コタツ評論

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車輪の下

2010-11-11 23:12:00 | 詩文
補助輪の自転車が踏む欅の葉

[言葉の綾]掲示板より転載(S 11/08)



俳句や短歌については、まったく知らないのに、僭越ながら感想を述べてみたいと思いました。

ケヤキの落ち葉を踏む音が聴こえます。自転車の車輪が踏んでいく音です。その自転車には補助輪がついています。以前は、小さな子どもを乗せていた自転車だからです。もしかすると、後ろの荷台だけでなく、前にも乗せて、母子3人、買い物へ行ったり、幼稚園に送り迎えするために使っていた自転車かもしれません。

そう、過去形です。いまはもう、子どもは成長して、一緒に自転車に乗ることはない。それぞれが別の自転車に乗っています。ですから、このお母さんの自転車は軽くなっている。家事や時間に追われて、懸命にペダルを踏み込んでいた頃からみれば、ずっと気持ちに余裕があります。だから、ケヤキの落ち葉を踏む音が聴こえるのです。

子どもと一緒に乗っていたときは、まず子どもの声を聴いていました。子どもが話しかけるのに、耳を集中させていました。「あのね」「な~に」「それでね」「うんうん」「聴いてる?」「聴いてるよ~」。その秋も、自転車のタイヤはケヤキの葉を巻いて進んでいました。

下からのカシャカシャたてる音ををもちろん聴いてはいたのですが、眼は前方に注ぎ、耳は後方にそばだて、脚は踏ん張らねばならず、全方位にとても忙しかった。そのときのケヤキの葉を踏んでいく重い音とこの軽い音は違うと、いまあらためて知ったのです。

それはそうです。以前は、母子の体重がかかった前論と後輪、補助輪と合計4輪のタイヤが、茶色いケヤキの落ち葉を重く踏みしめていたのです。いまは、補助輪にはほとんど重みがかかっていません。ときに接地していないかのようです。つまり、時を隔てて、同時に落ち葉を踏む進む音を聴いているわけです。

子どもは成長し、自分も以前のような体力は失われたように思える。車輪の下から、規則正しくカシャカシャと上がる音に、この一年の、ここ幾とせかの、時の移り変わりを感じているのです。車輪のスポークのように、規則正しく時間は銀色に回り、景色は行き過ぎていきます。

いうまでもなく、道路に敷きつめられたケヤキの絨毯と木々の紅葉は眼に入ってきます。しかし、これはすぐれて聴こえる詩です。ときどき空回りする補助輪の音も聴こえます。
コメント
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