10月1日からタバコが値上がるそうで、コンビニではカートン売りの予約がはじまっているが、これを機会に止めようという気にはなれない。タバコとコーヒーは、長年親しんだ友だちである。高くても安くても、金に左右される間柄じゃない。とはいえ、「悪魔のように黒く地獄のように熱い」友だちには、低価格のコーヒーショップチェーンが喫茶店を駆逐してから、街ではめったに会えなくなった。
「昔はよかった」などとはいわない。現在の水準からすれば、かつてのコーヒーの大半は、ひどく不味いものだった。死んだ伊丹十三のエッセイに、焙煎の具合から、コーヒー豆の挽き方、慎重に湯を注ぐドリップまで、ほんとうのコーヒーの入れ方を説いた最後に、「インスタントコーヒー」について、「残念ながら、世の中には、ああいうものを飲む不幸な人々がいる、ということを知っておくにとどめたい」と書いた一編があった。
ネスカフェ全盛という時代があったわけだが、その一方、サイフォンを沸かしたり、ネルドリップを使う「珈琲専門店」もあり、なかには美味いコーヒーを入れる店もあった。タバコをくゆらせながら、モカの酸味を味わい、表紙カバーのない文庫本をめくり、しおりをはさむ。出入り口のドアを見遣って、腕時計で待ち合わせの時間をたしかめる。そんな喫茶店はもう、神田神保町界隈だけにしか残っていないように思える。
そうそう、一服の話をするつもりだった。「一服しよう」「ちょっと一服するか」の一服は、耳触りのよい言葉である。一服には、喫茶と喫煙の両方の意味があり、両方を一緒にとりおこなうことも多いが、順序としてまずは喫煙の一服だろう。もう遠い昔のようにさえ思えるが、かつて、屋内外、町中の至る所で煙草が吸えた。「昔はよかった」という気はない。ただいまの「喫煙所」には、なじめないと言いたいだけ。
JTが設置したのだろうが、いかにも片隅に押しやられた、隔離されたような「喫煙所」で一服する気にはなれないし、一服した気にはならない。かといって、だれ憚ることなく、ゆっくりと紫煙を楽しむ場所は、自宅以外にはほとんどない。新橋に喫煙喫茶店なるものができて、繁盛しているという話しを聞くが、それも何かいじましく思える。ところが、本日、昼下がりの日暮里で、格好の一服所(いっぷくしょ)を見つけた。
これから、機会があれば、そんな都会のオアシスを紹介していきたいので、「知ってるよ、あそこはいいよ」という一服所があれば、情報を寄せてくださるよう、ぜひお願いする。
JR日暮里駅を下車して、線路に沿うように鶯谷方向へ歩いて5分。根岸芋坂「羽二重団子」本店が、今回の一服所である。ビルの一階ながら、古い和菓子屋風の狭い入口から薄暗い店内に入ると、売店の奥にテーブル席が6席のほかに、30人以上が入れそうな座敷を備えた、なかなか広い喫茶室がある。勘定場の上に、田山花袋の書が飾ってあり、「子団重二羽」とだけ書かれ、「昭和七年 花袋」と添え書きされている。
テーブル席は大ガラスに面し、その向こうに、小さいながら和庭園が眺められる。2mほどの滝が流れ込む小さな池には鯉。石灯籠がいくつか配され、商家らしくお稲荷さんもある。土曜日というのに、客は少なく、店内は静かだ。煎茶と餡・焼きの団子2本セットを注文する。氷宇治金時630円にも気がそそられる。もちろん、店内は禁煙である。だが、庭に出られるのだ。
庭への出口には、「喫煙はこちらで」という張り紙。池を前にして、縁台が据えられ、灰壺が置かれている。こんな分煙なら大歓迎だ。水音と鯉の泳ぐ姿に涼みながら、一服つけていると、「蚊取り線香をお持ちしました」と白い三角巾を頭にかぶった店員が。その心遣いが嬉しい。「この滝は・・・、水道でしょうね」と声をかける。「ええ、循環しています。夜は止めているんですよ」とのこと。
国語の教科書に載っていたフランキー堺に似た田山花袋の写真を思い浮かべながら、なぜ「羽二重団子」という書を残したのだろうと考えた。代表作が「蒲団」だから、花袋は即物的な表現を好んだのかもしれない。考えてみれば、「蒲団」(かまだん、ではなく、ふとんと読みます)とは、凄いタイトルです。あなた、「蒲団」という題の小説を書いて文学賞に応募しますか? それも、住み込みの女弟子に振られて、彼女の蒲団に顔を埋め、その匂いを嗅いで泣くという結末ですよ。
(敬称略)
「昔はよかった」などとはいわない。現在の水準からすれば、かつてのコーヒーの大半は、ひどく不味いものだった。死んだ伊丹十三のエッセイに、焙煎の具合から、コーヒー豆の挽き方、慎重に湯を注ぐドリップまで、ほんとうのコーヒーの入れ方を説いた最後に、「インスタントコーヒー」について、「残念ながら、世の中には、ああいうものを飲む不幸な人々がいる、ということを知っておくにとどめたい」と書いた一編があった。
ネスカフェ全盛という時代があったわけだが、その一方、サイフォンを沸かしたり、ネルドリップを使う「珈琲専門店」もあり、なかには美味いコーヒーを入れる店もあった。タバコをくゆらせながら、モカの酸味を味わい、表紙カバーのない文庫本をめくり、しおりをはさむ。出入り口のドアを見遣って、腕時計で待ち合わせの時間をたしかめる。そんな喫茶店はもう、神田神保町界隈だけにしか残っていないように思える。
そうそう、一服の話をするつもりだった。「一服しよう」「ちょっと一服するか」の一服は、耳触りのよい言葉である。一服には、喫茶と喫煙の両方の意味があり、両方を一緒にとりおこなうことも多いが、順序としてまずは喫煙の一服だろう。もう遠い昔のようにさえ思えるが、かつて、屋内外、町中の至る所で煙草が吸えた。「昔はよかった」という気はない。ただいまの「喫煙所」には、なじめないと言いたいだけ。
JTが設置したのだろうが、いかにも片隅に押しやられた、隔離されたような「喫煙所」で一服する気にはなれないし、一服した気にはならない。かといって、だれ憚ることなく、ゆっくりと紫煙を楽しむ場所は、自宅以外にはほとんどない。新橋に喫煙喫茶店なるものができて、繁盛しているという話しを聞くが、それも何かいじましく思える。ところが、本日、昼下がりの日暮里で、格好の一服所(いっぷくしょ)を見つけた。
これから、機会があれば、そんな都会のオアシスを紹介していきたいので、「知ってるよ、あそこはいいよ」という一服所があれば、情報を寄せてくださるよう、ぜひお願いする。
JR日暮里駅を下車して、線路に沿うように鶯谷方向へ歩いて5分。根岸芋坂「羽二重団子」本店が、今回の一服所である。ビルの一階ながら、古い和菓子屋風の狭い入口から薄暗い店内に入ると、売店の奥にテーブル席が6席のほかに、30人以上が入れそうな座敷を備えた、なかなか広い喫茶室がある。勘定場の上に、田山花袋の書が飾ってあり、「子団重二羽」とだけ書かれ、「昭和七年 花袋」と添え書きされている。
テーブル席は大ガラスに面し、その向こうに、小さいながら和庭園が眺められる。2mほどの滝が流れ込む小さな池には鯉。石灯籠がいくつか配され、商家らしくお稲荷さんもある。土曜日というのに、客は少なく、店内は静かだ。煎茶と餡・焼きの団子2本セットを注文する。氷宇治金時630円にも気がそそられる。もちろん、店内は禁煙である。だが、庭に出られるのだ。
庭への出口には、「喫煙はこちらで」という張り紙。池を前にして、縁台が据えられ、灰壺が置かれている。こんな分煙なら大歓迎だ。水音と鯉の泳ぐ姿に涼みながら、一服つけていると、「蚊取り線香をお持ちしました」と白い三角巾を頭にかぶった店員が。その心遣いが嬉しい。「この滝は・・・、水道でしょうね」と声をかける。「ええ、循環しています。夜は止めているんですよ」とのこと。
国語の教科書に載っていたフランキー堺に似た田山花袋の写真を思い浮かべながら、なぜ「羽二重団子」という書を残したのだろうと考えた。代表作が「蒲団」だから、花袋は即物的な表現を好んだのかもしれない。考えてみれば、「蒲団」(かまだん、ではなく、ふとんと読みます)とは、凄いタイトルです。あなた、「蒲団」という題の小説を書いて文学賞に応募しますか? それも、住み込みの女弟子に振られて、彼女の蒲団に顔を埋め、その匂いを嗅いで泣くという結末ですよ。
(敬称略)