イーストウッドにハズレ無しが、ハズレた。某経済評論家がこの映画を新聞で絶賛していたのを読んで以来、もしかしたら失敗作ではないかと心配していた。もちろん、映画批評ではなく、アメリカ経済の苦境と社会の混迷を描いた映画として、経済評論家の立場から感想を述べたものだった。
(以下、結末に触れますので、これから観ようという方は、ここで読むのを止めてください)
フォード自動車工を勤め上げた頑固な老人ウォルター・コワルスキーが、ガレージに50年かけて集めた工具のコレクションを並べているところに、「ものづくり」の精神を喪失した近年のアメリカ経済の歪みを見たり、タフガイが自殺に等しい最後を選ぶことから、世界の警察官として「目に目、歯に歯」とふるまってきたアメリカの反省を見たり、あるいはウォルトがモン族のタオにグラン・トリノを遺すところに、アジア人に希望のバトンを渡そうといるのではないかと考えたり、この経済評論家はとても図式的な見方をしていた。
もちろん、どのような見方があってもいいし、経済に引きつけて図式的に語ることこそ、彼に期待された映画評なのかもしれない。そして私も、この経済評論家とほぼ同様な図式を見た。残念ながら、それ以上の謎や問いは見つけられなかった。
ウォルトが一種の「自死」を決意するまでの与件が説明的に重ねられるので、たいていの人は「意外な結末」に途中で気づくはずだ。イーストウッドらしくなく、あまりに説明的なので、もしかするとこれは「自爆テロ」を隠喩としているのかという考えが浮かんだくらいだった。
もちろん、それは穿ちすぎというもので、ウォルトの「犠牲」によって、悪人たちが罰せられ平和な社会から遠ざけられるという解決策とは、何のことはないアメリカ主導の集団安全保障体制、つまり多国籍軍のことだとすぐにわかる。ということは、911以前、アメリカ政府だけでなく、アメリカ国民もまた、多国籍軍を本気考えていたわけでなく、帝国軍とその同盟軍くらいにしか思っていなかったわけだ。
1972年にグラン・トリノを造っていた頃に比べれば、はるかに非力となったウォルトは、朝鮮戦争で犯した過ちを悔い、家族との絆を築けなかった不毛の半生を悔い、変わってしまったアメリカに疎外感を抱いてやりきれない毎日を送っている。
そこにモン族のチンピラたちという脅威がやってくるが、昔とった杵柄を試みたところ、思いもかけぬ大きな犠牲を生み、ウォルトは、「俺はまた同じ過ちを犯してしまった」と苦しみ悩む。これはどうしたって、ウォルト=アメリカであり、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、911以降は「テロとの戦争」を闘いながら、国際社会の尊敬を得るどころか、世界の嫌われ者となったアメリカである。
某映画評論家が、最近のイーストウッド作品には、「破綻がない」と暗に貶していた。たぶん、彼はリベラルではないイーストウッド作品を好まず、よく観ていないのだろう。その気持ちはわからないではないが、観ないで批評や感想を述べてはいけない。「グラン・トリノ」は、アメリカ経済と同様に図式として破綻しているし、あちこち瑕疵だらけだ。
まず、私はモン族をまったく知らないが、その「オリエンタリズム目線」は露骨だいうくらいはわかる(オリエンタリズムとは視線のことだから、同義反復だが)。「正直でよろしい」というわけにはいかない。異族・異人種として、モン族の異様を強調したことではない。問題はスーだ。アメリカに同化してウォルトの異文化への道案内役を務めるスーが、まるで国連の高等弁務官のようにモン族を語るのだ。ウォルトがアメリカへ同化させようとするタオも、スーと同様にウォルトの視線から一歩も出ることはない。
スーやタオがもっと複雑な自己表出をしていればということではなく、ウォルトとの関係性が乏しいのだ。スーはチンピラたちを罵って圧倒するほど強いアメリカ女性にすでに変わっているし、タオも男らしい中西部の男にウォルトが変えようとしているが、はたしてウォルトはどうだろうか? 幼い息子と娘を得て、若かった昔に戻ったような気になっただけ、何もどこも変わっていない。変わる必要があるとも思っていない。
アメリカの伝統的な価値観に大きな影響を及ぼしているはずの宗教についても、とってつけたような若僧神父の登場と関与にほとんど説得力がない。スーやタオの大家族の温かさに目を細めながら、息子や孫など自分の家族には蔑みに近い視線を抑えきれない。たとえ宗教や家族に裏切られたと思っていたとしても、これほど冷淡なら、かつて信じていたというのも疑わしくなるではないか(イーストウッドはアメリカの笠智衆かと思っていたのだが、よほど宗教や家族が嫌いのようだ。「ミリオンダラーベイビー」でも家族は冷酷無惨なだけで、神父はやはりマヌケ面だった)。
ウォルター・コワルスキーには、国に命じられた戦争と会社に命じられた仕事しか、人生にはなかったのか。それがウォルトに擬人化されたアメリカの自画像なのか。こうした図式的解釈に陥ってしまうとき、観客に問題ナシとはしないが、やはりその多くは映画の責任なのである。
(敬称略)