Creator's Blog,record of the Designer's thinking

フィールドワークの映像、ドローイングとマーケティング手法を用いた小説、エッセイで、撮り、描き、書いてます。

Village Design6. 南舟木

2007年10月18日 | field work
 前に紹介した北舟木から安曇川(あどがわ)を渡ると、南舟木という集落がある。地形図で見ると安曇川を挟んで、琵琶湖と平行に翼をひろげたように、これらの集落が配置されている。こうした配置形態は、20世紀にルシオ・コスタがデザインしたブラジルの首都ブラジリアを思い出させる。人造湖に面するといった立地も類似している。といって安曇川の集落は、それに比べれば規模は、比較にならないぐらい小さいのだが歴史は、はるかに古そうだ。風土が異なりながら配置形態の類似性がみられるといった事例は、世界的にも幾つか散見すると記憶しているが、集落や都市の形態の背後には、形態を成立せしめている必然性なり要因があると考えるのが、私達環境デザインを専門とする立場では、一般的な認識である。そうした形態の背後を探ってみよう。
 安曇川町史[注1]では、荘園化して舟木の荘などの成立をみたと記載されている。荘園とは、奈良時代後期から鎌倉時代まで続いた貴族の農園であるから、中世には、舟木という集落が成立しており、長い歴史がある。さらに同史は、「近世から明治期にかけて新田開発が進み、・(略)・・南舟木・・を除いては、ほとんど村高に変化がなく、ほぼ同じムラ規模を保って今日に至っている」とする記述から、南舟木は、近世以降に規模拡大し形成されたとみられ、北舟木よりは新しい集落だと解釈した。地形図[注2]でみれば、翼の左右が、 歴史の大きな時間差によって新旧の形状を装ったとイメージすればいいのだろうか。さらに舟木を始めとする安曇川の集落は、湖流が土砂を運搬し堆積してできた浜堤の上に立地し、排水、かんがい、土盛りの技術開発によって農耕地を開拓し、発展してきたことが記されている。
 同史は、安曇川(あどがわ)という町名の読み方にも言及し、古くは、安曇(あど)(あずみ)は、古代の海人(あま)族[注3]の名であったと記している。また2〜3世紀頃の漁網に使ったとされる土製の沈(しずみ)が出土し、当時既に古代人の生活があったことが記述されている。
 従ってこの地域は、古代から琵琶湖の漁による生業が可能となるなど資源に恵まれ、生活できる良好な環境があり、そうした環境の良さに着目した中世豪族が、開墾技術開発を伴って安曇川流域に荘園を築き、この地域の基盤を形成してきた。今眼前にみられる舟木の集落は、そうした豪族ら館の末裔なのだ。これら集落は、こうした歴史的必然性を持って配置されてきたのだと私は解釈した。
 私が地形図のなかから抱いた、この集落に対する興味や、実際にこの地を尋ねた際に感じた集落景観の魅力の背後には、歴史的必然性が存在していたのである。これこそが、配置といった形態的魅力を形成している要因だと、私は思う。形態や景観などに代表される表層は、歴史的必然性といった深層要因によって成立しているのである。ものごとの表面だけ見たって何もわからない。表層は、深層を暗示している手掛かりなのだろう。
 
注1. 滋賀県市町村沿革史編さん委員会編:安曇川町誌,非売品,1967.
注2. 国土地理院地形図1/25,000,勝野.
注3:縄文・弥生時代以前から海辺で棲息していたとされる 日本人の源流。物部氏はその典型例といわれている。
 
2007年6月撮影.
FinePix S5pro,NikkorF2.8/35-70mm.
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