伊吹文明新文科相が早期英語教育に反対、国語教育がより大事と「個人的な見解」を述べたが、英語から国語教育に重点が移されるということはなさそうだ。
ちょうど「文芸時評という感想」(荒川洋治 四月社)を読んでいたら、「ごん狐」の授業が紹介されていた。産経新聞連載の文芸時評12年間分をまとめたもので、以下は1995年12月に掲載されたものだ。
<十一月二日、広島県呉市立五番町小学校で開かれた研究集会を見学した。同校は平岡政昭校長のもとで、四年前から「音読」を積極的にとりいれた国語の授業を続けている。
その日、「ごん狐」(新美南吉)の公開授業をのぞいた。先生は児童たちにその作品のなかの「おやあ」という会話の部分を「音読」させる。たとえば中山くんが「おやあ」と読む。先生は、中山くんのその「おやあ」はどういうものかな、ときく。すると「あの人がまさか」と答える。他の子は「こんなところで」だったり「たんなるおどろき」だったり。どれが正しいわけではない。みんなで並べあって、言葉の心を見つめていく。
子どもたちは大きな声を出す。しかも体全体をつかうので、国語の時間というより体操の時間みたいになる。頭脳で理解するのではなく、言葉を体全体で「体験」するところに狙いがあるようだ。先生も子どもたちも授業中とは思えないほど、いきいきしていた。
前夜お目にかかったときの校長先生は、明日の研究集会がうまくいくか心配らしい。たて続けに何本もたばこを吸っていた。そのようすから、この先生ははにかみやで、繊細な人なのだとぼくは感じた。そういう人だからこそ、思い切ったことができるいのかもしれない。
(中略)
「音読」授業にはぼくとしても感想がないわけではない。ぼくが子どもだったら「音読」なんてはずかしくてできない。「おやあ」がいえなくて学校に行くのがいやになったかも。でもある地点を乗り越えるとこうした授業はとても楽しいものになる。かりに「おやあ」の解釈はできなくても、「おやあ」の声を出すことができれば、それもひとつの表現であると認められるのだ。自信を持つことになる。
(中略)
五番町小学校の、ある授業では、子供たちにコンピューターをひとつずつ持たせる。そして各自が、ある詩の一行をどんなふうに読むか、アクセント、休止のポイントを画面に示す。それをみんなで見つめ、意見をかわすというものだった。
(中略)
なお、他の教科も含めた五番町小学校の記録は「学びあい、深めあい、認めあう授業の創造」と題する冊子にまとめられた。>
「音読」授業の見学から、現代の小説の言葉に「コブシやリズム」が失われ、平板になっているのを文芸批評家は問題とせずと批判する下りがあり、
<そしてだいじなことは、小学校の国語の時間と、おとなたちの文学がどう結びつくかということだろう。言葉への愛と親しみは、子供のときにはじまる。おとなになってからではどうにもならないことかもしれないのだ>
と荒川さんはいう。
伊吹文明新文科相の「個人的な見解」(なら発言すべきじゃないが)には、俺も同感だ。同意できないのは、たぶん伊吹新文科大臣がイメージしている国語教育とは、上記のような授業ではなさそうだからだ。複雑で膨大な知識や情報を理解するための基礎力となる国語教育の強化、あるいは美しく豊かな日本語の伝統を身につけるといったものだろう。いずれもそれ自体は、誰しも反対するようなものではない。しかし、まったく時代性と社会性を欠いているという点で、積極的に賛成しようがないものだ。はたして、「学びあい、深めあい、認めあう」という関係性を伊吹文明新文科相は是とするだろうか。「子供たちはなかよくね」という話ではなく、荒川さんのいうようにおとなたちの問題として。
ちょうど「文芸時評という感想」(荒川洋治 四月社)を読んでいたら、「ごん狐」の授業が紹介されていた。産経新聞連載の文芸時評12年間分をまとめたもので、以下は1995年12月に掲載されたものだ。
<十一月二日、広島県呉市立五番町小学校で開かれた研究集会を見学した。同校は平岡政昭校長のもとで、四年前から「音読」を積極的にとりいれた国語の授業を続けている。
その日、「ごん狐」(新美南吉)の公開授業をのぞいた。先生は児童たちにその作品のなかの「おやあ」という会話の部分を「音読」させる。たとえば中山くんが「おやあ」と読む。先生は、中山くんのその「おやあ」はどういうものかな、ときく。すると「あの人がまさか」と答える。他の子は「こんなところで」だったり「たんなるおどろき」だったり。どれが正しいわけではない。みんなで並べあって、言葉の心を見つめていく。
子どもたちは大きな声を出す。しかも体全体をつかうので、国語の時間というより体操の時間みたいになる。頭脳で理解するのではなく、言葉を体全体で「体験」するところに狙いがあるようだ。先生も子どもたちも授業中とは思えないほど、いきいきしていた。
前夜お目にかかったときの校長先生は、明日の研究集会がうまくいくか心配らしい。たて続けに何本もたばこを吸っていた。そのようすから、この先生ははにかみやで、繊細な人なのだとぼくは感じた。そういう人だからこそ、思い切ったことができるいのかもしれない。
(中略)
「音読」授業にはぼくとしても感想がないわけではない。ぼくが子どもだったら「音読」なんてはずかしくてできない。「おやあ」がいえなくて学校に行くのがいやになったかも。でもある地点を乗り越えるとこうした授業はとても楽しいものになる。かりに「おやあ」の解釈はできなくても、「おやあ」の声を出すことができれば、それもひとつの表現であると認められるのだ。自信を持つことになる。
(中略)
五番町小学校の、ある授業では、子供たちにコンピューターをひとつずつ持たせる。そして各自が、ある詩の一行をどんなふうに読むか、アクセント、休止のポイントを画面に示す。それをみんなで見つめ、意見をかわすというものだった。
(中略)
なお、他の教科も含めた五番町小学校の記録は「学びあい、深めあい、認めあう授業の創造」と題する冊子にまとめられた。>
「音読」授業の見学から、現代の小説の言葉に「コブシやリズム」が失われ、平板になっているのを文芸批評家は問題とせずと批判する下りがあり、
<そしてだいじなことは、小学校の国語の時間と、おとなたちの文学がどう結びつくかということだろう。言葉への愛と親しみは、子供のときにはじまる。おとなになってからではどうにもならないことかもしれないのだ>
と荒川さんはいう。
伊吹文明新文科相の「個人的な見解」(なら発言すべきじゃないが)には、俺も同感だ。同意できないのは、たぶん伊吹新文科大臣がイメージしている国語教育とは、上記のような授業ではなさそうだからだ。複雑で膨大な知識や情報を理解するための基礎力となる国語教育の強化、あるいは美しく豊かな日本語の伝統を身につけるといったものだろう。いずれもそれ自体は、誰しも反対するようなものではない。しかし、まったく時代性と社会性を欠いているという点で、積極的に賛成しようがないものだ。はたして、「学びあい、深めあい、認めあう」という関係性を伊吹文明新文科相は是とするだろうか。「子供たちはなかよくね」という話ではなく、荒川さんのいうようにおとなたちの問題として。