ひまわり先生のちいさな玉手箱

著書「ひまわり先生の幸せの貯金箱〜子どもたち生まれてきてくれてありがとう」

くくるの明石焼き

2011年08月24日 | メッセージ
カウンセリングのお昼休み。
博多駅がリニューアルして初めて、今日、お昼を食べに来ました。

いつも人が多いけど、
今日も夏休みで賑わってます。

博多阪急地下
フードコート
大阪くくるのたこ焼き
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大きな明石焼四個で262円。
添付のしょうがを入れて食べ、
残りの出汁までいただいちゃいました。
本場で食べた明石焼と、少し違う気がするなあ…
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不平不満を止める

2011年08月24日 | メッセージ
「嫌なものは、嫌で良い」

皆さんは、そう、思えますか?

私は、両親が共働きだったため、
生まれて2ヶ月くらいから、
乳母が自宅に来てくれていたらしいです。とても優しい方で
その方が編んで私のために作ってくれたワンピースが残っています。
NHKの朝の連続ドラマ「おひさま」を見て似ていると思いましたが、
仕事の合間に、母は
職場から歩いて五分の自宅に戻って私にお乳を飲ませてくれていました。
東京オリンピックが開催された1964年当時の産休と言えば、
公務員だった母の
場合、出産前後、合わせて二ヶ月しかなかったそうです。
おまけに、保育所の数も足りず、
私も、例に洩れず待機児として保育所に入れるのを待っている時期があり
保育所の空きが出るまでという中途半端な条件で近所のおばちゃんに預けられました。
おばちゃんからすると、
いつ保育所の空きが来るとも分からないので、
とりあえず少しだけ預かる私より、
私より先に生まれてすぐから預かっていた1歳くらいの女の子の方が可愛くえこひいきしている様子でした。

しかも、ちょろちょろ動き回る2歳くらいの私にイライラして怒鳴りつけ
じっとしておく事を強要しました。
私は、生きていくために
良い子にして我慢しました。
生後8ヶ月で歩き、1歳で走り回った私は、もともと活発だったのでしょう。
おばちゃんは、母が迎えに来た時は、
急に良い人そうに振る舞い
幼い私は、違和感を覚えました。
言葉で表現することもママならず
どうやら、私は、信用出来ない大人がいることを学んだ上、
それ以来、良い子にして我慢することを覚えたようです。
兄が中学校に入学し、部活を始めると、
それまで相手をして遊んでくれていた兄の帰りは、極端に遅くなり
小学生の私は、親の帰りを一人で待つようになりました。
あの頃は、学校の留守家庭学童保育は、ありませんでした。
一人の留守番の時間は、ちょっと風の音がしても、泥棒かと怖く、
寂しく、心細いものでした。
だから、私は、我慢強い性格になっていました。

「もう、我慢の限界、留守番が寂しいから仕事を辞めて」と
母に訴えて母を困らせたのは、
幼い頃か10年は、耐えて我慢した後でした。
実際、留守番中、時々お腹が痛くなり、コタツの中で一人でうずくまり、耐えていました。
あんまりひどいと一人で、内科に、
歯が痛くなれば、
歯医者に一人で通いました。
当時の私には、それが当たり前でした。
お腹の痛みが限界で外科に行き、虫垂炎と診断された高校3年生の時は、
お医者さんから
「まだ、手術はそんなに急を要しない。切っても、散らしても良い。」と言われ
私は、「散らすくらいなら、切ってください。」と
親に言う前に、自分一人で手術を決めて帰り
母に「盲腸の手術するけん」と言ったことを思い出します。

3児の母になった今では、
甘えなさ過ぎ、頼らなさ過ぎ、良い子過ぎだったなあと分かります。

だから、つい、嫌な事があっても
鈍感で我慢してしまい、
溜まりに溜って爆発するか
不平不満になってしまいます。
「ああしてくれれば…私は、~だったのに」と思い通りにならないことを
つい、人のせいにしてしまいます。

そして、何をしても、しなくても
満足しないのは、
人のせいにするから、
嫌な気持ちを我慢するからなんです。

日常生活のちょっとした嫌を我慢しないことが大切です。
コメント (9)
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