緊急事態宣言が発出された1月中旬の京都の街。
そんなモノが発令されなくても感染の属地情報が公開されていないのだから、ワクチン接種迄、外を歩くことが少ない。この頃、警戒宣言は1ヶ月では終わらないなと考えていた。それでもスポーツクラブ、クロッキー教室など生活上必要最小限度の外出はするし、そんなついでに撮影している。今日は七条のマッサージ屋へゆくついでに・・・。
以前こんな機材マニアのブログ記事を読んでいた。
「せっかくの休日で天気もよい。撮影機材一式をかついて、今日は力いれて撮るぞ!・・・」
そんなに意気込んだって被写体が都合よく出現してくれるわけではない。撮影は、自分が動くか、被写体が登場するまで自分が待つか、の二つの方法しかない。
自分で動くなら、なにかのついでに撮影するしかないし、待つのであれば、例えばヒマラヤのユキヒョウを撮るので雪山にテントをはって何日も待つ、といった具合にだ。つまり撮影目的をもってでかける、なんていうことはフォトグラファーでもない限り、本来無理筋だろう。
高校の頃、機材マニアの友達に誘われて銀座のニコンサロンに足繁く通わされた。ここがなんともペダンチックな世界(学識ありげにみせるさま)といったらよいか。
やってくるニコンフリーク達はニコン機材の自慢話ついでの撮影論は沢山聞かされたが撮影した写真は1枚も見せてくれたことがないし、写真家は先生とあがめ奉られ本人も恥ずかしい思いをしていたのだろう。
写真家って、そんなに学識があるんだろうか?、そう思って当時の名だたる写真家の学歴を調べたら、たいして勉強してない。大方は専門学校で学び、その後の社会経験で表現や技術を学びとった。よくて大卒、大学院の修士課程までいったトップは、奈良原一高さんぐらいだ。もちろん博士の学位をとった写真家は皆無。それもそのはずで写真の表現論位じゃ博士論文にはならないのだろう。つまり写真の世界は、学識とは無縁の世界だった。
当時ここは、撮影機材を持っていない私としては肩身の狭い世界だった。それで高校を卒業するとさっさと絵画の世界へ滑り込んだ。私にコンプレックスしか与えてくれなかった煩わしいニコンサークルとは、おさらばだ。そんなわけで、私は今もニコンという機材が嫌いなのである。さらにニッコールというレンズも大変地味で興味がわかない。だから今でもフィールド機材はEOS1Dsだ。
その後西麻布の会社でデザインの第一線の仕事をしていて、多数の写真家と接する機会があった。その時、写真は本をつくる行為や出版社と関係がないと成立しないのだということを学んだ。その後私は、大学の先生になったから、本をつくるために写真を撮る事は継続していた。
コロナ禍でフィールドにでられなくなり、時間つぶしにフィルムで撮影しだすと、手元にあるフィルム機材はニコンとライツしかない。だからやむなく使っている。それに文献複写用のマイクロニッコールレンズと数年前に何十年ぶりかでニコン製品を調達したDfボディでネガのデジタル化をしている。
京都市
ニコンF3HP+MD4、Carl Zeiss Planar50nn/F1.4、Distagon[25mm/F2.8、トライ-X(+2増感)
現像:写真弘社