ハッピーフライト
ANAのホノルル便を舞台に、航空会社の「お仕事」が丁寧に描かれて楽しい。監督は、矢口史靖。男子のシンクロナイズドスイミング部が活躍する「ウォーターボーイズ」や田舎の女子高生がスィングジャズバンドを結成する「スウィングガールズ」など、その楽しい「やおい」作品作りには定評がある。
いまが可愛い盛りの綾瀬はるかは、もちろんスチュワーデス(CA=キャビン・アテンダントなんて「日本語」は認めないのだ)、その指導役のベテランスッチー(スッチーは俗語であるが日本語である)に寺島しのぶ。さすが色香がある。賑やかな俳優陣のなかで、ほかに印象的なのは、やはり田畑智子か。挿入歌は、フランク・シナトラ「カム・フライ・ウィズ・ミー」。
やまナシおちナシいみナシの「やおい」作品には、たいていセックスもない。少なくとも、セックスを人間性やその解放などにからめて描くことはない。物語性や主題を離れて人間をありのままに描くというのではなく、なぜ書かねばならないかという自分の情熱をひたすら書いているようにみえる。カラオケのように、定型を踏まえ、とにかく変奏し続けるのだ。
そのきわめてストイックな創作姿勢によって、あらかじめ作品性や作家性は消し去られ、まるで他愛のない作品ができあがる。そこが「やおい」を粋にしているのだと思う。優れた「やおい」作品があるのではなく、「やおい」というジャンルが優れている。そんな風に思っている今日この頃、劣悪な「やおい」を観てしまった。
ファニーゲームUSA
これはアメリカでのリメークだが、オリジナルは、カンヌ映画祭で途中退場が続出したという問題作。リメークも同じミヒャエル・ハネケ監督。「隠された記憶」という、どこが「衝撃のラストシーン」だったか、いまだにわからない映画を観たことがある。問題作ばかり手がけるヨーロッパの「芸術監督」です。謎の若者二人が、平凡な中流家庭を襲い家族を次々に惨殺していくというだけの話。
昔、「時計仕掛けのオレンジ」というやはり「問題作」がありました。観客の公序良俗意識を逆撫でし、ひたすら不快にするだけのためにつくったとしか思えず、ガラスを爪で引っ掻く音を延々と聴かされるような気になります。一種のクソリアリズムですね。真実は人々を不快にさせるというテーゼを反転させて、人々を不快にさせるものこそ真実だという詭弁を映像で観せつけられるわけです。
途中で席を立つ観客はもちろん、最後まで観てしまった観客の批判や賛辞さえ、冷笑するような反観客的な映画です。観客の居心地を悪くさせ、尻をもじもじさせれば、観客を変え、すなわち世界を変えた「衝撃の問題作」となるのです。実は、その得意顔こそ観客にとっていちばん不快なのですが。日本の「やおい」作品と比べて、何と野暮なんでしょう。
圧倒的な暴力の前に徹底的に無力な人間が、きわめてささやかな抗いを試み、必死に生き延びようとする。しかし、それらは結局無駄に終わり、当初の予定通り殺されてしまう。そう、少し育った子どもが、「人間なんて結局は死んでしまうんじゃないか!」という疑問を口にするのと同じ、また、そうした質問を哲学的な命題と受けとる度し難き幼稚さです。
もしかしたら、自分はほかの60億人の人間とは違って、死なないのかもしれないと本気で考えたことのある傲慢な人間しか、こういう映画は作れないし、好んで観ることもないでしょう。これを気取った言いかたにすると、「階級的不安」になります。実に、いい気なものです。だって、ほんとうの「階級的抹殺」は彼らから遠く離れた場所で、彼ら以外の人々に日々行われているからです。
(敬称略)