コタツ評論

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狭山そば

2010-09-19 00:04:00 | ノンジャンル


西武線は所沢駅、本川越方面行き、1番ホームの「狭山そば」はうまい。ひさしぶりに所沢で下車したので寄ってみたが、夜の8時半だというのに、客足は途切れない。鰹節つゆの香りが胃袋を刺激する。注文をやりとりするカウンター前に立ち、上に掲げられたメニューをちらと見上げて、しかし、いつもの「天そば」や「かけそば」を注文する風情のリピーターが多い。店員の構成は、おじさん二人に、金と引き換えに食券を渡してくれるおばさん一人。ここは、自動券売機ではない。全員、寡黙にきびきびと動く。拓大柔道部の乱取り稽古のように、沸騰したお湯の小山が盛り上がり崩れる寸胴(ずんどう)。そばを投げ入れて、チャッチャッと手際よく湯を切り、深いおたまのつゆをかけ、かき揚げの上に、白い刻みねぎが盛られたら、「お待ちっ」。一味を振る。この店は七味ではない。真っ黒いつゆを一口すする。たしかに讃岐うどんは美味い。透明に近い汁なのに、深い出汁の味わいには感心する。しかし、そばのつゆは、こんな風に漆黒の闇でなければ。ネギは細からず、幅広がらず、たっぷりとある。糸のように細くては、噛みごたえがなく、汁で団子になってしまう。お好み焼きに入れるように、幅広に刻んでは、ネギの生臭さが口中に残ってしまう。少し柔らかめに揚がった天ぷらの衣が、つゆを吸い込んで、箸でちぎりやすい。具に過不足がないせいである。具が多く天ぷらを囓るようでは、天ぷらそばの醍醐味の半分は失せる。具が少なければ、天ぷらは箸でほぐす前に、ちりぢりに離散して、たぬきそばになるだろう。箸で切り分けた天ぷらとネギをからめて、そばと一緒にたぐる。生まと揚げと茹での渾然一体。そばは、少しもっさりしているほうがよい。たとえば、高級蕎麦店の澄ましたつゆとつるつるの蕎麦に、美しいほど細く刻まれたネギと、固めに揚げられたプリプリの車海老の乗っかった天麩羅蕎麦が、駅の立ち食いそばで供されたとしよう。400円前後で。私は食べない、といえば嘘になるが、それほどは食べないはずだ。私が、ふと、いま、食べたいのは、立ち食いそば、だからだ。立ち食いそばとは、早くて、安くて、物足りない、ものなのだ。高級蕎麦店の天麩羅蕎麦は、それだけで完結している。天麩羅蕎麦を食べたい人が客となる。ひきかえ、立ち食いそばとは、ジャンルなのである。天麩羅蕎麦がソロ演奏とすれば、立ち食いそばは、交響楽である。つましき人々が交り響きあう音楽なのである。そばのお湯を切る音、割り箸を割る音、一味を振る、つゆを飲む喉仏の上下、そばを啜る水音、ハフッと息継ぎ、プハーッと水を飲んだ後、タンとコップを置く、吐息とゲップ、そんなわずかな音の背景に、乗降客の雑踏、電車のブレーキ音、濁声のアナウンス、負けじとしゃべり声、など鼓膜に押し寄せる音声。立ち食いそばの客たちは、声をかけ合うどころか、視線を交わすことさえなく、遠慮深げに丼を抱えて立ち、10分足らずでそそくさと入れ替わる。小腹の飢えを満たす者。安直な晩飯にありつこうとする者。夕食を食いそびれた者。仕事帰りの者。これから仕事へ向かう者。家族団欒の食卓が待っているが一人で食いたい者。妻の用意した夕食をがつがつ食いたくはないので軽く腹を満たして帰りたい者。知り合いの誰にも知られず見られず食べたい者。一日千円の持参金から50円ずつ蓄えて週に一度食べる者。「者ども、かかれ!」と号令をかければ、立ち尽くすか、後じさりするか、背を向けるかする者たち。立ち食いそばの客とは、そういう者たちであり、暮らしをやり過ごす拍子のような食なのである。「美味い」と感嘆の声を上げる者はまれだ。「ごっそさん」と丼を返す者も多くはない。しかし、客は、満足を、わずかな頷きや水を飲み干す勢いや、ふと店員を見遣る視線などで、さりげなく示す。店員は、その寡黙な賞賛を糧として、今日も勢いよくお湯を切り、熱からず温からず、シャキシャキとした白ネギを添えて、湯気の上がるベークライトの丼をカウンターに置くのである。このクソ暑かった夏も、冷やしそばより、温かいそばを注文する客が多かった店である。
コメント
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