コタツ評論

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憲法たけくらべ 2

2012-05-06 01:47:00 | ノンジャンル

一葉記念館 東京都台東区竜泉3丁目18番4号

2つの憲法と2つの改正案の前文を読み比べてみると、瞭然としているのは、昭和の日本国憲法がもっとも力強い文章であることだ。敗戦直後なのに、胸張り声高らかな印象である。一方、明治の大日本帝國憲法は、そのいかめしい名に似合わず、ほとんど慎ましやかな風情さえ感じられる。明治維新後、強大な欧米帝国主義列強の顎門(あぎと)の前に投げだされた、まだ「可憐でけなげな日本」の不安と緊張が胸を打つ。

さて、2つの改正案の前文はどうだろうか。2つの憲法といっしょに、4つと並べられないくらい、文章として劣っていることは、誰の目にも明らかだろう。なにより、2つの憲法前文が日本国民に真摯に呼びかけているのに対し、2つの改正案の前文は呼びかけの体をなしていない。明治の帝國憲法前文が穏やかに決意する国民の安全への責任、昭和の現行憲法前文が熱誠を込めて語る平和国家への道、そのような大きい深い精神性はどこにもない。役人がよく書く小手先の文章にしか思えない。

民主的な面ではどうだろうか。1889年の大日本帝國憲法発布から、2012年の自民党改正案まで、123年の年月を経ている。

朕カ在廷ノ大臣ハ朕カ為ニ此ノ憲法ヲ施行スルノ責ニ任スヘク朕カ現在及将来ノ臣民ハ此ノ憲法ニ対シ永遠ニ従順ノ義務ヲ負フヘシ(1889 明治憲法)

この憲法は、日本国の最高法規であり、国民はこれを遵守しなければならない(1994 読売新聞の憲法改正案)


国民は憲法を守れ、といっているのは、明治憲法と読売新聞改正案だけで、現行憲法にはそうした文言はなく、自民党改正案も次のように結ばれている。 

日本国民は、良き伝統とわれわれの国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する(2012 自民党改正案)

明治と読売の前文は、「上から目線」と早合点しそうだが、明治憲法前文にはこういう一文もある。

朕ハ我カ臣民ノ権利及財産ノ安全ヲ貴重シ及之ヲ保護シ此ノ憲法及法律ノ範囲内ニ於テ其ノ享有ヲ完全ナラシムヘキコトヲ宣言ス

朕ハ、つまり天皇は、国民の権利と財産の安全を守り、憲法と法律の範囲内において、その享有が完全におこなわれることを宣言している。国民を守るための憲法だから守れ、という趣旨は、ほかのものと変わりない。むしろ、「朕ハ」と宣言することで、その国家としての責任は明確になっているのに比べ、読売と自民党の改正案では、国民主権を自明として、国政と同一視するあまりに、国家と政府の責任や義務がぼやけている。

その点、現行憲法は異色だ。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものてあつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する(1946 日本国憲法)

読売・自民党改正案とはまったく異なり、国民主権と国政の対立すら視野に入れている。つまり、まず国や政府が憲法を守らなければならない。あるいは、憲法とは、国や政府から国民を守るものである、という視点だ。さすがに他国の人間が書いただけに、できすぎに思える。また、明治憲法と昭和憲法では、その主体は違えども、「朕」と「日本国」に憲法を守る責任を明確に負わせているところは、共通しているといえる。

最後に、誰にも一目瞭然なのは、もっとも尊大な語り口を持っているのが、自民党改正案前文であることだ。私はもちろん、いわゆる護憲派ではない。しかしながら、いま改憲の必要があるとは思えない理由は、たとえば読売・自民党改正案が、前文だけをとってみても、先の2つの憲法より優れているとは、とても思えないからだ。出来の悪いものを良いものと置き換えるのに、どのような意味があるのか、それがわからない。

あるいは、私が知らない、理解していない、勉強していないだけで、大日本帝國憲法や日本国憲法より、読売新聞改正案や自民党改正案に優れた点が数多くあるのかもしれない。あくまでも、素人の憲法談義であり、法律の文言を比較検証しているわけではない。しかし、憲法はまず国民が読むものだ。これが私たちの日本の姿の現れであり、日本という国の物語なのだ。少なくとも、憲法前文をそのように日本人は読む。また、そのように読まれることを期待して書かれるべきものだ。

4つの前文を読んだ限りでは、そうした姿勢-至誠を感じとれるのは、大日本帝國憲法と日本国憲法であり、残念ながら読売新聞改正案や自民党改正案には、それを求めることができない。というか、読売・自民党改正案前文は、日本や日本人について何も語っていない、語るべき何ものをも持っていないからではないか、としか読めない。なるほど、私たちには、語るべき国のかたちがない、という意味で、私たちの身の丈にあった憲法案なのかもしれない。

明治22年と昭和21年、いずれのときも、日本は極東の弱小国家に過ぎなかったが、憲法前文は国民に国のかたちを語り得ているように思う。平成6年と平成24年、かつてからは想像もできないほど、日本は発展繁栄を遂げたはずなのに、国民が選び直すための憲法の前文において、私たちは国のかたちを語り得ない。グローバリズムに関しては、その毀誉褒貶について、あれほど毎日のように、熱心に語るのに。それは、どうして、なぜなのだろうか。

読売新聞改正案や自民党改正案を貶すばかりでは能がありません。では、私コタツに前文の代案はあるのか? あります。いや、ご心配なく、長くはなりません。話は簡単です。

大日本帝國憲法と日本国憲法の前文を並記する。第一章、第一条は、国民主権。これに日本国憲法の前文を付する。第二章、第一条は、天皇の地位。ここでは国民統合の象徴のお言葉として付する。これなら、護憲派、改憲派の両方の顔も立つ。どっちつかずの人も、日本という物語を噛みしめ、思いを新たにすることができる。

憲法の各条文はどうするかって? それは現行憲法の起草に力のあったアメリカさんと、まず相談しないことには現実的ではないでしょう。でもまあ、常識の範囲内でおさまるんじゃないでしょうか。