コタツ評論

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敵の評価こそがつねに正しい

2010-06-04 22:58:00 | ノンジャンル


やはり、小沢は悲劇的だな。西郷隆盛みたいだな。ひきかえ、菅は喜劇的だ。小沢色を排した菅内閣に、各メディアが期待しているようだ。小鳩政権は、アメリカと官僚とマスコミからきわめて悪評だった。国民は、米軍基地の縮減と政治主導に聞く耳を持たぬよう、マスコミは総力を挙げて小鳩政権を貶めてきた。とくに、小沢一郎へのバッシングは凄まじかった。気が狂ったかのようだった。憎悪と敵視といってよかった。ひとえに小沢が怖ろしかったのだ。小沢に権力を持たせていれば、やがて改革を実現させてしまうかもしれないからだ。敵から憎まれ攻撃されるのは、正当な評価ではあるが。

さっそく、管は「政調」を復活させるといいだした。議員立法は止め、政策は内閣が作るというのは、この間の民主党の実力に見合った「政治改革」だったが、民主党議員がそれぞれ「政調」に属して議論を広げ深めていくほうが民主的だとでもいうのだろうか。「政調」が復活すれば、内閣の求心力は著しく殺がれ、政策の立案策定は非効率化し、「改革」は漸進的にならざるを得ない。また、「政調」を廃し小沢幹事長室に陳情を一本化させたことで、権力の集中とかねてから批判があったが、小沢以外は、政策をソリューションだと思っているのに対し、小沢は、政策を利権だと考え、自民党と官僚と業界が一体となった利権構造の破壊こそが急務だとした。政策は利権ではないが、政官財の連係構造がからめば、利権となる。いったい、現実認識があるのはどちらだろうか。

アメリカは、居丈高に、「新内閣は日米同盟重視を表明せよ」と表明し、マスコミも、「日米同盟の重視と官僚の声に耳を傾ける政治主導を」と注文をつけている。「政調」が復活すれば、「業界」と「官僚」が結びつき、「族議員」がつくられ、小沢がめざした議員定数の削減案は消えるだろう。そして、「政調」の番記者が廊下トンビをつとめる。

番記者の大事な仕事は、政策調査会が開かれている会議室のドア前に集まり、腰を屈め耳を付けて、盗み聞きすることだ。各社持ち回りで10分ごとに交代して、何か洩れ聞こえてこないか耳を当てる。誰が怒鳴っているか、誰が長く発言しているか、ヤジが飛んでいるか、必死に聞く。もちろん、そんな片々たる情報を記事に書くことはできない。「それが仕事だなんて、情けなくて子どもには話せないですよ」と自民党のある「政調」の番記者が涙ぐんでいたのを思い出す。「政調」の会議室を出てきた先生を取り囲み、ぶら下がって会議内容を教えてくれと懇願する。その先生は、官僚からレクチャーを受けて神妙に聞き入っている。ジャーナリストとしてはみじめな構図だが、それでも、ドアに耳を付ける人員が必要だから、番記者という仕事にはありつける。マスコミ各社にとっては、雑誌やフリーランスを排除して、一次情報を独占できる。

そのようにして、大小さまざま有形無形の利権が分配され、関係各位は満足して、菅内閣の評価は、当面、高まるだろう。アメリカから何らかの譲歩というお土産が出るかもしれない。そっぽを向いていた官僚も働き出すかもしれない。マスコミも、小沢色を排した勇気を褒めそやすかもしれない。敵から褒められ握手を求められるのは、不当に評価されているからだ。内通しているからだとまではいわないが。

敵の評価こそがつねに正しい。

(敬称略)
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おもしろうてやがておそろしき

2010-06-04 01:17:00 | ノンジャンル


理想主義のハーバードの俊秀たちが、完璧な嘘発見器「トゥルースマシーン」を開発、人類を正直化して、戦争とテロと犯罪から世界を救うという近未来SF。

『天才アームストロングのたった一つの嘘』(ジェームズ・L・ハルペリン 角川文庫)

本作品がデビュー作で職業作家ではないらしい著者もハーバード卒。「トゥルースマシーン」の開発を本気で提唱しているらしい。

一人のテロリストやキチガイが核を手にする日。すなわち人類が滅亡する日と競争するように、「トゥルースマシーン」の開発が急がれる。開発に関わるハーバードの俊秀たちの議論が、あたかも人類の英知が結集したように展開されるところが読みどころ。世界最大最強のアメリカの、もっとも優れたエリートたちが、世界を救うためにどんな議論をしているか。

しかし、長崎・広島への原爆投下への彼らの「感想」がひどい。「多くの人命を救うためにしかたなかった」で済ますのだ。また、小説中では、イスラエルがイラクに核攻撃をして、100万人以上が死ぬ惨事が「予測」されている。イスラエルの言い分は、やはり、「多くの人命を救うためにしかたなかった」である。

2001年911の後に書かれたため、ではない。この小説が書かれたのは、1995年である。俺は、ブッシュやチェイニー、ラムズフェルドなど、「ネオコン」が、「テロとの戦争」を掲げて、イラクやアフガニスタンに侵攻したと思っていた。2001年911を境にして、アメリカ国民の意識が劇的に変わったと思っていた。

アメリカの「ベスト&ブライテスト」とされるハーバードの学生ですら、長崎・広島への原爆投下を正当化し、「未来の核攻撃」をも正当化しているのだとしたら、911以前からアメリカ人の間に、核も厭わぬ好戦的な気分が広く共有されていたことになる。現在なら、イランへの核攻撃をアメリカ国民の大多数が支持しているようなものだ。

やはり、アメリカとアメリカ人は、長崎・広島への原爆投下について、さほどの痛痒を感じていないのではないか。痒みすらないほど気にしていないとすれば、それはもう挙げて日本の責任である。

(敬称略)
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