コタツ評論

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いじめ事件と隠蔽

2006-10-19 11:12:02 | ノンジャンル
福岡県筑前町のいじめ自殺事件が連日ニュースの一角を占めている。正確には、いじめ自殺事件より、それを隠蔽しようとした教委や校長の対応が毎日のニュースをにぎわしているわけだが、いいかげんマスコミと世間のカマトト振りには飽きてきた。こういう隠蔽体質は、何も教育界にだけ顕著なものではなく、日本の組織には骨がらみ、組織の飯を食った者なら誰でも知っていることじゃないか。いまさら、驚いた振りをするのに驚かないか。俺は驚く。


みながさしたる悪徳とも思わず日常的にやっている隠蔽を、何か事件が起きたときだけ非難し罰することがいったい何の役に立つのか? それが証拠に、文科省の統計ではたしか過去5年間、いじめによる児童生徒の自殺は1件も起きていないことになっている。これはもはや建前との乖離なんてものじゃない。「日本を美しい国にしたい」その言やよし。つまり、いまは「醜い国」なのだ。どのくらい醜いかを直視することからはじめようじゃないか。

いじめとは、周囲のたくさんの子どものちょっとした悪意や無関心の集積によって自殺にまで追い込むほど、いじめられた子どもの現世を地獄にするものだ。ならば、どんなちょっとした言動があったのか、詳細に調べて、この逆を実現すれば処方箋となるのではないか。まず、ちょっとした挨拶や笑顔を子どもたちにさせれば、そのとき相手を見ることになる、ちょっとした気配りができるのに気づく。「やあ」「元気?」からだ。そんなちょっとの集積がどれほどの影響を子どもたちに及ぼすか、いじめ事件から検証できるはずだ。誰かをいじめられるなら、同じように誰かを認めることもできる。いじめ返されるのは恐れるが、認め返されるのは誰しも嬉しい。誰かの誰かへのいじめはなくならないかもしれないが、あたかも全員が特定の誰かをいじめるような状況はなくなるように思う。

同様に隠蔽の心理や仕組みを詳細に検討することで逆転できないか。まじめに検討すれば、やがて日本の組織論に逢着するだろう。必ずしも隠蔽を悪徳視しないのは、実は仮に組織と名付けられた人間の集合を守るためだが、それは同時に組織の弱さを保持してしまうという矛盾した結果に気づくはずだ。では、なぜこれまで組織としての弱さが致命的なまでには拡大せず、人間の集合でどうにかやってこれたのかに考えを移すことができるだろう。いじめは悪い、隠蔽は間違っている、という演繹的な出発点ではなく、いじめや隠蔽を帰納的に遡行する努力が必要だと思う。それが、さらなる「醜い日本と私」をあぶり出すとしても。
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RIZE

2006-10-19 00:37:06 | レンタルDVD映画
イーオン・フラックス
CG栄えて、SF滅ぶ。絵は壮大になったが、構想力は小さくなった。もしかすると、「2001年宇宙の旅」の悪影響なのか。あれは空想科学ではなく、超現実主義なのに。

ポセイドン
本家の「ポセイドンアドベンチャー」では、豪華客船が転覆して上下逆転するところに、セレブたちの栄耀栄華が奈落の底に落ち、多彩な人間模様が暗転していく残酷味に観客のカタルシスがあったのに、911の影響か、栄耀栄華と奈落に舌なめずりする暇もなく冒頭すぐにポセイドンは転覆し、数人の生き残りを賭けた力行が延々と続く。不戦敗。

ヒストリーオブバイオレンス
暴力に悪や正義の名札はつかない。暴力はただの暴力。そう言い切った反暴力の暴力映画。

プロデューサーズ
メルブルックス、老いたり。

RENT
家賃(RENT)も払えないような貧しいが夢を持ち続ける若者たちのミュージカル。
これは口に合わなかった、残念。

インサイドマン
一流の俳優とスタッフによる二流の作品。なるほど、これなら完全犯罪が成り立つかもと誰もが思うトリックに飛びついたのだろうが、それほどよくできたトリックだろうか。たとえば、犯人は銃を持っていた。指紋をつけないために手袋をしていたか、なにか指先に細工をしていたはず。それを追及すれば、人質と区別はつくのでは? 観客にそんな粗探しをさせないために、人間の気ままが起こす偶然や無意識の怠慢やドジ、何より欲望を描かなければ。


RIZE(ライズ)
つねにロス暴動の発火点となる貧民街サウスセントラルの若者は、ギャング団に入るかクラウンに入るかの2つの道しかないという。各種のパーティやイベントなどに出張してダンスを披露して稼ぐ「クラウン(道化)」と呼ばれるアフリカンアメリカンの若者のダンスグループのドキュメンタリ。とにかくそのダンスが凄い。冒頭、「この映画のダンスシーンは早回し撮影ではありません」という注意書きが入るくらい、速くて激しく複雑なステップと振りが次から次へ、幼児から屈強な青年、デブまでそれぞれオリジナリティに溢れた全身ダンスが身上だ。といっても、彼らは芸能界デビューを夢見る予備軍、ではない。

「ヒップホップ? 焼き直しに過ぎない」
「ハリウッド? 行かないね、潰されたのを知っているから」
「ダンススタジオなんてここにはないからね、教えられたものではなく、街頭からいつのまにか生まれたダンスなんだ」

大劇場を借り切って開催された創始者クラウンと新興のクランプのダンスバトル。幼児対決、デブ対決、クイーンやキングを争って1対1で交互にダンスを踊り、観客の歓声で勝敗を決する。出場者全員、ほとんど人間離れした動き。評価する観客も全員がダンサーみたいなもの。双方向性? そんなちゃちな関係性じゃない。部族だな、これは。たまたま、ドキュメンタリ映画として記録されたが、彼と彼女らは、毎日のように仲間同士の会話や他グループと出会い頭のセッションで、瞬間の気持ちや主張を込めた一回性のダンスに興じて、自分を語り、会話しているのだ。額縁に納まりかえって観客と鑑賞に縛られたタブロー芸術をあっさり乗り越え、いまこの瞬間もサウスセントラルの街頭ではたちどころに芸術が生まれ、たちまちのうちに消えているのだろう。最近、岡本太郎再評価の機運が出ているが、「芸術は爆発だあ!」という言葉が彼らの踊りを見て、なんとなくわかったような気がした。ほんとうにたいしたことは、TVや映画、インターネットでは伝えられていない。

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