さて郊外の風景の着彩をし終わってふと考えた。
アチキは大学の先生だから、年末になると学部4年生の卒業論文の完成版を審査する。卒業させるか留年させるかの判定が必要なのだ。それは日本のどこの大学でもおこなわれている日常の風景だ。
毎年そうなのだが、学部生達の卒業論文を初めて読んで愕然とする。
あら!、注がないじゃん!!。そんなのはまだよい。手直しさせれば済む話だから。
論述が間違っているじゃん、直せば済むだろう。
誰かの文献の盗用じゃん、留年させれば良いさ。
なかには、手直しできない場合もある。
あら学生の使った資料と実際の文献が違うのではないか。そう思って図書館で文献検索すると、学生の論文内容を裏付けるはずの資料が全然違うではないか。
早速学生を呼び出して事情を尋ねた。
つまり資料は全体の1/2以下しかコピーできないという著作権法上の制約があるから、飛ばし飛ばしコピーしていった。もちろん奥付もコピーしたけど、論文を書いているうちにコピーがバラバラになってしまった。そこからコピー内容と文献名などを記載した奥付とかバラバラになってしまった。もっとわるいことにパソコンにデータ入力したが、パソコンデータとコピー資料をつなぐ記述をしなかった。つまりデータと、この元を繋ぐモノが何もないのだ。
入手した資料と、これをもとにつくったデータ及び卒業論文とが一致しないのであれば手直しできない論文だから不合格で留年かぁー!。そうは思っていても救済策を考えなきゃ・・・。
そんなことがよくおきる。
アチキがまだしっかり指導しているからましな方なんだけど、某私学では、論文を出せば卒業できるところが大半だ。そうなると先生も卒業論文などを読まない。学生達は、簡単で良かったと喜んで社会へ巣立ってゆく。
まてよ、そんなのが今の社会にあふれているんではないかい。そんなのでいまの社会ができていたら・・・。
そう考えると思い当たる節が随所にある。役所のゴミの出し方など、分類基準が整理されていないから先ず意味不明だし、・・・・、そんなのをあげたらキリがない。
ひょっとして、卒業論文も書かないで社会へ飛び出してきたんだ。それが今の社会を構成している・・・やばいぜ・・アホ社会じゃないか。日本の危機!?・・・。
・・・
小樽の雪は、まだ融けない。