スネギリョフ元大尉のあばら家を訪ねるアリョーシャ。父スネギリョフを愛するイリューシャとの再会。なるほど、この小説は、アリョーシャの地獄巡りの物語なのか。悪人輩が蝟集するのが地獄ではない。善人が悲惨な生活を強いられている場所を地獄という。
雪印の黄箱バターには絶大な信頼を置いていた。不二家のホームパイは夜食の友だった。西へ行く新幹線に乗ったら、帰りは必ず赤福を2箱携えていた。コージーコーナーのジャンボシューや天乃屋の歌舞伎揚げ、でん六の豆ピーは大丈夫だろうか。
C・イーストウッドの名作『ミリオン・ダラー・ベイビー』のヒロイン・マギー(ヒラリー・スワンク)は、反則技で有名な冷酷な世界チャンプ・ブルーベアに挑戦する。案の定、ブルーベアの反則技に苦しめられるマギーに、セコンドのフランキーは指示する。「レフリーの見えないところで、尻の付け根を殴って、座骨神経を壊せ」。
明らかな反則技をけしかけられてマギーは戸惑うが、いわれたとおりにして、ようやく勝機をつかむ。プロボクシングに人生と夢のありったけを賭けた二人だが、その一方でプロボクシングは反則も技術の内という見せ物興業であることをよく知っているわけだ。
ドイツの娼婦上がりで悪辣冷酷な試合ぶりを売り物にしているブルーベアに対して、アイルランド移民のホワイトトラッシュ(白人の屑)の娘として、ガッツ以外では劣るマギーが勝ち残るには、きれい事だけでは勝てないということを知っているわけだ。
つまり、リングの上には、セコンドも含めて、悪人はいない。悪役はいても。
その悪役が、二十歳の初々しい青年らしく、神妙に謝罪し、世間の同情を買ったそうだ。
反則を指示した、マナーを踏みにじってきた、と吊し上げる方も、それを可哀相だと同情する向きも、野暮の極みだと思う。また、これも仕組まれた絵図だと賢しらに鼻を鳴らすのも、防衛省の汚職問題などもっと注目すべき事件から眼を逸らすものだという指摘も、何をいまさらとしかと思えない。
「みんなは悪くいうかもしれんけど、俺たちにとっては世界一の親父やと思うてるから」
興毅は絶句しながらいった。
俺が、『三丁目の夕日』やその類のレトロ映画や小説を認めないのは、一様に、亀田一家のような、その当時はありふれていた家庭や家族をけっして描かないからだ。史郎のような粗野で下品な父親は出てこない。
いまでは誰もが敬愛をもって語る美空ひばりだが、一卵性母娘といわれたその母親は、メディアに向かって、自分の娘を「お嬢」と呼び、ひばりの弟をヤクザに預けるような、無教養で非常識の人だった。史郎と同様に、「あのおふくろだけは」と顔を顰める関係者は多かった。
しかし、ひばりを育て守ったのは、あのおふくろさんであり、三兄弟を育てたのは、やはり史郎だ。興業の世界で生き残るには、才能や実力だけではまったく不十分である。フランキーはマギーに繰り返し、「自分を守れ」という。
漂白されたように脆弱な若者のなかにあって、粗暴を売り物にするのは別に顔を顰めるほどのことではない。青年漫画誌には、暴力沙汰マンガが溢れている。宮崎駿アニメは日本の漫画界ではきわめて異例なのだ。
才能ある若手にかませ犬をあてがって自信をつけさせ、人気を煽るのは、ボクシング興業の常道であり、つくられたチャンピオンなど、いまさら驚くことでもない。少なくとも亀田一家が衰退の坂を転げ落ちていたボクシング復活に大きく貢献したのは事実だ。
にもかかわらず、俺たちに、亀田史郎や亀田一家を嫌悪する感情があるとすれば、自らの貧しい出自を思い起こさせるからだ。俺たちが、亀田一家の言動に快哉を覚えるとすれば、自らの貧しい現在を一瞬でも忘れられるからだ。
その娯楽は失われてしまった。祭りは終わった。馬鹿馬鹿しい思いだけを残して。いや、失われた家族の絆を見たって? 馬鹿馬鹿しい。あれほどなりふりかまわず生きたことなんて一度もない癖に。
亀田史郎はフランキーであり、『カラマーゾフの兄弟』でいえば、スネギリョフである。そして、世界中の誰よりも父スネギリョフを信じ愛するイリューシャは興毅である。さらに正しくは、父を信じ愛するというより、イリューシャも興毅も父をかばっているのだ。
屈強なドミートリー・カラマーゾフに「あかすり」髭をつかまれ、居酒屋から引きずり出され、町中で乱暴されている父スネギリョフを助けるために、「パパを許してよぅ」と泣き叫びながら、ドミートリーの手に接吻するイリューシャのように、興毅は父のために許しを乞いに出てきたのである。
親離れをせよとは愚かしい。亀田家を背負ってきたのは、史郎ではなく幼い頃から興毅であることを知らぬわけがあるまい。その亀田家を、その一員である父を捨てよという惨心を興毅が理解するはずもない。
また、マッチメイクやプロモートへの介入から史郎を排除すれば、三兄弟が興業やメディアの餓狼どもから食い尽くされるのは眼に見えている。ひばりのおふくろや、かつてのリエママと同じように、史郎は餓狼どもから息子たちを守ろうとしてきた。
興毅は父・史郎を理解している。有り体にいえば、かばってくれ、かばわなければならない存在としてわかっているのだ。共依存で何が悪い。興起には自らの損得や将来などは眼中にない。なぜならば、亀田家の家長は興毅であり、史郎は父親というより、母親なのだから。(敬称略)
明らかな反則技をけしかけられてマギーは戸惑うが、いわれたとおりにして、ようやく勝機をつかむ。プロボクシングに人生と夢のありったけを賭けた二人だが、その一方でプロボクシングは反則も技術の内という見せ物興業であることをよく知っているわけだ。
ドイツの娼婦上がりで悪辣冷酷な試合ぶりを売り物にしているブルーベアに対して、アイルランド移民のホワイトトラッシュ(白人の屑)の娘として、ガッツ以外では劣るマギーが勝ち残るには、きれい事だけでは勝てないということを知っているわけだ。
つまり、リングの上には、セコンドも含めて、悪人はいない。悪役はいても。
その悪役が、二十歳の初々しい青年らしく、神妙に謝罪し、世間の同情を買ったそうだ。
反則を指示した、マナーを踏みにじってきた、と吊し上げる方も、それを可哀相だと同情する向きも、野暮の極みだと思う。また、これも仕組まれた絵図だと賢しらに鼻を鳴らすのも、防衛省の汚職問題などもっと注目すべき事件から眼を逸らすものだという指摘も、何をいまさらとしかと思えない。
「みんなは悪くいうかもしれんけど、俺たちにとっては世界一の親父やと思うてるから」
興毅は絶句しながらいった。
俺が、『三丁目の夕日』やその類のレトロ映画や小説を認めないのは、一様に、亀田一家のような、その当時はありふれていた家庭や家族をけっして描かないからだ。史郎のような粗野で下品な父親は出てこない。
いまでは誰もが敬愛をもって語る美空ひばりだが、一卵性母娘といわれたその母親は、メディアに向かって、自分の娘を「お嬢」と呼び、ひばりの弟をヤクザに預けるような、無教養で非常識の人だった。史郎と同様に、「あのおふくろだけは」と顔を顰める関係者は多かった。
しかし、ひばりを育て守ったのは、あのおふくろさんであり、三兄弟を育てたのは、やはり史郎だ。興業の世界で生き残るには、才能や実力だけではまったく不十分である。フランキーはマギーに繰り返し、「自分を守れ」という。
漂白されたように脆弱な若者のなかにあって、粗暴を売り物にするのは別に顔を顰めるほどのことではない。青年漫画誌には、暴力沙汰マンガが溢れている。宮崎駿アニメは日本の漫画界ではきわめて異例なのだ。
才能ある若手にかませ犬をあてがって自信をつけさせ、人気を煽るのは、ボクシング興業の常道であり、つくられたチャンピオンなど、いまさら驚くことでもない。少なくとも亀田一家が衰退の坂を転げ落ちていたボクシング復活に大きく貢献したのは事実だ。
にもかかわらず、俺たちに、亀田史郎や亀田一家を嫌悪する感情があるとすれば、自らの貧しい出自を思い起こさせるからだ。俺たちが、亀田一家の言動に快哉を覚えるとすれば、自らの貧しい現在を一瞬でも忘れられるからだ。
その娯楽は失われてしまった。祭りは終わった。馬鹿馬鹿しい思いだけを残して。いや、失われた家族の絆を見たって? 馬鹿馬鹿しい。あれほどなりふりかまわず生きたことなんて一度もない癖に。
亀田史郎はフランキーであり、『カラマーゾフの兄弟』でいえば、スネギリョフである。そして、世界中の誰よりも父スネギリョフを信じ愛するイリューシャは興毅である。さらに正しくは、父を信じ愛するというより、イリューシャも興毅も父をかばっているのだ。
屈強なドミートリー・カラマーゾフに「あかすり」髭をつかまれ、居酒屋から引きずり出され、町中で乱暴されている父スネギリョフを助けるために、「パパを許してよぅ」と泣き叫びながら、ドミートリーの手に接吻するイリューシャのように、興毅は父のために許しを乞いに出てきたのである。
親離れをせよとは愚かしい。亀田家を背負ってきたのは、史郎ではなく幼い頃から興毅であることを知らぬわけがあるまい。その亀田家を、その一員である父を捨てよという惨心を興毅が理解するはずもない。
また、マッチメイクやプロモートへの介入から史郎を排除すれば、三兄弟が興業やメディアの餓狼どもから食い尽くされるのは眼に見えている。ひばりのおふくろや、かつてのリエママと同じように、史郎は餓狼どもから息子たちを守ろうとしてきた。
興毅は父・史郎を理解している。有り体にいえば、かばってくれ、かばわなければならない存在としてわかっているのだ。共依存で何が悪い。興起には自らの損得や将来などは眼中にない。なぜならば、亀田家の家長は興毅であり、史郎は父親というより、母親なのだから。(敬称略)