スティーブン・キング 文芸春秋
上下2段組、235頁に綴られているのは、皆既日蝕の日に夫を殺したドロレス・クレイボーンの圧倒的な自白のみ。いかにクズ男であろうと殺すことはないだろう、という感想を持ち続けたまま読了するのは難しいだろう。クズ男が夫であり父親であった場合、日々少しずつ妻や子は殺されていく、だから殺られる前に殺った、というドロレスの供述には感情移入しないではいられない。
学生の頃、当時すでに傑作の誉れ高かった『イージーライダー』を友人たちと名画座で観た俺は、感に堪えた様子の友人たちに、「あまりよいとは思えなかった。だってあれじゃ、田舎者をバカにし過ぎじゃないか。まるで、ニューヨークタイムズや朝日新聞が書く世界がすべてみたいで」と稚拙な感想を洩らして、失笑を買った思い出がある。
保守的な南部をオートバイで旅するピーター・フォンダやデニス・ホッパーたち「イージーライダー」が、いかに異物であろうと殺すことはないだろうという思いを俺も抱いた。だが、座興のように二人を撃ち殺す「レッドネック」たちは、ただ醜悪で偏狭なだけなのかという違和感も同時に感じたのだ。同じアメリカ人なのに、まるで理解不能な異族のように彼らは否定されていた。
いまなら、別の見方をいえる。「レッドネック」たちにとって、「イージーライダー」はどう見えたか、という問いを立てれば、あまりにも一方的ではないかという疑問は自明のことだろう。また、「イージーライダー」たちが異物として排除されたという見方も成り立つが、同時に、まず「イージーライダー」たちが「レッドネック」の土地に入り込み、彼らを異物視したのだという指摘もできる。物事には順序があるのだ。
愛と自由を求める「イージーライダー」たちを、毒虫のようにひねり潰す「レッドネック」。「イージーライダー」たちが「レッドネック」に向ける恐怖と嫌悪の眼差しは、愛と自由という人類普遍の価値観に無知な、野蛮人へのそれと同型だ。自分たち「イージーライダー」こそが恐怖と嫌悪の対象として見られているのではないかという想像力はそこにはない。愛と自由の体現者であり遂行者であるのは、自分たちであって彼らではないことは、あらかじめ決まっているからだ。
「レッドネック」たちが圧倒的な多数を占める地であっても、より高次の世界にあっては、「レッドネック」たちこそが異物であり、愛と自由の世界に同化するか否かだけが、「レッドネック」たちに残された選択肢である。ピーター・フォンダやデニス・ホッパーは、いわば愛と自由の世界からの鉄砲玉といえる。
ドロレスの夫ジョーは、卑小なくせに尊大で、偏狭な考えを持つ「レッドネック」として描かれている。しかし、そんなことより重要なのは、たぶんジョーの生産性がきわめて低いということだ。ジョーは小さな島で定職すら持てず、別荘族の雑役を請け負ったり、漁師の手伝いをして小銭を稼ぐくらいしか能がない。
おかげで、ドロレスは家政婦として働きづめに働かなくてはならなかったわけだが、最悪なことに、ジョーにはそうした境遇から抜け出そうという向上心もなかった。安酒を飲んで仲間と賭けポーカーをすることや家族に対して支配的に振る舞うことで憂さを晴して満足するような「クズ男」だった。
愛と自由の世界にとっては、ジョーは受け入れがたい人物である。愛と自由の世界は、資本主義社会をその下部構造としており、その高い生産性に支えられて成立している。自然資源をはじめ、人的資源などあらゆる資源は、産業資本や社会資本、そして愛と自由を謳歌するための文化資本となって、さらなる生産と消費に寄与しなければならない。それが、「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」に他ならず、ジョーはまったく世界に貢献していないだけでなく、家族にとって重い足枷になっていた。
ジョーは自らの生産性が低いがために貧しいというだけでなく、妻のドロレスや娘のセりーナ、息子のジョー・ジュニアやピートたちをも、自らと同様に低学歴の偏狭な「レッドネック」に押し止め、貧しいままの生涯を送らせかねない抑圧者として描かれている。貧困の再生産に加担しているだけでなく、貧困から抜け出すきっかけとなる愛と自由を憧憬する価値観すら、つねにジョーによって汚され貶められた。その典型的な事例として、娘セりーナに対しての近親相姦の強要が示される。
同じ部屋にいるだけでも悪臭が漂ってくるような酒浸りの居汚い暴力夫が、しょっちゅう胸がむかつくような偏狭な考えを押しつけては子どもたちの心を傷つけ、あろうことか娘に手を出そうとしているのでは、母親としては殺したくもなるだろうが、だからといって殺されていいわけではない。
しかし、ドロレスの迫真的な供述には、そうした常識を覆す圧倒的な説得力がある。2/3ほども読み進めば、誰しもこんな男は殺されてもしかたがないと思い、ドロレスを免罪したくなるだろう。この作品のドロレスも、結局、罪には問われない。アンディ署長がドロレスに同情したからでも、ジョー殺しが時効を過ぎていたからでもなく、ドロレスはあらかじめ免罪されているからだ。
神もまた、ドロレスのジョー殺しに眼を閉ざしたという隠喩として、実際にメイン州で見られたの皆既日食が重要な背景となっている。島の人々が残らず暗くなっていく空を見上げ、けっして目撃者が現れるはずがない日蝕の時間を天与の時として、自宅の庭でドロレスはジョーを殺す。
「イージーライダー」たちを撃ち殺した「レッドネック」たちが、たぶん何の罪にも問われなかったように、ドロレスもまた見逃された。どちらの殺人にも、法的な正当性はない。しかし、殺された者はともに、その世界にとっては受け容れがたい異物であり、毒虫であった。
もちろん、ドロレスの内心には免罪も免責もない。自分のために母が父を殺したのではないか、と苦しみ続ける娘セリーナを思い、ドロレスの苦しみは続く。それもまたドロレスの受難の一部であるかのように、けっして殺したジョーへの罪悪感には向かわない。
後日談として、セリーナはニューヨークで活躍する有名ライターとなり、ジョー・ジュニアは民主党の星と呼ばれる若手政治家となって活躍していることが明かされ、子どもたちがジョーとは真逆の「アメリカンドリーム」の成功者となったという対比で物語は終わる。
メイン州で皆既日食が見られたのは、1963年7月20日だったという。そのとき、娘セリーナは15歳、ジョー・ジュニアは13歳、後にベトナム戦争で戦死するピートは9歳だった。つまり、ドロレスの子どもたちは、「イージーライダー」とほぼ同世代である。そして、彼らはジョーの子どもたちでもある。その事実を消された子どもたちである。
かつての「イージーライダー」たちは、今日ネオコンと呼ばれて共和党の一角を占める政治勢力と世代が重なっている。彼らはいま、デモクラシーとフェミニズムを旗印に、中東アジアの保守的で頑迷な「レッドネック」の地へ進駐し、ドロレスのように周到に殺し、ピーター・フォンダやデニス・ホッパーのように、たまたま殺されている。
もちろん、「レッドネック」たちもネオコンを支持した。それでも、より重要なのは、愛と自由の世界から来た「イージーライダー」たちが「不条理」に殺され、「レッドネック」たちが「条理」に基づいて殺されるという構図が変わっていないということだろう。「イージーライダー」たちの「愛と自由」の世界観こそが、異物を排除し、異族を殺す正当性を付与している。
その条理を担保するのは、ドロレスにおいては雇用主である因業な未亡人のヴェラ・ドノヴァンであり、ネオコンにとっては、「レッドネック」たちと「国際社会」ではなかったかと思う。準備を整えた共犯関係に近い同盟者ヴェラが介在することで、知らぬ間にジョーは追いつめられていく。
やはり、ドロレスに説得されてはならない。子どもたちの未来や可能性のために、その愛と自由のために、「クズ男」を殺してはならない。それは、やはり差別と虐殺を正当化する条理に他ならない。
ドロレスが子どもたちの将来のために積み立てた3000ドルの貯金をジョーがくすねたことが、ジョー殺しの重要な布石となるのだが、ジョーがくすねた金のなかから密かに生命保険に加入していて、それがドロレスの夫殺しの動機と目されて、日蝕まで利用した大がかりな完全犯罪が破綻するという結末もあり得ただろう。ジョーにはそうした多面性はあり得ないのだとすれば、やはりジョーは人間ではなく、ただ排除されるべき異物なのだろう。
上下2段組、235頁に綴られているのは、皆既日蝕の日に夫を殺したドロレス・クレイボーンの圧倒的な自白のみ。いかにクズ男であろうと殺すことはないだろう、という感想を持ち続けたまま読了するのは難しいだろう。クズ男が夫であり父親であった場合、日々少しずつ妻や子は殺されていく、だから殺られる前に殺った、というドロレスの供述には感情移入しないではいられない。
学生の頃、当時すでに傑作の誉れ高かった『イージーライダー』を友人たちと名画座で観た俺は、感に堪えた様子の友人たちに、「あまりよいとは思えなかった。だってあれじゃ、田舎者をバカにし過ぎじゃないか。まるで、ニューヨークタイムズや朝日新聞が書く世界がすべてみたいで」と稚拙な感想を洩らして、失笑を買った思い出がある。
保守的な南部をオートバイで旅するピーター・フォンダやデニス・ホッパーたち「イージーライダー」が、いかに異物であろうと殺すことはないだろうという思いを俺も抱いた。だが、座興のように二人を撃ち殺す「レッドネック」たちは、ただ醜悪で偏狭なだけなのかという違和感も同時に感じたのだ。同じアメリカ人なのに、まるで理解不能な異族のように彼らは否定されていた。
いまなら、別の見方をいえる。「レッドネック」たちにとって、「イージーライダー」はどう見えたか、という問いを立てれば、あまりにも一方的ではないかという疑問は自明のことだろう。また、「イージーライダー」たちが異物として排除されたという見方も成り立つが、同時に、まず「イージーライダー」たちが「レッドネック」の土地に入り込み、彼らを異物視したのだという指摘もできる。物事には順序があるのだ。
愛と自由を求める「イージーライダー」たちを、毒虫のようにひねり潰す「レッドネック」。「イージーライダー」たちが「レッドネック」に向ける恐怖と嫌悪の眼差しは、愛と自由という人類普遍の価値観に無知な、野蛮人へのそれと同型だ。自分たち「イージーライダー」こそが恐怖と嫌悪の対象として見られているのではないかという想像力はそこにはない。愛と自由の体現者であり遂行者であるのは、自分たちであって彼らではないことは、あらかじめ決まっているからだ。
「レッドネック」たちが圧倒的な多数を占める地であっても、より高次の世界にあっては、「レッドネック」たちこそが異物であり、愛と自由の世界に同化するか否かだけが、「レッドネック」たちに残された選択肢である。ピーター・フォンダやデニス・ホッパーは、いわば愛と自由の世界からの鉄砲玉といえる。
ドロレスの夫ジョーは、卑小なくせに尊大で、偏狭な考えを持つ「レッドネック」として描かれている。しかし、そんなことより重要なのは、たぶんジョーの生産性がきわめて低いということだ。ジョーは小さな島で定職すら持てず、別荘族の雑役を請け負ったり、漁師の手伝いをして小銭を稼ぐくらいしか能がない。
おかげで、ドロレスは家政婦として働きづめに働かなくてはならなかったわけだが、最悪なことに、ジョーにはそうした境遇から抜け出そうという向上心もなかった。安酒を飲んで仲間と賭けポーカーをすることや家族に対して支配的に振る舞うことで憂さを晴して満足するような「クズ男」だった。
愛と自由の世界にとっては、ジョーは受け入れがたい人物である。愛と自由の世界は、資本主義社会をその下部構造としており、その高い生産性に支えられて成立している。自然資源をはじめ、人的資源などあらゆる資源は、産業資本や社会資本、そして愛と自由を謳歌するための文化資本となって、さらなる生産と消費に寄与しなければならない。それが、「アメリカン・ウエイ・オブ・ライフ」に他ならず、ジョーはまったく世界に貢献していないだけでなく、家族にとって重い足枷になっていた。
ジョーは自らの生産性が低いがために貧しいというだけでなく、妻のドロレスや娘のセりーナ、息子のジョー・ジュニアやピートたちをも、自らと同様に低学歴の偏狭な「レッドネック」に押し止め、貧しいままの生涯を送らせかねない抑圧者として描かれている。貧困の再生産に加担しているだけでなく、貧困から抜け出すきっかけとなる愛と自由を憧憬する価値観すら、つねにジョーによって汚され貶められた。その典型的な事例として、娘セりーナに対しての近親相姦の強要が示される。
同じ部屋にいるだけでも悪臭が漂ってくるような酒浸りの居汚い暴力夫が、しょっちゅう胸がむかつくような偏狭な考えを押しつけては子どもたちの心を傷つけ、あろうことか娘に手を出そうとしているのでは、母親としては殺したくもなるだろうが、だからといって殺されていいわけではない。
しかし、ドロレスの迫真的な供述には、そうした常識を覆す圧倒的な説得力がある。2/3ほども読み進めば、誰しもこんな男は殺されてもしかたがないと思い、ドロレスを免罪したくなるだろう。この作品のドロレスも、結局、罪には問われない。アンディ署長がドロレスに同情したからでも、ジョー殺しが時効を過ぎていたからでもなく、ドロレスはあらかじめ免罪されているからだ。
神もまた、ドロレスのジョー殺しに眼を閉ざしたという隠喩として、実際にメイン州で見られたの皆既日食が重要な背景となっている。島の人々が残らず暗くなっていく空を見上げ、けっして目撃者が現れるはずがない日蝕の時間を天与の時として、自宅の庭でドロレスはジョーを殺す。
「イージーライダー」たちを撃ち殺した「レッドネック」たちが、たぶん何の罪にも問われなかったように、ドロレスもまた見逃された。どちらの殺人にも、法的な正当性はない。しかし、殺された者はともに、その世界にとっては受け容れがたい異物であり、毒虫であった。
もちろん、ドロレスの内心には免罪も免責もない。自分のために母が父を殺したのではないか、と苦しみ続ける娘セリーナを思い、ドロレスの苦しみは続く。それもまたドロレスの受難の一部であるかのように、けっして殺したジョーへの罪悪感には向かわない。
後日談として、セリーナはニューヨークで活躍する有名ライターとなり、ジョー・ジュニアは民主党の星と呼ばれる若手政治家となって活躍していることが明かされ、子どもたちがジョーとは真逆の「アメリカンドリーム」の成功者となったという対比で物語は終わる。
メイン州で皆既日食が見られたのは、1963年7月20日だったという。そのとき、娘セリーナは15歳、ジョー・ジュニアは13歳、後にベトナム戦争で戦死するピートは9歳だった。つまり、ドロレスの子どもたちは、「イージーライダー」とほぼ同世代である。そして、彼らはジョーの子どもたちでもある。その事実を消された子どもたちである。
かつての「イージーライダー」たちは、今日ネオコンと呼ばれて共和党の一角を占める政治勢力と世代が重なっている。彼らはいま、デモクラシーとフェミニズムを旗印に、中東アジアの保守的で頑迷な「レッドネック」の地へ進駐し、ドロレスのように周到に殺し、ピーター・フォンダやデニス・ホッパーのように、たまたま殺されている。
もちろん、「レッドネック」たちもネオコンを支持した。それでも、より重要なのは、愛と自由の世界から来た「イージーライダー」たちが「不条理」に殺され、「レッドネック」たちが「条理」に基づいて殺されるという構図が変わっていないということだろう。「イージーライダー」たちの「愛と自由」の世界観こそが、異物を排除し、異族を殺す正当性を付与している。
その条理を担保するのは、ドロレスにおいては雇用主である因業な未亡人のヴェラ・ドノヴァンであり、ネオコンにとっては、「レッドネック」たちと「国際社会」ではなかったかと思う。準備を整えた共犯関係に近い同盟者ヴェラが介在することで、知らぬ間にジョーは追いつめられていく。
やはり、ドロレスに説得されてはならない。子どもたちの未来や可能性のために、その愛と自由のために、「クズ男」を殺してはならない。それは、やはり差別と虐殺を正当化する条理に他ならない。
ドロレスが子どもたちの将来のために積み立てた3000ドルの貯金をジョーがくすねたことが、ジョー殺しの重要な布石となるのだが、ジョーがくすねた金のなかから密かに生命保険に加入していて、それがドロレスの夫殺しの動機と目されて、日蝕まで利用した大がかりな完全犯罪が破綻するという結末もあり得ただろう。ジョーにはそうした多面性はあり得ないのだとすれば、やはりジョーは人間ではなく、ただ排除されるべき異物なのだろう。