コタツ評論

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夢や希望を抱かず現実を引き受ける

2009-07-14 01:45:00 | ノンジャンル
 今回の東京都議選の得票数をみると、自民党145万票に対し、民主党229万票だそうである。都議選の総括とは、これが衆議院選だったらどうなるか、というシミュレーション以外にない。

 政権交代間違いなし、という見込みが出て、これから勝ち馬に鞍替えするやつが、メディアをはじめとしてどんどん出てくるから、政権交代がますます既定事実化していくことになる。

 で、都議選の総括とは、政権交代の実現性をはかるものだが、同時に政権交代後の現実が見えるものでもある。つまり、民主党に政権交代すると、どんな政策転換がなされるか、ということである。

 首都銀行東京、築地市場の豊洲移転、東京オリンピック開催には、民主党は反対か消極的な姿勢をとっているが、産業、福祉、教育など基本的な政策について、自民党と民主党に大きな違いはない。

 しかし、それはたいした問題ではない。たとえ社民党が、日本共産党が政権をとっても、日米安保条約の破棄ができないように、基本的な法律や制度を大きく変えることはできないからだ。また、大きく変えることが必ず国民の利益に結びつくという保証もない。

 したがって、政権交代の意味は、政策の転換にはない。政策政策とかまびすしくいっているのは、主に政治家と官僚とマスコミと政治学者である。それが彼らのレゾンデートル、ひらたくいえばビジネスだからいっているに過ぎない。

 現在、国民の間に政権交代が必要なほどの政策上の争点はない。となれば、都議選に惨敗しようと政権の座から落ちようと、自民党の敗北にとりわけ意味するものなどない。それが証拠に、この間の麻生政権にこれといった固有の失政や失策があっただろうか? 

 麻生太郎は、国民的な人気がありそうだとして総理大臣になり、いま国民的に不人気だといわれて解散を迫られ、首のすげ替えが取りざたされている。では、国民的人気不人気とはいったい何だろうか。あるいは、なぜ民主党の人気が高まったのだろうか。

 首相や政権の人気不人気、あるいは世論調査による政党支持率の変化、こうした事柄に騒がれるほどの意味はない。実態は何もない。ようするに、我々は、自民党に飽きたのである。ただ、それだけのことだと思う。飽きたから変えたいのだ。

 つまり、政権交代とは、政権交代そのものに意味があり、それ以上の意味や期待をくわえるのは、あまり意味がないように思う。なぜ飽きたか、と問われても困るし、とくに自民党を支持してきたという自覚もない。

 とはいえ、政権交代に積極的意味はもちろんある。しばらくは、国民も政治に飽きていない振りをしなければならない。選択の結果責任は負わなければならない。責任を負いたくなければ、英明な君主を戴く独裁政治を待つしかない。

 我々は幸いにも、アメリカのように英明な君主を求める国民ではない。国家に夢や希望を託さず、ただ現実を引き受ける国民がいる、成熟した国である。その国民は自民党的な現実に飽きている。

 民主党的な現実はまだ生まれていないから、その引き受け手も、まだ現実にはいない。しかし、現実の改変は必ずなされるのである。法律や制度のように、5W1Hは明記されないが、無名の人々が日々現実を改変していく。

 この夏に政権交代があるとすれば、そうした新しい現実を意識するきっかけとなるだろうと思う。そして、新しい現実も、それを意識することにも、何の価値判断も下せない。ただ、それを引き受ける、もうひとつの現実が生まれるということだ。

(敬称略)

シミュレーション:恥ずかしながら、10年前までずっとシュミレーションと発音してきた。数年前まで、ドストエフスキーではなく、ドフトエフスキーだと思っていた。政権交代も政権後退や政見交代と記したほうが、ずっとしっくりくる。自公政権が後退して民主党が前面に出てくるとしたほうが妥当な気がするし、既成政党による政治の見方と、我々の政治の見方を交代させるきっかけになればと思う。「庶民の目線で」などという気色の悪いものではなく、「我々」という共同体(協働性に基づく視線)を意識することであってほしい。

 
 

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