「ジャック、これからはずっと一緒だ」
最後の最後に、イニス(ヒース・レジャー)は死んだジャック(ジェイク・ギレンホール)への思いを呟く。 不覚にも涙ぐんでしまった。
上映時間2時間余、けっして結ばれない男と男の20年間の愛が、ワイオミングの大自然を河のように流れていく。森の奥深く生まれた数滴の雫がひと筋の水となり小川をつくるように、2人の貧しい若者はブロークバック・マウンティンで愛を交わし、別れてそれぞれの人生を歩み出ても互いを忘れられない。雨や雪を加えて水かさを増した川が、ときには岩に砕ける激流となり、また穏やかな水面に戻って陽を照り返し、汚水や濁流を交えて蛇行しながらも、悠々と海に至るまで流れていく。20年を経て河口に立ち、「ようやく」という思いを込めたのが冒頭のイニスの言葉だ。観客の俺も、「ようやく」悲恋の物語になったと安堵した。
ワイオミングの大自然を映すカメラは美しい。禁断の愛を耐え忍ぶイニス(名前がいい!)の表情が官能的だ。久しぶりのつかの間の逢瀬にはしゃぐ二人、心がすれ違い一人になってから思いの丈が吹き出すとき、すばらしい場面があった。つまり、恋愛映画としては成功している。しかし、その悲恋に重ね合わされる人生の描き方が中途半端だ。粗野で無教養な最下層の肉体労働者のカウボーイながら、育児や家事も分業する優しい夫としてイニスは描かれていく。それは心中密かにジャックを愛し続けている妻への後ろめたさを表現したのかもしれないが、女性脚本家が参加しているせいか、女性に優しいゲイといった通俗フェミニズムの視点がみえる。
寡黙だが優しいイニスは、カウボーイとして牧場の仕事を優先し、スーパーマーケットで働く妻アルマに育児を押しつけて出かけてしまうこともある。不満そうなアルマ。セックスの途中で、これ以上子どもができたら育てられないからとアルマが釘を刺すと、「俺の子どもを産みたくないなら、もうお前とは寝ない」とふてくされるイニス。牧場で働く夫をスーパーの店員の自分と同じ、ただの雇われ人と考えるアルマと、牛や羊を育て世話をするカウボーイの仕事を人生の一部と考えているイニスとは、同性愛異性愛以上の違いがあるはずだ。裕福な農機具商を父に持つ娘と結婚して貧しさから抜け出たジャックが、年老いた父の小さな農場を継いでイニスと働き暮らすことを夢に見続けたように、イニスとジャックを結びつけた赤い紐はカウボーイという生き方なのだ。そこがもっと明晰に描けたなら、この映画は大傑作になっていただろう。
直接的に同性愛を描いてはいなかったが、『真夜中のカウボーイ』のジョー(ジョン・ボイド)とラッツォ(ダスティン・ホフマン)は、「田舎のネズミ」と「都会のネズミ」として、ネズミの傷心を抱きしめ合った(「ラッツォ」とは「ネズ公」くらいのあだ名である)。つねに負けていく者としてカウボーイが象徴されていた。ジョーが死にかけのラッツォを連れて帰郷のバスの車窓に見せる横顔は、しかしけっして惨めに歪んではいなかった。雄々しく負けていく者の透徹した視線を備えていた。イニスとジャックの場合は、本当に抱き合った。セックスからはじまってしまった。セックスがイニスとジャックのその後を身動きできなくしてしまい、カウボーイの人生を描くというもうひとつの映画のテーマをも縛ってしまった。禁断のセックスをするために、二人とも苦悩するだけの人生になってしまったかのようだ。
とても愛の物語とはいえず、男性同性愛者への社会と内面からの抑圧を描いたに過ぎないように思える。もちろん、イニスの娘への愛を描くことで、そんな予定調和だけには陥らないように工夫はされている。だが、なによりもイニスの妻アルマへの愛をこそ、避けずにきちんと描くべきだった。なぜ、アルマは良き夫であり父であるイニスを受け入れられなかったか。アルマもまた抑圧的な社会の一員に過ぎないからか? そうではないだろう。あるいは、ジャックをめぐる三角関係に過ぎなかったのなら、男女間の愛憎劇と何ほどの違いがあるだろう。
『真夜中のカウボーイ』がつくられた70年代は、まだ同性のセックス描写は不可能だった。だから、現代のおいてホモセックスを描くべきではないとは思わない。ならば、イニスとアルマとのセックスと同等以上に、イニスとジャックのセックスも描くべきだった。愛のあるセックスとして。脚本は周到にエキスキューズばかりしているように思え、結果的に性別を超えた普遍的な愛の物語というより、男女の通俗的な恋愛映画を男男で描いたようになってしまった。
だが、ジャックの死後、イニスがジャックの家を訪ね、ブルーバック・マウンティンで失したと思っていたイニスのシャツをワードローブの中に見つけ、ジャックの切ない思いを知り、イニスもまたジャックのブルージーンのシャツに顔を埋めてその匂いをかいで忍ぶ、といったラストの近い場面。歌舞伎でいえば女形の一人芝居のような所作だけで愛を語る場面は、やはり胸に迫る。男女の悲恋劇の定番シーンをなぞったものとしても、そこは見事に完結していた。
最後の最後に、イニス(ヒース・レジャー)は死んだジャック(ジェイク・ギレンホール)への思いを呟く。 不覚にも涙ぐんでしまった。
上映時間2時間余、けっして結ばれない男と男の20年間の愛が、ワイオミングの大自然を河のように流れていく。森の奥深く生まれた数滴の雫がひと筋の水となり小川をつくるように、2人の貧しい若者はブロークバック・マウンティンで愛を交わし、別れてそれぞれの人生を歩み出ても互いを忘れられない。雨や雪を加えて水かさを増した川が、ときには岩に砕ける激流となり、また穏やかな水面に戻って陽を照り返し、汚水や濁流を交えて蛇行しながらも、悠々と海に至るまで流れていく。20年を経て河口に立ち、「ようやく」という思いを込めたのが冒頭のイニスの言葉だ。観客の俺も、「ようやく」悲恋の物語になったと安堵した。
ワイオミングの大自然を映すカメラは美しい。禁断の愛を耐え忍ぶイニス(名前がいい!)の表情が官能的だ。久しぶりのつかの間の逢瀬にはしゃぐ二人、心がすれ違い一人になってから思いの丈が吹き出すとき、すばらしい場面があった。つまり、恋愛映画としては成功している。しかし、その悲恋に重ね合わされる人生の描き方が中途半端だ。粗野で無教養な最下層の肉体労働者のカウボーイながら、育児や家事も分業する優しい夫としてイニスは描かれていく。それは心中密かにジャックを愛し続けている妻への後ろめたさを表現したのかもしれないが、女性脚本家が参加しているせいか、女性に優しいゲイといった通俗フェミニズムの視点がみえる。
寡黙だが優しいイニスは、カウボーイとして牧場の仕事を優先し、スーパーマーケットで働く妻アルマに育児を押しつけて出かけてしまうこともある。不満そうなアルマ。セックスの途中で、これ以上子どもができたら育てられないからとアルマが釘を刺すと、「俺の子どもを産みたくないなら、もうお前とは寝ない」とふてくされるイニス。牧場で働く夫をスーパーの店員の自分と同じ、ただの雇われ人と考えるアルマと、牛や羊を育て世話をするカウボーイの仕事を人生の一部と考えているイニスとは、同性愛異性愛以上の違いがあるはずだ。裕福な農機具商を父に持つ娘と結婚して貧しさから抜け出たジャックが、年老いた父の小さな農場を継いでイニスと働き暮らすことを夢に見続けたように、イニスとジャックを結びつけた赤い紐はカウボーイという生き方なのだ。そこがもっと明晰に描けたなら、この映画は大傑作になっていただろう。
直接的に同性愛を描いてはいなかったが、『真夜中のカウボーイ』のジョー(ジョン・ボイド)とラッツォ(ダスティン・ホフマン)は、「田舎のネズミ」と「都会のネズミ」として、ネズミの傷心を抱きしめ合った(「ラッツォ」とは「ネズ公」くらいのあだ名である)。つねに負けていく者としてカウボーイが象徴されていた。ジョーが死にかけのラッツォを連れて帰郷のバスの車窓に見せる横顔は、しかしけっして惨めに歪んではいなかった。雄々しく負けていく者の透徹した視線を備えていた。イニスとジャックの場合は、本当に抱き合った。セックスからはじまってしまった。セックスがイニスとジャックのその後を身動きできなくしてしまい、カウボーイの人生を描くというもうひとつの映画のテーマをも縛ってしまった。禁断のセックスをするために、二人とも苦悩するだけの人生になってしまったかのようだ。
とても愛の物語とはいえず、男性同性愛者への社会と内面からの抑圧を描いたに過ぎないように思える。もちろん、イニスの娘への愛を描くことで、そんな予定調和だけには陥らないように工夫はされている。だが、なによりもイニスの妻アルマへの愛をこそ、避けずにきちんと描くべきだった。なぜ、アルマは良き夫であり父であるイニスを受け入れられなかったか。アルマもまた抑圧的な社会の一員に過ぎないからか? そうではないだろう。あるいは、ジャックをめぐる三角関係に過ぎなかったのなら、男女間の愛憎劇と何ほどの違いがあるだろう。
『真夜中のカウボーイ』がつくられた70年代は、まだ同性のセックス描写は不可能だった。だから、現代のおいてホモセックスを描くべきではないとは思わない。ならば、イニスとアルマとのセックスと同等以上に、イニスとジャックのセックスも描くべきだった。愛のあるセックスとして。脚本は周到にエキスキューズばかりしているように思え、結果的に性別を超えた普遍的な愛の物語というより、男女の通俗的な恋愛映画を男男で描いたようになってしまった。
だが、ジャックの死後、イニスがジャックの家を訪ね、ブルーバック・マウンティンで失したと思っていたイニスのシャツをワードローブの中に見つけ、ジャックの切ない思いを知り、イニスもまたジャックのブルージーンのシャツに顔を埋めてその匂いをかいで忍ぶ、といったラストの近い場面。歌舞伎でいえば女形の一人芝居のような所作だけで愛を語る場面は、やはり胸に迫る。男女の悲恋劇の定番シーンをなぞったものとしても、そこは見事に完結していた。