『私小説 from left to right』(水村 美苗 新潮社)を買う。書名のように、本分も英語混じり文が続く、左開き横書き、つまり from left to right 左から右へ書いた、異色の私小説である。会話も「」ではなく、--で示される。タイトルの「帰国子女文学」には、悪意はもちろん、揶揄するつもりもない。
東京生まれ。12歳の時家族と共に渡米。
イェール大学卒業、同大学仏文科博士課程修了。
プリンストン大学講師。ミシガン大学客員教授。
1990年、『續明暗』を刊行し、芸術選奨新人賞を受賞。
現在東京在住。
奥付の短い略歴を読めば、英語はできるらしいが日本語は不自由を含意する「帰国子女」は、この人に対していかにも失礼だろうが、読み出してすぐに、「目線」で引っかかってしまったのだ。欧米のモップと日本の雑巾を対比するところに出てくる(9p)。
An act of great humility -- 大いなるへりくだり
それは掃除をするのに雑巾などというものを使う発想は金輪際おこらず、必ずモップを使うような人たちにとってそうだというだけなのだ。
ローマ法王が異郷を訪ねたとき、その国の地面に平伏し、大地にうやうやしく口づけすることが、大いなるへりくだり、とされるけれども、
私の先祖はいつも目線を下方に据え、大地の低さにどこまでも親しみ引力への抵抗力を最小限にして生きてきたのではなかったか。床や畠や地面と鼻を突き合わせての雑巾がけ、田植え、草むしり。
と続くのだが、この「目線」に、何か批評性のようなものはない。なぜ、しせん、ではなく、まなざし、ではなく、めせん、なのか、明らかではない。だから、「帰国子女文学」といえば言い過ぎだが、どうして、夏目漱石の『明暗』の続編を書くような人が、不用意に(としか思えないのだが)、目線と書いてしまうのか。そこに、帰国子女のもうひとつの含意である、「不思議ちゃん」をうがってしまったのかもしれない。
まだ、読みはじめたばかりで、どんな小説なのか、よくわからない。英語を使って生きてきたという私小説的な意味で、英語混じり文になっているのかもしれないが、それ以上の意味や効果がなければ、あまり意味があることとは、いまのところ思えないでいる。
それは小説を書くのに英語などというものを使う発想は金輪際おこらず、必ず日本語を使うような人たちにとってそうだというだけなのだ。
とでも言い換えられるような逆転がこれから先に起きればよい、と期待しているのだが。
『物語・経済学 誰がケインズを殺したか』(W・カール・ビブン 日本経済新聞社)が、なかなかおもしろいので、『私小説 from left to right』は、後回しになるかもしれない。それにしても、水村 美苗(みずむら みなえ)とは、美しい名前だ。
注:写真は文庫だが、私の読んでいるのは単行本である。
(敬称略)