「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

後期高齢者医療保険の窓口負担2割の一律化

2019-09-11 06:00:25 | 2012・1・1
大手企業1400社が加盟している健保連(健康保険組合)が75歳以上を対象とする後期高齢者医療保険の被保険者の窓口支払い割合を一律2割にするよう、厚労省に提案した。いわゆる団塊世代が“後期”入りし始める2025年を前に、医療福祉関係の財政が悪化するのをにらんでの提案である。

のっけから個人的なことで恐縮だが、僕ら夫婦はともに”後期"被保険者で、窓口負担は今は1割だが、数年前までは3割負担であった。理由はよく分からなかったが、住民税が一定の額より大きかったようだ。その期間、僕ら夫婦は運悪く二人とも癌の手術で入院、手術するなど家計に重い負担となった。薬局の支払いが一度に数千円もすることがあった。1割と3割とでは重さが違う。1割のいまは時には子供のおやつ代程度のこともある。

”後期”制度は発足時から”後期”という名前をめぐって評判が悪かった。しかし、名前だけでなく、老人の医療の現実を厚労省というお役所はきちんと把握していなかった。70歳から74歳までの高齢者の窓口負担が一律2割となったのは、”後期”制度の後である。今回の健保連の提案も”後期”被保険者一律2割としているが、例えば”後期”の年齢にかかわらず、70歳代と80歳以上で負担比率を変えるとか一工夫あってもよいのではないか。







ジャカルタMRT駅名のノスタルジア

2019-09-10 05:37:50 | 2012・1・1
関西在住のインドネシア通の友人からジャカルタの邦字紙「じゃかるた新聞」に”ますます発達する交通網”が載っていると知らせを受けた。早速、読んでみると,目抜きのスディルマン通りの各バス停に新しいジャカルタの交通網を示す大きな地図が完成したという。今年3月、市の中心部に日本の協力で待望のMRTの一部が開通して以来、市内の交通機関が次と整備されてきたようである。おそらく地元民でもよく理解出来ないのかもしれない。

友人から新しく開通したMRTの駅名表も頂戴したが、どれも懐かしい。列挙してみる。Kota,Glodok、Manga besar,Sawabaru,Harmoni,Monas,Sarina, 僕は1966年以来、半世紀に二回の長期滞在を含めてのレピーター訪問者だが、どの駅名にもノスタルジアがある。その中でも特に郷愁を感じるのはMangabesarだ。

”マンガ.ブサールの霧の深い河岸通りへ出かけた。全バタビア(ジャカルタ旧名)は蝙蝠の町だ。軒下にも、馬糞臭い辻馬車のたて場にも支那人市場の人のちりつくした市場にもいた”。詩人の金子光晴は今から約百年前、マンガ.ベサールを訪れた際書いている(「マレー蘭印紀行」中公文書)半世紀前、僕も単身赴任の身なので週末になると、蘭印時代からあった歓楽街「プリンセン.パルク」に出かけたが、昼間、運河では住民たちが水浴びや洗濯をしていた。

ノスタルジアではないが、ジャカルタ圏の公共交通網の整備で今,日本の進出企業の拠点になっている西ジャワ州のブカシにも簡単に行けるようになったようである。74年前の昭和20年10月、戦後の混乱期、ジャカルタの海軍警備隊の一行86人がバンドンの集結地へ列車で向かう途中、ブカシで強制下車され、暴徒に襲われ殺されている。事件の真相は不明で、歴史の表ページから消えかかろうとしている。



内閣改造 新閣僚の”身体検査”

2019-09-09 05:12:12 | 2012・1・1
今日、9月9日は年に何回かる新聞休刊日である。ネット情報が普及した現在、一日ぐらい新聞がなくとも、どうということはないのだが、長年、活字を情報源としてきた僕にはやはり寂しい。すでにテレビを見て、勝敗は判っているのに,ひいきチームの勝利を確認したいのだ。

11日の内閣改造を前にしてのこの休刊日を喜んでいるのは”安倍晋三総理ではないだろうか。新聞界の慣習で、改造をめぐってアレコレ予想が駆けめぐるがその雑音がない。購読紙の産経新聞も8日付首都圏版1面トップ記事で”防衛相は河野氏で検討中”とあった。”検討中”だからハズレても、どういうことはないが。一日を争そって伝える記事ではない。

ここ数年、あまり良い慣習ではないのは、改造後新入閣した大臣に対して野党がアレコレ難癖つけて国会の審議が前に進まぬことだ。確かに、中には、たしかにこんな見識な人物を選んだのかと思うが、”ためにする”批判もある。新聞休刊日、安倍総理どうぞ新閣僚を選ぶにあたって慎重に”身体検査”をお願いしたいものだ。
























































大本営発表の軍歌 「敵は幾万」「軍艦行進曲」」 

2019-09-08 05:24:57 | 2012・1・1
”私たちが歌っていた軍歌のすべてです”とわが家で購読している新聞の広告面に軍歌戦時歌謡全集が紹介されていた。全部で108曲、名前を見ると、戦後74年経った今でもほとんどソラで歌えるものばかりだ。無理もない。僕の生まれたのは昭和6年の満州事変の年、小学校に入学した年に支那事変が始まり、16年に戦火は大東亜戦争に拡大、いってみれば戦争の申し子、軍歌の中で少年時代を送ったものだ。

その108曲の中には戊申の役当時を歌った会津の「白虎隊」や官軍の「宮さん宮さん」、さらには「元寇」などあって、軍歌としては首を傾げたくものもあるが、軍歌の双璧といえば、大東亜戦時、大本営が勝利をラジオで流した際のの陸軍の”敵は幾万ありとても”で始まる「敵は幾万」、それに海軍の”守るも攻めるも黒艦(くろがね)”もの軍艦行進曲(マーチ)ではなかったか。

軍歌はそのジャンル、歌った時の年齢によって違うが、僕が記憶にある当時聞いた頻度による軍歌10選は次の通りだ①愛国行進曲②露営の歌③出征兵士を送る歌④海征かば⑤同期の桜⑥月月火水木金金⑦燃えろ大空⑧加藤隼戦闘隊⑨ラバウル小唄⑩学徒出陣の歌。最初の3曲は出征兵士を駅まで送った時の歌。「海征かば」は遺骨を迎えに出たときの歌。軍歌といってよいのかどうか。

軍歌を聴いたり歌ったりする機会がめっきり少なくなってきた。かってはパチンコの店先からも道行く街宣車からも聞こえてきたが、今では老人会に出ても戦後生まれ、軍歌を知らない老人が出てきた。











90歳老後の幸せ 徳川家康の遺訓

2019-09-07 11:42:10 | 2012・1・1
家人が近所の図書館から作家、佐藤愛子さん(96)のベストセラー「九十歳何がめでたい」を借りてきたので遅まきながら一気に読ませて頂いた。自分が卒寿の歳に差し掛かり、人生の先輩として参考になることが多かったが、僕の読後感は人生、やはり徳川家康の遺訓”人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが如し"ではないかという結論であった。

佐藤愛子さは直木賞作家で、父親は佐藤紅録、義父兄サトーハチロ―と文人一家だが、半生は離婚、破産の繰り返し、波乱万丈だったが、現在はお元気で東京の娘さん一家と同じ屋根の下に暮らし、夏場は北海道浦河で別荘生活を楽しまれている。一般老人からみれば幸せ一杯だ。

そんな佐藤さんだが、88歳の時、最後の作品「晩鐘」を書きあげ、これで”何もかも御終い”と思い、ゆっくりとした老後の生活に入った。ところが、いつまでもベッドでモソモソしていて気が籠らないのだそうである。佐藤さんは今年96歳にして「冥界からの電話」という新作品を出版した。自分のことで恐縮だが、僕も12年来ブログに駄文を書いているが、性格なのだろうか、のんびりできない。昔はのんびり出来ないのは”貧乏根性”といったが、長生きしたければのんびりしてはいけない。家康はあの戦乱の世に73歳の長寿を全うしている。


























































コケにされた安倍総理 日露首脳会談

2019-09-06 12:47:46 | 2012・1・1
ロシア極東のウラジオストックの東方経済フォーラムに参席した安倍晋三総理がロシアのプーチン大統領と首脳会談した。通算27回目、まさにギネスの記録ものだが、大方の予想通り、両国間の平和条約、領土問題については進展は見られず”先送り”となった。

領土問題については1956年の日ソ(露)共同宣言で平和条約締結後は歯舞、色丹を日本側に譲り渡すことがはっきりしている。にも拘わらず、以来60余り年交渉が進展しないのは、問題が複雑化してしまったからだ。しかし、ロシア側は歯舞、色丹の先行返還は十分承知しているはずだ。

それなのに、プーチン大統領の安倍総理との会談を前にとった行動は何か。経済フォーラムの会場から色丹島に自力で完成した水産加工工場の稼働式典にテレビ中継で参加している、日本の常識では考えられない。安倍総理はコケにされたといわれても仕方がない。

産経新聞の社説(主張)は”どうして席についたのか”と安倍総理がプーチンの無礼な行動にも関わらず、会談したのを批判している。進展がなかった首脳会談なのに事務方では、来月、領土での観光事業を推進する話し合いをする。いったいどうなっているのか。27回も会ったこだわりはわからないではないが、総理は狸穴のタヌキに誤魔化されているのでは。





GIカット リーゼント 慎太郎刈り

2019-09-05 05:56:21 | 2012・1・1

昨日、老妻の付き添いでバスで二停留所先の大型スーパの七階にある格安理髪店に出かけてきた。昨年までは駅前の髭剃り洗髪つき4100円の馴染みの床屋さんのお世話になっていたが、ほとんど調髪する余地もない昨今である。ただ髪をバリカンで刈るだけでも格安店の老人割引1050円は魅力である。おしゃれ心が失せた老人だが、長く延びた白髪はうっとうしいし見る目にも不潔だ。

その僕がまだ若かかった1950年-60年代には、男の髪型としてGIカット、リーゼント、慎太郎刈りが流行した。GIカットとは占領軍として来日したGI(米国兵)のショートカットで、スポ―ティな感じが受けた。リーゼントは多分当時のロンドの真似なのだろう。長髪の後ろ毛を両側ピタリと撫でつけたのが特徴であった。「柳屋」のポマードと「丹頂」のチックがとぶように売れたものだ。慎太族刈りは、ご存知”太陽族”芥川賞作家の当時のスポーティな髪型。

石原慎太郎氏も小池百合子都知事への”中年女の厚化粧”発言以来、女性から嫌われ、マスコミの露出度が少なくなってきたが、たまにテレビの画面で見かける石原氏は86歳にしては髪も若々しい。過ぎさりし青春の日が懐かしい。老人用に第二の晋太郎刈りを考案されてはいかが。地毛では出来ないが、カツラなら真似ができる。馬鹿馬鹿しい閑話一席です。


外国人労働者の入国枠拡大と八千代町の実習生による殺人事件

2019-09-04 05:03:41 | 2012・1・1

茨城県八千代町の住宅で深夜老人夫婦が死傷され、近くに住むベトナム人の農業実習生(21)が逮捕された。青年は昨年11月、企業の実習生として来日、町内の外国人実習生共同住宅に住み、被害者の住宅近くでも作業をしていた。八千代町は茨城県の西部にあり、町ではあるが、白菜の生産量日本一という「農村」である。

事件んを知って僕は今年4月から実施された外国人労働者増を狙いにした入管法改正について思い起した、当時小ブログは”入管法改正、見切り発車で大丈夫なのか”(3月31日更新)と批判した。かってボランティアとしてインドネシア人の就労活動を援助したことがあり、多少この面で知識があった。僕の経験では外国人就労をめぐって最大の問題は就労ブローの介在であった。

やはり、僕が危惧した通りであった、それも政府のおえら方が介在していたというので驚いた。厚労省の政府NO3の政務官が、法務省入管管理庁への”口きき料”を取っていたのだという。私利私欲殻からの行為ではなそうだが、官庁間でこのような取引が行われていたとすれば、何のための入管法改正だかわっからない。

企業実習生にはなん種類かあって滞在許可年数も違うが、4月からの法改正で、将来的には最大20年も滞在仕事ができるという。八千代町の容疑者の青年は昨年11月来日したそうだがら、法的には滞在期間はあと2か月である。犯罪との間にこれが関係あるかどうかは不明だが、4月の法改正後,外国人労働者の間にどのような変化が出てきたのであろうか。


膝の痛みとの我が10年の闘争の記

2019-09-03 05:52:43 | Weblog

”膝の痛みは認知症も 国民病早めの診断を”という見出しで産経新聞(9月27日付首都圏版生活面)が変形性膝関節症(膝OA)の記事を載せていた。40歳以上の日本人の約三分の一、推定2500万人が膝OAといからまさに国民病であり、この病が引き金で認知症にもなりかねないというからゆゆしき問題である。

認知症かどうかは別として、僕のこの10年ほどは膝OAの痛みとの闘いであった。僕が左膝に違和感を感じて近所の整形外科医医の診断を受けたのは2009年、10年ほど前、78歳の時だ。医者の診断は半月板摩耗からくるものだった。当時あまり知識のなかった僕は冗談交じりに、スポーツ選手にありがちな損傷と勘違いし”名誉の負傷”などとブログに書いたりしていた。それでも医者の指示に従って電気療法を受けたり、マッサージを施術を受けた。しかし、痛みは治療を受けた直後は良いが一向に良くならない。2011年には、スポーツクラブへ通い水中歩行をしたりしたが、その場限りの療法であった。

結局、2013年、82歳の時。家人の勧告で近所の総合病院で診断を受け、入院して人工置換手術を勧められた。80歳を越えた高齢であり手術にはためらいもあったが、思い切って1か月入院入院した。昨年まで、手術後の事後経過の診断を受けていたが、5年間の経過問題がないので今は通院していない。痛みもなく、自分の足で歩行しているが、先月から週に一回、介護施設でリハビリを受けることにした。

自分の10年間の体験では、産経新聞の記事でも紹介しているが、膝OA患者の41.5%が”そのうち痛みは治まるだろう”と思い専門医の診断を受けていないことだ。考えてみれば、摩耗した骨が復活するわけはない。膝が痛ければどうしてお閉じこもりがちになり、認知症の引き金にもなる、早い時期での専門医の診断をお勧めする。

 

 

 

 

 

 


関東大震災 自然災害教訓の伝承  犠牲者への慰霊

2019-09-02 04:25:16 | 2012・1・1

「9月1日」というと、僕ら昭和1ケタ生まれ世代は大正12年(1923年)9月1日、東京中心に起きた関東大震災の日が思い浮かぶ。実際に体験したわけではないが、もの心つく頃から、この日が来ると父母をはじめ周囲の大人たちから地震の体験談を耳にしてきた。その関東大震災も発生して96年、実際に地震を体験し記憶にある人はほとんどいなくなった。しかし、「防災の日」として国民の間で定着してきたのは良いことだ。

毎年、最近は8月は戦争を想起する月なっててきた感じで、マスコミ戦争特番が多い。たまたまその一つNHKラジオの深夜便のコーナー「あちこちのスズさん」をきいた。スズさんとは若い人に人気の主人公だそうで、そのスズさんが戦争について感想をのべ合う番組のようであったが、ほとんどが祖父母から聞いた話であった。祖父母とは僕らの世代であり、戦争も伝承の時代になってきた。

関東大震災は伝承の歴史的な出来事になってきたが、たった百年前の惨事なのに現在、隅田区横網町の横網公園が陸軍の被服廠跡で、大地震後発生した強風で火災を避けて逃げ込んだ3万8千人が焼死した慰霊堂が建っていることなどどれだけの都民が知っているだろうか。地震という自然災害が「防災」という形で引き継がれたのは結構だが、犠牲者への「慰霊」が忘れられている気がする。地震発生の午前11時58分から1分間でも黙祷を提唱したい。