本日読了。
全部読まないで感想してはいけなかったな。
「UFOが釧路に降りる」
「アイロンのある風景」
「神の子どもたちはみな踊る」
「タイランド」
「かえるくん、東京を救う」
「蜂蜜パイ」
以上6篇の連作短編集だった。登場人物は固定していないが、その背景は「神戸の地震」である。正しくは「阪神淡路大震災」と呼ぶはずだが、阪神ではなく淡路は抜けて「神戸の地震」というところから、すでに村上ワールドがはじまっているようだ。
時制は「神戸の地震」が起きて間もない頃、主人公たちは直接の被災者ではなく、メディアを通した遠景として知り、しかし余震を感じるように、胸奥で疼く傷が同調して、そんな揺れる自分を見つめ直し再生の糸口をつかんでいく、といった様子が共通している。したがって、「神戸の地震」をモチーフとするひとつの物語であり長編小説と読むこともできる。
どの作品(章?)も、通俗的小説の型を採りながら、きわめて巧緻に内省的な人物像を造型している。「タイランド」や「蜂蜜パイ」などは五木寛之作品によく似た登場人物とディティールだ。五木寛之は才能豊かな作家だったんだな、と村上春樹作品をはじめて読んであらためて思った。俺が感心したのは、「かえるくん、東京を救う」「蜂蜜パイ」。荒川洋治さんが現代詩を書いてほしいと願ったのもなるほど、詩韻を踏んだように簡潔で美しい文章がある。
ただ、やはり、「神戸の地震」が瑣末に扱われていることに違和感は残る。「神戸の地震」が低い通奏音となって響いている、あるいは波紋のように遠くまで波頭を送っている、と要約したいのだが、違う気がする。「神戸の地震」もまた、玉手箱のような空箱や浜辺の焚き火、誰もいない野球場、動物園の熊の檻、といった瑣末な事象を、近寄らずに遠くから眺めただけのように思える。もちろん、それを不謹慎なと批判したいわけではない。ゴダールの『ベトナムから遠く離れて』を想い出した。
五木寛之にも、先の戦争や焼け跡、貧困、政治運動、その後の挫折など、同時代性に訴える遠景がモチーフとして使われていた。五木にとって、それらは抗いようもなく、つまり疑いようのない同時代性であり、繰り返し書かざるをえない大きな謎だった。そして、五木の同時代性にこだわった作品は、戦争、貧困、政治運動、挫折などが、「笑劇として登場した」後年の70年代に書かれ、正当な復権を求めようとするアナクロな意図をルサンチマン(感傷)に包むことで、売れた。
五木寛之の小説を買ったのは、五木寛之よりはるかに若年の戦無派世代だった。五木の同時代性はもとより、戦後の試行へのアナクロな復権への企みなど眼中になく、ただ感傷的な美文が心地よかったのだ。村上春樹には、「阪神淡路大震災」を「神戸の地震」と意訳してしまうように、まず、こう感じなくてはという同時代性の縛りがない。
何かの目論見や企みがそこに託されているようには、とても思えない。しかし、その感傷は五木作品と同様に、心地よい。
なぜ、村上春樹は、この連作を書かねばならなかったのだろう。「神戸の地震」は95年。奥付によれば、雑誌発表時は99年。そして、「911」は2001年。在米経験の長い村上が、「911」後に、「神戸の地震」に想を得たこの『神の子どもたちはみな踊る』を書いたなら、たとえば、「神の子どもたち」といった俺の疑問や心地悪さのほとんどに符丁が合う。
少なくとも、村上春樹にとって、「神戸の地震」と「911」はほとんど変わらぬ距離感の内に起きたことではないか。つまり、「神戸の地震」を借景として、多くの人々の心奥を揺り動かす、破壊と再生の「911」をはからずも予見したということか。「911」以前に書かれたにもかかわらず、「911」後のニューヨーカーを描いたように思えてしまう。優れた作家のセンサーが時空を超えて反応したのか、村上春樹の立ち位置から来るものなのか。
たしかに、TVの視聴者は、「阪神淡路大震災」とは呼ばず、ただ「神戸の地震」という場合が多いだろう。同様に、「アメリカ同時多発テロ」とはいわず、「911」というだろう。俺たちの世界認識とはそんなものだ。五木寛之の主人公なら、それは虚構だとその場を立ち去りデラシネとなるが、村上春樹の登場人物たちは、どこにも行かず留まると思い決める。
この連作短編中、五木のようなデラシネの感傷とは一線を画し、さらに力強い救済を描いて異色なのは、「かえるくん、東京を救う」だ。五木寛之はこんな小説は書いたことがない。人語を話す人間大の「かえるくん」が登場する拠りながら、「かえるくん」を創造した信金の取り立て係・片桐のエキセントリックな狂気にはリアリティがある。そして、困惑することに、片桐の狂気のリアリティをもっとも体現するのは、世界貿易センタービルに突っ込んだ「テロリスト」たちなのだ。
余談だが、関西のお笑い芸人と結婚するという藤原紀香は、「神戸の地震」の被災地に実家があり、救援ボランティアに参加した経験があるという話をラジオで聴いた。箱入り娘がファッションモデルになり、合コンではしゃいでいたが、救援活動を通して人を見る目が変わり、人生を意識するようになったという。
「軽薄な遊び仲間だった医学部の学生が懸命に働き出したり、いつもにこやかな近所のおじさんがペットボトルの水を1万円で売っていたり、ほんとうにびっくりしました。東京に出て、本格的に芸能界に入ろうと思ったのは震災の影響が大きいですね」
全部読まないで感想してはいけなかったな。
「UFOが釧路に降りる」
「アイロンのある風景」
「神の子どもたちはみな踊る」
「タイランド」
「かえるくん、東京を救う」
「蜂蜜パイ」
以上6篇の連作短編集だった。登場人物は固定していないが、その背景は「神戸の地震」である。正しくは「阪神淡路大震災」と呼ぶはずだが、阪神ではなく淡路は抜けて「神戸の地震」というところから、すでに村上ワールドがはじまっているようだ。
時制は「神戸の地震」が起きて間もない頃、主人公たちは直接の被災者ではなく、メディアを通した遠景として知り、しかし余震を感じるように、胸奥で疼く傷が同調して、そんな揺れる自分を見つめ直し再生の糸口をつかんでいく、といった様子が共通している。したがって、「神戸の地震」をモチーフとするひとつの物語であり長編小説と読むこともできる。
どの作品(章?)も、通俗的小説の型を採りながら、きわめて巧緻に内省的な人物像を造型している。「タイランド」や「蜂蜜パイ」などは五木寛之作品によく似た登場人物とディティールだ。五木寛之は才能豊かな作家だったんだな、と村上春樹作品をはじめて読んであらためて思った。俺が感心したのは、「かえるくん、東京を救う」「蜂蜜パイ」。荒川洋治さんが現代詩を書いてほしいと願ったのもなるほど、詩韻を踏んだように簡潔で美しい文章がある。
ただ、やはり、「神戸の地震」が瑣末に扱われていることに違和感は残る。「神戸の地震」が低い通奏音となって響いている、あるいは波紋のように遠くまで波頭を送っている、と要約したいのだが、違う気がする。「神戸の地震」もまた、玉手箱のような空箱や浜辺の焚き火、誰もいない野球場、動物園の熊の檻、といった瑣末な事象を、近寄らずに遠くから眺めただけのように思える。もちろん、それを不謹慎なと批判したいわけではない。ゴダールの『ベトナムから遠く離れて』を想い出した。
五木寛之にも、先の戦争や焼け跡、貧困、政治運動、その後の挫折など、同時代性に訴える遠景がモチーフとして使われていた。五木にとって、それらは抗いようもなく、つまり疑いようのない同時代性であり、繰り返し書かざるをえない大きな謎だった。そして、五木の同時代性にこだわった作品は、戦争、貧困、政治運動、挫折などが、「笑劇として登場した」後年の70年代に書かれ、正当な復権を求めようとするアナクロな意図をルサンチマン(感傷)に包むことで、売れた。
五木寛之の小説を買ったのは、五木寛之よりはるかに若年の戦無派世代だった。五木の同時代性はもとより、戦後の試行へのアナクロな復権への企みなど眼中になく、ただ感傷的な美文が心地よかったのだ。村上春樹には、「阪神淡路大震災」を「神戸の地震」と意訳してしまうように、まず、こう感じなくてはという同時代性の縛りがない。
何かの目論見や企みがそこに託されているようには、とても思えない。しかし、その感傷は五木作品と同様に、心地よい。
なぜ、村上春樹は、この連作を書かねばならなかったのだろう。「神戸の地震」は95年。奥付によれば、雑誌発表時は99年。そして、「911」は2001年。在米経験の長い村上が、「911」後に、「神戸の地震」に想を得たこの『神の子どもたちはみな踊る』を書いたなら、たとえば、「神の子どもたち」といった俺の疑問や心地悪さのほとんどに符丁が合う。
少なくとも、村上春樹にとって、「神戸の地震」と「911」はほとんど変わらぬ距離感の内に起きたことではないか。つまり、「神戸の地震」を借景として、多くの人々の心奥を揺り動かす、破壊と再生の「911」をはからずも予見したということか。「911」以前に書かれたにもかかわらず、「911」後のニューヨーカーを描いたように思えてしまう。優れた作家のセンサーが時空を超えて反応したのか、村上春樹の立ち位置から来るものなのか。
たしかに、TVの視聴者は、「阪神淡路大震災」とは呼ばず、ただ「神戸の地震」という場合が多いだろう。同様に、「アメリカ同時多発テロ」とはいわず、「911」というだろう。俺たちの世界認識とはそんなものだ。五木寛之の主人公なら、それは虚構だとその場を立ち去りデラシネとなるが、村上春樹の登場人物たちは、どこにも行かず留まると思い決める。
この連作短編中、五木のようなデラシネの感傷とは一線を画し、さらに力強い救済を描いて異色なのは、「かえるくん、東京を救う」だ。五木寛之はこんな小説は書いたことがない。人語を話す人間大の「かえるくん」が登場する拠りながら、「かえるくん」を創造した信金の取り立て係・片桐のエキセントリックな狂気にはリアリティがある。そして、困惑することに、片桐の狂気のリアリティをもっとも体現するのは、世界貿易センタービルに突っ込んだ「テロリスト」たちなのだ。
余談だが、関西のお笑い芸人と結婚するという藤原紀香は、「神戸の地震」の被災地に実家があり、救援ボランティアに参加した経験があるという話をラジオで聴いた。箱入り娘がファッションモデルになり、合コンではしゃいでいたが、救援活動を通して人を見る目が変わり、人生を意識するようになったという。
「軽薄な遊び仲間だった医学部の学生が懸命に働き出したり、いつもにこやかな近所のおじさんがペットボトルの水を1万円で売っていたり、ほんとうにびっくりしました。東京に出て、本格的に芸能界に入ろうと思ったのは震災の影響が大きいですね」