日本のロン・ハワード・周防正行の久しぶりの新作。
http://ja.wikipedia.org/wiki/それでもボクはやってない
以前、未見なのに感想を書いているが、よい意味で裏切られた。
http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/200702/archive?b=5
たいへんリアルでタイムリーなバランスのとれた秀作である。
リアルについて。
一度でも裁判の当事者(傍聴者でもいいが)として、裁判を経験した人なら、あるいは、逮捕されたり、警察官の取り調べを受けた経験がある人なら、ほぼこのとおりだと肯ける進行だろう。
タイムリーについて。
裁判員制度の実施目前を背景にして、有罪率99.9%の背景となる異様な現実が鋭く抉り出されている。
①被告は判決が確定するまでは推定無罪ではなく、容疑者や被告となったときから「推定有罪」である。
②被告が犯罪を犯したという証拠を提示する挙証義務は検察にあるのではなく、その犯罪を犯さなかったと立証する「挙証義務は実質的には被告が負う」ものだ。
③適正な判断を下すために、検事と弁護士のいずれにも裁判官は組みしないのではなく、「裁判官と検事はほぼ一体」である。
それを元外務省職員被告の佐藤優は「国策捜査」といい、それを裏づけて元特捜検事被告である田中森一は「検察庁は行政組織の一部」といったのだった。
被告と弁護士が無罪を勝ち取ろうとすれば、尋常なやり方ではまったく歯が立たない。この映画の被告と弁護士たちは、尋常なやり方で「推定有罪」を覆そうとしたが、やはり完敗した。そして、控訴しても勝てないことが暗示されている。
この映画を観たら、たとえば、光市母子殺人事件の弁護活動をめぐる紛糾について、安易な判断を下せないと思うだろう。「乱数表でも使って自動的機械的に死刑を執行できないか」という鳩山法相の発言がいかに空恐ろしいものかわかるだろう。そして、いまだに広島・長崎の被爆者認定や水俣病の患者認定が未解決、補償が不十分だという訴えが続いているのがなぜなのか、納得するだろう。
バランスについて。
当初、痴漢事件の担当を命じられた女性弁護士は、「やっと痴漢が事件になるようになったのに」と引き受けるのを渋る。痴漢事件に冤罪が生まれるのは、痴漢が事件になったからだが、長きに渡って痴漢は事件にならなかった過去を踏まえているわけだ。
だからこそ、裁判官は被害女子高生の勇気ある「現行犯逮捕」と裁判での証言を重くみた。弁護側の反証に理がありながらも、被害女子高生の行動に情を示したともみえる。それは裁判官が人情深かったからではもちろんなく、女性の性的虐待や被害の救済に敏感になった国策に従っているからでもなく、そうすることが彼の業務としては適切だったからだ。
有罪率99.9%という異常な数字の裏側には、最近、被告全員が無罪になった鹿児島の選挙違反事件にみられるように少なからぬ冤罪が含まれているだろう。その一方で、犯罪検挙率は年々低下し、桶川殺人事件のように警察の捜査能力に疑問を持たせる事件は少なくない。つまり、事件にならない犯罪や捕まらない犯罪者が相当数いるとすれば、有罪率99.9%の意味するところは、その冤罪率以上に怖ろしくはないか。
裁判官が迅速に有罪判決を下すことで山積する業務の遅滞を防ぎ、ひいてはそれが司法の円滑な運用につながり、彼の勤務評定の好評価となって返ってくる。彼は裁判官ではあるが、真実や正義には関係しない。「家庭の幸福は諸悪の根源」と太宰治が喝破したように、よき職業人(よき家庭人)として、彼は実直に日常の仕事をこなしているに過ぎない。
法と正義の間で葛藤する人間像を描いてきた、先行する幾多の法廷映画を踏まえて、法と正義の間で葛藤する人間像を描かなかった、この映画のバランス感覚は見事である。蛇足であるが、弁護側視点に偏った映画だという批判は当たらないだろう。弁護側の構造的な無力を描いた映画でもあるのだから。
冒頭で日本のロン・ハワード・周防正行といったのは、多分に批判と揶揄を込めている。『アメリカン・グラフティ』で気弱な高校生を演じたロン・ハワードは、その後、スプラッシュ Splash(1984年)、コクーン Cocoon (1985年)、ザ・ペーパー The Paper (1994年)、アポロ13 Apollo 13(1995年)、ビューティフル・マインド A Beautiful Mind(2001年)、ミッシング The Missing(2003年)、シンデレラマン Cinderella Man (2005年)、ダ・ヴィンチ・コード The Da Vinci Code (2007年)など、数多くの大作話題作を手がけながらいずれも高水準の作品づくりで、いまや押しも押されぬハリウッドの一流監督になっている。
周防正行もロン・ハワードにははるかに及ばないが、『シコふんじゃった。』でブレークしてから、『Shall we ダンス?』がアメリカで好評価を得てリメイクされるなど、日本の一流監督といえる。どちらも気弱そうで存在感の薄い風貌ながら、映画センスは抜群、演出は手堅く、ストーリーテリングは上手い。二人とも、大手企業の企画担当や広告代理店のマーケティング担当になっても、きわめて有能だろうと思わせる。だが、その有能さが鼻につく。うまいがそれだけだ、というのが俺のこれまでの分類だった。
しかし、周防正行には裏切られた。『それでもボクはやっていない』以後は、『11人の怒れる男』のような映画はもはや作れない。『Shall we ダンス?(1996年)』から11年ぶりの新作なのに、『それでもボクはやっていない』がたいしたヒット作にならなかった理由(わけ)がよくわかった。ロン・ハワードと並べては、周防正行に失礼であった。
「俗情との非結託」を貫いた稀に非情な映画であり、後年、日本の司法制度を検証する際の優れた史料となる映画である。いうまでもなく、映画としても上質である。ざまあみやがれ!という喝采こそ、この映画にふさわしい。映画をバカにするんじゃないよ。誰に何についていっているのか、この映画を観ればいくつも思い浮かぶだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/それでもボクはやってない
以前、未見なのに感想を書いているが、よい意味で裏切られた。
http://moon.ap.teacup.com/applet/chijin/200702/archive?b=5
たいへんリアルでタイムリーなバランスのとれた秀作である。
リアルについて。
一度でも裁判の当事者(傍聴者でもいいが)として、裁判を経験した人なら、あるいは、逮捕されたり、警察官の取り調べを受けた経験がある人なら、ほぼこのとおりだと肯ける進行だろう。
タイムリーについて。
裁判員制度の実施目前を背景にして、有罪率99.9%の背景となる異様な現実が鋭く抉り出されている。
①被告は判決が確定するまでは推定無罪ではなく、容疑者や被告となったときから「推定有罪」である。
②被告が犯罪を犯したという証拠を提示する挙証義務は検察にあるのではなく、その犯罪を犯さなかったと立証する「挙証義務は実質的には被告が負う」ものだ。
③適正な判断を下すために、検事と弁護士のいずれにも裁判官は組みしないのではなく、「裁判官と検事はほぼ一体」である。
それを元外務省職員被告の佐藤優は「国策捜査」といい、それを裏づけて元特捜検事被告である田中森一は「検察庁は行政組織の一部」といったのだった。
被告と弁護士が無罪を勝ち取ろうとすれば、尋常なやり方ではまったく歯が立たない。この映画の被告と弁護士たちは、尋常なやり方で「推定有罪」を覆そうとしたが、やはり完敗した。そして、控訴しても勝てないことが暗示されている。
この映画を観たら、たとえば、光市母子殺人事件の弁護活動をめぐる紛糾について、安易な判断を下せないと思うだろう。「乱数表でも使って自動的機械的に死刑を執行できないか」という鳩山法相の発言がいかに空恐ろしいものかわかるだろう。そして、いまだに広島・長崎の被爆者認定や水俣病の患者認定が未解決、補償が不十分だという訴えが続いているのがなぜなのか、納得するだろう。
バランスについて。
当初、痴漢事件の担当を命じられた女性弁護士は、「やっと痴漢が事件になるようになったのに」と引き受けるのを渋る。痴漢事件に冤罪が生まれるのは、痴漢が事件になったからだが、長きに渡って痴漢は事件にならなかった過去を踏まえているわけだ。
だからこそ、裁判官は被害女子高生の勇気ある「現行犯逮捕」と裁判での証言を重くみた。弁護側の反証に理がありながらも、被害女子高生の行動に情を示したともみえる。それは裁判官が人情深かったからではもちろんなく、女性の性的虐待や被害の救済に敏感になった国策に従っているからでもなく、そうすることが彼の業務としては適切だったからだ。
有罪率99.9%という異常な数字の裏側には、最近、被告全員が無罪になった鹿児島の選挙違反事件にみられるように少なからぬ冤罪が含まれているだろう。その一方で、犯罪検挙率は年々低下し、桶川殺人事件のように警察の捜査能力に疑問を持たせる事件は少なくない。つまり、事件にならない犯罪や捕まらない犯罪者が相当数いるとすれば、有罪率99.9%の意味するところは、その冤罪率以上に怖ろしくはないか。
裁判官が迅速に有罪判決を下すことで山積する業務の遅滞を防ぎ、ひいてはそれが司法の円滑な運用につながり、彼の勤務評定の好評価となって返ってくる。彼は裁判官ではあるが、真実や正義には関係しない。「家庭の幸福は諸悪の根源」と太宰治が喝破したように、よき職業人(よき家庭人)として、彼は実直に日常の仕事をこなしているに過ぎない。
法と正義の間で葛藤する人間像を描いてきた、先行する幾多の法廷映画を踏まえて、法と正義の間で葛藤する人間像を描かなかった、この映画のバランス感覚は見事である。蛇足であるが、弁護側視点に偏った映画だという批判は当たらないだろう。弁護側の構造的な無力を描いた映画でもあるのだから。
冒頭で日本のロン・ハワード・周防正行といったのは、多分に批判と揶揄を込めている。『アメリカン・グラフティ』で気弱な高校生を演じたロン・ハワードは、その後、スプラッシュ Splash(1984年)、コクーン Cocoon (1985年)、ザ・ペーパー The Paper (1994年)、アポロ13 Apollo 13(1995年)、ビューティフル・マインド A Beautiful Mind(2001年)、ミッシング The Missing(2003年)、シンデレラマン Cinderella Man (2005年)、ダ・ヴィンチ・コード The Da Vinci Code (2007年)など、数多くの大作話題作を手がけながらいずれも高水準の作品づくりで、いまや押しも押されぬハリウッドの一流監督になっている。
周防正行もロン・ハワードにははるかに及ばないが、『シコふんじゃった。』でブレークしてから、『Shall we ダンス?』がアメリカで好評価を得てリメイクされるなど、日本の一流監督といえる。どちらも気弱そうで存在感の薄い風貌ながら、映画センスは抜群、演出は手堅く、ストーリーテリングは上手い。二人とも、大手企業の企画担当や広告代理店のマーケティング担当になっても、きわめて有能だろうと思わせる。だが、その有能さが鼻につく。うまいがそれだけだ、というのが俺のこれまでの分類だった。
しかし、周防正行には裏切られた。『それでもボクはやっていない』以後は、『11人の怒れる男』のような映画はもはや作れない。『Shall we ダンス?(1996年)』から11年ぶりの新作なのに、『それでもボクはやっていない』がたいしたヒット作にならなかった理由(わけ)がよくわかった。ロン・ハワードと並べては、周防正行に失礼であった。
「俗情との非結託」を貫いた稀に非情な映画であり、後年、日本の司法制度を検証する際の優れた史料となる映画である。いうまでもなく、映画としても上質である。ざまあみやがれ!という喝采こそ、この映画にふさわしい。映画をバカにするんじゃないよ。誰に何についていっているのか、この映画を観ればいくつも思い浮かぶだろう。