42 | 2012・1・1
甲子園の高校野球が今まっ盛りである。昨日も僕はテレビの前で、かって勤務していた北海道の北海高(南)と滝川西(北)に応援を送ったが、残念ながら二校とも善戦むなしく敗退した。若い人たちが元気溌剌、投げ、打ち、走る姿を見るのは好いものだ。それに戦争体験世代の僕らは改めて野球ができる平和の時代に感謝する。

昨夜NHKテレビの土用スぺシアル.ドラマ「1942年のプレイボール」を見た。戦中から戦後すぐの時代にかけて活躍した野口明、野口二郎ら四兄弟の野球人生を扱ったものだ。この時代、実際にプロ野球を見ている僕には懐かしかった。とくに二郎は戦中の昭和12年夏、13年春の中等大会(高校)優勝投手であり、プロ野球に入っても投げてよし、打っては4番の強打者であった。NHKのドラマは長兄の明が、戦時中応召され、手榴弾演習で肩をこわした話に触れていたが、明は昭和8年、25回の延長戦で明石中学(当時)に勝った中京商業(中京大学付属)の捕手だった。

この不滅の延長戦を戦った「中京明石」のベンチ入りしていた8人が戦争の犠牲になっている。明とチームメートであったセンターを守り、後にプロ野球入りした鬼頭数雄がマリアナで戦死してる。また25回を二人で投げた明石の中田武雄、楠本保両選手も犠牲になっている。

「北」がグアムに弾道ミサイルを撃ち込むと脅かせば、これに対応する用意はできているとトランプが応酬する。もう戦争だけはこりごりである。毎日、高校野球をテレビ観戦しながら平和の時代を享受できる幸せに感謝している。

72年前の”不快な情報”

2017-08-12 05:41:07 | 2012・1・1
亡父の残した昭和20年の日記帳の8月11日(土)の欄に”けふ(きょう)も引き続き”不快な情報”を聞く”とある。”不快な情報”が何なのか10日の欄には記述がないが敗戦であるのは間違いない。父は当時、定年後の勤めで外務省の外郭団体の嘱託をしていたので、しかるべき筋から情報をえていたのであろう。

戦後になって調べてみたら、父が”不快な情報”を耳にした10日には午前零時の深夜、最高戦争指導者会議が天皇陛下、臨席で開かれポツダム宣言受諾が決定され、午後8時、モールス信号で連合国側に伝えれている。多分、父はその段階で情報をキャッチしたものであろう。しかし、一般国民にはまだ、知らされていなかった。

”不快な情報”を聞いても父はまだ半信半疑なところもあり、他人に漏らすわけにはいかなかった。12日(日)には知人と一緒に葉山へ海水浴に行き、逗子駅前の外食券食堂で昼飯を食べている。当時、外食券がなければ、食事ができなかった。葉山では造船所の海で泳いでおり”今年の初遊泳、久しぶりに壮快”と記しており”不快な情報”も忘れている。そのあと、13日、14日の日記も私的なことだけで”不快な情報”には触れていない。

そして8月15日の日記には”記憶せよこの日を!”と赤字で大書し”過去5年の大東亜戦争今日にて終了”と欄外に記し、勤め先で天皇陛下の「玉音放送」”を”一同最敬礼して聞き、粛然として襟をただす。各所に起る嗚咽、感無量なり”と書いている。僕は中学3年、東京の多摩川べりの軍需工場へ学徒動員されていたが、15日は「電休日」で工場が休み、自宅の庭の防空壕で母と一緒に「玉音放送」を聞いた。もう72年も前のことになった。