村上春樹『神の子はみな踊る』感想の続きを書こうと思っていたが-それは踵を履きつぶした靴に過剰な意味を見出す某キャスターと、焚き火や空箱といった瑣末で一見無意味なモノやコトに思わせぶりな流し目を送らせる村上春樹の近似を書くつもりだった-、この本を読んで書く気が失せた。
(平山夢明 光文社 1600円)
新刊だ。俺はホラーとかスプラッタを好む方だ。好きだと言い切るには、かなりの教養を積むべき分野なので、そういう。イギリスからクライヴ・バーカーが出てきたときには、その着想の新鮮さやグロテスク美にかなり驚いた。平山夢明はクライヴ・バーカーよりもっと凄い。というか、誰にも似ていない。一言でいって衝撃的。もしかすると、この分野では世界的な作家に数え上げられるのではないか、といった身の程を弁えぬ賛辞を贈りたくなるほど驚嘆した。
ただし、R指定だ。精神年齢を含めて。いや、できれば読まない方がいい。必ず悪い夢を見る。バタイユの『エロスの涙』に挿入された清朝末期の「凌遅刑」の写真を見て以来の気持ち悪さを俺は覚えた。あの写真が正視し難いのは、生きながら切り刻まれるという刑の残酷さにあるのではない。残酷な刑の一部始終をを取り巻いて見物している群衆が怖ろしいのだ。もちろん、その場に居合わせた100年前の中国の人々にも、受刑者や執行人だけでなく、見物する人々が見えていただろう。しかし、見物人のなかの一人としての自分は見えていなかっただろう。俺のように印画紙に固着された「自分たち」を見る恐怖から逃れることができた。まだ、他人事への「怖いもの見たさ」に過ぎなかったはずだ。
100年後に書かれた『独白するユニバーサルメルカトル』はそうはいかない。この本に書かれた残虐の数々について、俺たちは絵空事と読む。もちろん、それに間違いない。しかし、一方、俺たちは印画紙やフィルム、ブラウン管、モニター、その他膨大なテキストを通して、これまでの「自分たち」を見てきた事実がある。どんな事実か。想像したことは必ず実現してきたという事実だ。ドリームスカムトゥルーである。「人類」という概念は、「人類絶滅」という可能性の事実から生まれた。100年前の人間には、近隣の敵皆殺しの夢はあっても、地球上の人間すべてを殺す夢はなかった。地球が破壊される恐れはなかったから、地球という概念はなく、したがって地球防衛軍という発想もなかったように。
俺たちは誰しも殺される恐怖と無縁でいられない未曾有の現代を生きている。その地球大の狂気に比べれば、快楽殺人や拷問、人肉食いなどは、お馴染みといえるほどありふれた狂気かもしれない。むしろ、そこにある人間の血しぶきや苦悶の呻きは懐かしくさえある。本書の残虐は、これまでに誰かが誰かに行ってきた、いまも行いつつある、事実なのだろうと考える方が無理はない。想像の産物など実はなくて、すべて事実の積み重ねではないか。巨大な恐怖に取り憑かれている事実があるがゆえに、身近な恐怖を虚構に求める狂気を手離せない俺たち。
バタイユの『エロスの涙』の内容は、学生の頃に読んだのでほとんど忘れてしまったが、「凌遅刑」に処せられて最後には心臓を抉り出される、清朝打倒のテロリストの頭髪は総毛立ちながら、その表情に明らかに歓喜が見える一枚があったと思う。そこに「死とエロス」の近似を考察しながら、バタイユはショック死を避けるために打たれたヘロインの作用ではないかと留保していたように覚えている。『独白するユニバーサル横メルカトル』の行間にも、叙情や詩情と呼べるものは感じとれる。ただ、それは俺たちに打たれたヘロインの作用ではないと言い切れるだろうか。
あるいは、なぜ、俺もしくは俺たちは、こんなに異形に憧れるのだろう。美容整形手術を受けて、同じ顔になってしまった自らの異形を悔いているからなのか。
(平山夢明 光文社 1600円)
新刊だ。俺はホラーとかスプラッタを好む方だ。好きだと言い切るには、かなりの教養を積むべき分野なので、そういう。イギリスからクライヴ・バーカーが出てきたときには、その着想の新鮮さやグロテスク美にかなり驚いた。平山夢明はクライヴ・バーカーよりもっと凄い。というか、誰にも似ていない。一言でいって衝撃的。もしかすると、この分野では世界的な作家に数え上げられるのではないか、といった身の程を弁えぬ賛辞を贈りたくなるほど驚嘆した。
ただし、R指定だ。精神年齢を含めて。いや、できれば読まない方がいい。必ず悪い夢を見る。バタイユの『エロスの涙』に挿入された清朝末期の「凌遅刑」の写真を見て以来の気持ち悪さを俺は覚えた。あの写真が正視し難いのは、生きながら切り刻まれるという刑の残酷さにあるのではない。残酷な刑の一部始終をを取り巻いて見物している群衆が怖ろしいのだ。もちろん、その場に居合わせた100年前の中国の人々にも、受刑者や執行人だけでなく、見物する人々が見えていただろう。しかし、見物人のなかの一人としての自分は見えていなかっただろう。俺のように印画紙に固着された「自分たち」を見る恐怖から逃れることができた。まだ、他人事への「怖いもの見たさ」に過ぎなかったはずだ。
100年後に書かれた『独白するユニバーサルメルカトル』はそうはいかない。この本に書かれた残虐の数々について、俺たちは絵空事と読む。もちろん、それに間違いない。しかし、一方、俺たちは印画紙やフィルム、ブラウン管、モニター、その他膨大なテキストを通して、これまでの「自分たち」を見てきた事実がある。どんな事実か。想像したことは必ず実現してきたという事実だ。ドリームスカムトゥルーである。「人類」という概念は、「人類絶滅」という可能性の事実から生まれた。100年前の人間には、近隣の敵皆殺しの夢はあっても、地球上の人間すべてを殺す夢はなかった。地球が破壊される恐れはなかったから、地球という概念はなく、したがって地球防衛軍という発想もなかったように。
俺たちは誰しも殺される恐怖と無縁でいられない未曾有の現代を生きている。その地球大の狂気に比べれば、快楽殺人や拷問、人肉食いなどは、お馴染みといえるほどありふれた狂気かもしれない。むしろ、そこにある人間の血しぶきや苦悶の呻きは懐かしくさえある。本書の残虐は、これまでに誰かが誰かに行ってきた、いまも行いつつある、事実なのだろうと考える方が無理はない。想像の産物など実はなくて、すべて事実の積み重ねではないか。巨大な恐怖に取り憑かれている事実があるがゆえに、身近な恐怖を虚構に求める狂気を手離せない俺たち。
バタイユの『エロスの涙』の内容は、学生の頃に読んだのでほとんど忘れてしまったが、「凌遅刑」に処せられて最後には心臓を抉り出される、清朝打倒のテロリストの頭髪は総毛立ちながら、その表情に明らかに歓喜が見える一枚があったと思う。そこに「死とエロス」の近似を考察しながら、バタイユはショック死を避けるために打たれたヘロインの作用ではないかと留保していたように覚えている。『独白するユニバーサル横メルカトル』の行間にも、叙情や詩情と呼べるものは感じとれる。ただ、それは俺たちに打たれたヘロインの作用ではないと言い切れるだろうか。
あるいは、なぜ、俺もしくは俺たちは、こんなに異形に憧れるのだろう。美容整形手術を受けて、同じ顔になってしまった自らの異形を悔いているからなのか。