福岡県筑前町のいじめ自殺事件が連日ニュースの一角を占めている。正確には、いじめ自殺事件より、それを隠蔽しようとした教委や校長の対応が毎日のニュースをにぎわしているわけだが、いいかげんマスコミと世間のカマトト振りには飽きてきた。こういう隠蔽体質は、何も教育界にだけ顕著なものではなく、日本の組織には骨がらみ、組織の飯を食った者なら誰でも知っていることじゃないか。いまさら、驚いた振りをするのに驚かないか。俺は驚く。
みながさしたる悪徳とも思わず日常的にやっている隠蔽を、何か事件が起きたときだけ非難し罰することがいったい何の役に立つのか? それが証拠に、文科省の統計ではたしか過去5年間、いじめによる児童生徒の自殺は1件も起きていないことになっている。これはもはや建前との乖離なんてものじゃない。「日本を美しい国にしたい」その言やよし。つまり、いまは「醜い国」なのだ。どのくらい醜いかを直視することからはじめようじゃないか。
いじめとは、周囲のたくさんの子どものちょっとした悪意や無関心の集積によって自殺にまで追い込むほど、いじめられた子どもの現世を地獄にするものだ。ならば、どんなちょっとした言動があったのか、詳細に調べて、この逆を実現すれば処方箋となるのではないか。まず、ちょっとした挨拶や笑顔を子どもたちにさせれば、そのとき相手を見ることになる、ちょっとした気配りができるのに気づく。「やあ」「元気?」からだ。そんなちょっとの集積がどれほどの影響を子どもたちに及ぼすか、いじめ事件から検証できるはずだ。誰かをいじめられるなら、同じように誰かを認めることもできる。いじめ返されるのは恐れるが、認め返されるのは誰しも嬉しい。誰かの誰かへのいじめはなくならないかもしれないが、あたかも全員が特定の誰かをいじめるような状況はなくなるように思う。
同様に隠蔽の心理や仕組みを詳細に検討することで逆転できないか。まじめに検討すれば、やがて日本の組織論に逢着するだろう。必ずしも隠蔽を悪徳視しないのは、実は仮に組織と名付けられた人間の集合を守るためだが、それは同時に組織の弱さを保持してしまうという矛盾した結果に気づくはずだ。では、なぜこれまで組織としての弱さが致命的なまでには拡大せず、人間の集合でどうにかやってこれたのかに考えを移すことができるだろう。いじめは悪い、隠蔽は間違っている、という演繹的な出発点ではなく、いじめや隠蔽を帰納的に遡行する努力が必要だと思う。それが、さらなる「醜い日本と私」をあぶり出すとしても。
みながさしたる悪徳とも思わず日常的にやっている隠蔽を、何か事件が起きたときだけ非難し罰することがいったい何の役に立つのか? それが証拠に、文科省の統計ではたしか過去5年間、いじめによる児童生徒の自殺は1件も起きていないことになっている。これはもはや建前との乖離なんてものじゃない。「日本を美しい国にしたい」その言やよし。つまり、いまは「醜い国」なのだ。どのくらい醜いかを直視することからはじめようじゃないか。
いじめとは、周囲のたくさんの子どものちょっとした悪意や無関心の集積によって自殺にまで追い込むほど、いじめられた子どもの現世を地獄にするものだ。ならば、どんなちょっとした言動があったのか、詳細に調べて、この逆を実現すれば処方箋となるのではないか。まず、ちょっとした挨拶や笑顔を子どもたちにさせれば、そのとき相手を見ることになる、ちょっとした気配りができるのに気づく。「やあ」「元気?」からだ。そんなちょっとの集積がどれほどの影響を子どもたちに及ぼすか、いじめ事件から検証できるはずだ。誰かをいじめられるなら、同じように誰かを認めることもできる。いじめ返されるのは恐れるが、認め返されるのは誰しも嬉しい。誰かの誰かへのいじめはなくならないかもしれないが、あたかも全員が特定の誰かをいじめるような状況はなくなるように思う。
同様に隠蔽の心理や仕組みを詳細に検討することで逆転できないか。まじめに検討すれば、やがて日本の組織論に逢着するだろう。必ずしも隠蔽を悪徳視しないのは、実は仮に組織と名付けられた人間の集合を守るためだが、それは同時に組織の弱さを保持してしまうという矛盾した結果に気づくはずだ。では、なぜこれまで組織としての弱さが致命的なまでには拡大せず、人間の集合でどうにかやってこれたのかに考えを移すことができるだろう。いじめは悪い、隠蔽は間違っている、という演繹的な出発点ではなく、いじめや隠蔽を帰納的に遡行する努力が必要だと思う。それが、さらなる「醜い日本と私」をあぶり出すとしても。